三田川恵梨香の爪牙
そんな三田川恵梨香の第二の転機となったのは、中学二年生だった。
さてその中学時代三田川は少し怠けてしまい、時として100点を外すような事も増えた。
だが同時に、名門大学卒業が幸福や成功とイコールではないと言う事も理解した。
「ったく、肩書だけ欲しがって中身を磨かないからこうなるのよ!」
登場人物の心理分析やエンターテイメント学の分析のために恵梨香が見ているドラマでは、名門校の肩書を持ちながら落ちぶれたり犯罪に手を染めたりする人間は全く珍しくない。自分としては彼ら彼女らを反面教師として、そうならないように中身を磨いて行く。
家にはすでに、資格取得のための教本が何冊もある。それらをマニアよろしく読み込んでは中学生でも取れそうな資格は積極的に取りに行き、その上で年齢的に取れない資格でも次々と学んだ。
もちろん家事スキルも高め、今では母親に代わって料理をする事も珍しくなくなった。
(どうしてなんだろう。どうしてみんな私の事を天才呼ばわりするんだろう)
言っておくが、三田川の「天才」と言う二つ名は中学生になってからもまったく消えていない。たまに100点を外した所で、「天才でもそんな事はあるんだな」でおしまいだった。
その度にあんたらが怠けているだけと言ってやろうと思ったが、中学生生活最初の半年で百回言ったのに改善されなかった所でもうあきらめており、内心ではそのまま怠けて落ちこぼれてしまえばいいと言う投げやりな考えが育っていた。
実際問題、三田川は同級生にどうしたら成績が上がるのか、具体的な勉強方法を教えて欲しいと言われた。
「そんなの教科書を百回読んで、ノートを一冊まるまる消費して、特にどうしたらそうなるのかって部分をよく書いたり実践したりすればあっという間だよ」
と、まったく嘘偽りのない自己流の学習方法を伝えた。この時すでに英検準一級であり漢検二級だった三田川は、そのやり方で成功していた。
「それをどれだけの期間でやるの」
「み、一週間で」
「それはひょっとしてギャグで言ってるの?」
三日と言う言葉を飲み込んだ相手に対してそう同級生が言い返すと、三田川は心底から失望した。
一週間と言うのは、それこそ最大限の譲歩だった。中学二年生程度の勉強など、三田川は十歳になる前に終えていた。もちろん教科書なんかなくあくまでも買ってもらった参考書を見た上でのそれでしかないが、それでも教科書を見てああここやった所だと思う程度には三田川の頭はすでにその内容を理解していた。
「あなたって本気でバカなの?」
「バカって!」
「私のような凡人でも努力すれば何とかなったの。努力すれば」
くどいようだが、三田川は自分が天才だとはまったく思っていない。自分が努力したのだから、みんなも同じようにすればいいと思っている。
「他人と自分を一緒にしないでくれる!」
「はぁ……」
その果てにかんしゃくに対し、心底から情けないとしか思えなかった。
どうして努力をしないのか。なぜそれだけの事ができないのか。
三田川が指摘される唯一の欠点として、他人と自分の区別がついていないと言う事が幾度か教師からも言われていた。もっともその一面が出るのは勉強絡みだけだが、その時の当たりが時が経つにつれかなりきつくなって行った。
元より「少しでもケンカを吹っ掛ければ吹っ飛ばされる女」だった三田川は、「触れただけでも吹っ飛ばされる女」になっていた。
その後その彼女が成績を上げる事なく繁華街で華美なファッションをするようになったのを見かけた三田川は、彼女を完全かつ一方的に見放した。
(私の言い方がぬるかったのは認めるけど、本当に救いようがないんだから……)
怠惰なのがいけない。怠惰は絶対悪である。
決して出来のよくなかったはずの自分がこうなれたのは一体何のおかげか。その事をもっと強く言うべきだったという後悔が、密かに三田川を支配していた。
「ったく、誰かと思えばガリベン石頭の三田川じゃない。何詰め込んでる訳?」
「資格取得のための教本とノートだけど」
「うわ、ナニソレカッコつけ過ぎ、たまには気を抜かないと破裂するよ」
「一晩寝れば気力なんて戻るけど」
これもまた嘘ではない。どんなに勉強に疲れた所で、一晩、いや三十分も寝れば気力も体力もすっかり元通りになるのが三田川だった。
「天才だってうちの娘は言ってたけど、やっぱり天才なのね恵梨香ちゃんって」
「ああ、天才だな。言っておくがキミの真似をしてうまく行くのは天才だけだよ」
天才。また天才と言われた。しかもまったく真っ正直に。
遠回しに世界が違うと言われているのはわかるが、物の分別が付いているはずの人間からそう言われるのは許せなかった。
「……では失礼します!」
自分はこんなにも真剣なのに、わかろうとしない。
天才の一言で思考停止してしまうだなんて、それでも親か。
なんでそんなにヘラヘラと笑っていられるのか。
(どいつもこいつも、怠け者ばっかり!!)
これがもし幸せな家庭だと言うのならば、不幸な家庭で上等だ。自分は今のところ確かに恵まれているが、いつそうならないと言う保証はどこにもない。
彼女の親がいつ何時どのような災難に遭うのかわからないのに悠長を極めた振る舞いをする事に、三田川は耐えきれなかった。
(もう、容赦なんかしない……)
この時三田川恵梨香は、暴君となる事を決めた。
かかって来るならば来ればいい。努力に努力を重ねて打ちのめすまで。
次の日から彼女は自ら手本を示すとばかりにますます模範的な生徒になり、その上で勉強にも学校・自主とも力を入れた。
これにより彼女はますます肥大し、三田川恵梨香は固まりかかっていた中学校代表の地位を完全に確立した。
そして自分の地位が安泰となったのを見極めるや、暴君の牙をむき出しにした。
二口目には努力が足りないを連発するようになり、自分の失敗には他人の失敗の十倍の責務を持って取り返さんとした。そんな存在に少しでも口を出せば、それこそ徹底的に食われ続ける。
「人の心を踏みにじりもてあそび、努力を嘲笑う事は絶対悪……」
バスケ部の三年生が二年生に向かってお前なんかいくら練習しても無駄なんだよと言う失言を耳にした際には、その彼を人道を踏みにじる悪魔であり、どうしても嘲笑いたいのならば一日百回フリースローの練習をして見せろと言い放った。
口だけと言われないように運動もして手を鍛え上げ百回を実際にやって見せ、その上でさあやりなさいと三年生に命じた時の彼女は、下手な悪鬼羅刹が裸足で逃げ出すほどには恐ろしかったと中学の伝説になりつつある。
そんな三田川恵梨香が、偏差値54に過ぎない学校を選んだのは、一に学費、二に慢心との戦いだった。
(私はもっと慢心を見なければならない、反面教師を得ねばならない……)
そんな彼女が最初に目を付けたのが、市村正樹だった。
彼女は十日ほど市村の観察を続け、そして極めて真面目な演劇青年である彼の姿を見極めて牙を引っ込めた。
その間にも赤井や大川などに牙をむき、その牙が虚勢でない事を示すように必死に牙を研ぎ続け、その時に発見したのが平林倫子と言う存在であった。
なおギャル化したかつての同級生は偏差値48の高校に進学して適当に三田川恵梨香と言う名の「天才」を言いふらし、バスケ部の先輩は自分がお山の大将に過ぎなかった事を知らされて現在ではバスケットボールを止めて、皮肉にも上田裕一と同じく陸上部に回っていた。
さて明日は外伝更新で、その後は5日間お休みをいただきます。10月1日をお待ちください。




