平林倫子の平穏な異世界生活の終焉
平林倫子がこの世界に来てから二十七日後、コーコの家臣となってから十日後。
これまでのセイシン以外の守役の中で三番目の長期勤務となったその日、一人の侍女が震えながら廊下を歩いていた。
「どうしたのだ」
「殿、セイシン様、こちらの手紙をご覧ください」
「何だこれは、我が国の紙のようだが」
「北から来た一人の女性がこの手紙を殿に渡せと……ああ見た所年は十ぐらい、北の国の人間らしき金色の頭をして銀色の服を身にまとっておりますが」
トードー国のそれらしい紙に記された一通の手紙。
国王であるコーコを名指しで指名したその手紙には厚く蝋がされ、開けていない事が丸わかりだった。
「普通に受け取ったのか?」
「最初は門番が中身を改めさせてもらうと言ったのですが、気が付くとその門番が天高く上っておりまして、おそらくは術により。ああそう言えば十一番目の階級を持つと言っておりまして」
「冒険者の位と言う物か。まあそれほどの実力者がいったい何を言って来たのか。見てやるとしよう」
セイシンは封を解き、中を見た。
「現在貴国に滞在しているヒラバヤシリンコは、この国に厄災をもたらす存在である。その役賽を南のノーヒン市へと引き渡させよ。さすれば貴国の繁栄は永遠なり。ひとりの少女に難渋すればこの国の将来は暗し。 ガワエ」
————リンコを追い出せとしか読めない手紙だ。
「リンコ様に何かあったのでしょうか」
「誰が何と言おうとリンコはわしの家臣である、そのような一方的な通告に従う理由は国家としてひとつもない。もしどうしてもそうしたいのであればもう少しましな理由を述べられよとそのガワエなる女性に伝えておけ」
ノーヒン市はトードー国にとって唯一と言うべき敵国、いやどちらかというと危険地域である。
キミカ王国とは鎖国政策でほとんど交遊はないが、戦争もないと言う良い意味で冷たい関係であった。
だがノーヒン市は治安が非常に悪く、北西のエスタと言う町以上に荒れている事をトードー国の国民は皆知っている。多くの獣人たちが行方不明になっているのもそのノーヒン市に連れ去られているからだと断じ、また悪い事をするとノーヒンに放り込むぞは庶民の脅し文句の定番でもあった。もちろんノーヒン市に対して幾度も出兵を行ってはいるが、正直戦果は挙がっていない。
いずれにせよ、そんな場所に大事な家臣を送り込む理由はない事だけは間違いなかった。
(まったく、拙者自ら引き込んでおきながらとは言えただの一家臣に対し、何をそこまでこだわる必要があるのか……その答えを教えてもらいたいな!)
コーコとセイシンは憐れみ一杯の顔をして、手紙の送り主の心を思った。
「この事リンコ様には」
「やめておけ、ただお前の言った通りだとするとそのガワエなる女相当な強者だ。拙者自ら出よう」
「わかりました」
リンコはここ数日、毎日のようにテイキチと叩き合っている。刀と爪と言う違いはあれど元より素人同士、お互い熟達のいい機会だとセイシンは感じていた。
(テイキチはリンコを必死に従わせようとしている。そうして戦ううちに何らかのことをつかんでもらいたい。それもまたセイシンが彼女を選んだ理由なのであろう。
得難き人材は文字通りの宝。それをなぜそこまでして傷つけようとするのか……)
クレーマーなどという言葉を知らないコーコやセイシンであっても理不尽さを覚える程度には、この手紙は理不尽だった。
(まったく、なぜここまで憎めるのだ?預言者気取りもいいが、もう少しごもっともな根拠を示してしかるべきだろうに……!)
主と同じようにセイシンはこのぶしつけかつ一方的な要求を押し付けて来た存在の顔を見聞すべく、刀を握りながら城を出た。
あくまでもサムライらしく決して焦燥に駆られる事もなく、一歩一歩着実に歩を進めながら門を出て、数名の従者を引き連れながらゆっくりと北門へと向かった。
「セイシン様、どちらへ」
「少し面倒な事が起きたようでな、拙者自ら対応する」
そのセイシンと言う名の、統治者側の存在を見つめる市井の住民たちの目線は暖かい。
トードー国は東に海、西に山を臨む国で農産物や衣類なども自給自足できる程度には豊かな国である。それゆえに北のキミカ王国との貿易に必要性を持たず半鎖国政策を取っていたが、それに対して住民が不満を持つ事はほとんどなかった。
極めて単純な話、この国の税金はずいぶんと安かった。
王家とは民百姓ありきがコーコと言う人物の方針であり、彼らさえ富んでいれば国は問題ないとセイシンたちにも言い聞かせていた。
寛容な統治方針に、同時に犯罪者に対する厳罰。窃盗でさえも斬首と言う事の珍しくないほど徹底したやり方は、ほんの一部の人間の不興と圧倒的大多数の人間の興を買っていた。
(その者はなかなかの強者らしいからな、ともすれば鉱山採掘も進むやもしれぬ)
もっともそんな事を考える程度には、セイシンも愛国心としたたかさを兼ね備えていた為政者だった。
ガワエなる「来訪者」は、二人の我が国の兵士を既に害している。その罪をもって、死刑にするもそれに匹敵する重刑である鉱山奴隷にするも自由なのである。
なおこの場合の鉱山は本当に金属を採掘する山だけではなく、犬戦士を殺しに行くことにより得られる金属を手に入れる場所と言う意味もある。実際そんな存在がいるのかは知らないが、腕利きならばそうやって使うのもありだなとか本気で考えているのもまたセイシンだった。
「……なぜ要求をお飲みにならなかったのです?」
「ずいぶんと憎しみの深い事だ、たかが我が国の一家臣をなぜにそんなに名指ししてまで放逐しようとする?」
そんな事を考えながら北門に姿を見せたセイシンに向けて、ガワエなる少女は気を遠くさせるようなため息を吐きながら頭を落とした。
「おい!」
ガワエに向けてセイシンが自分なりの当然の理屈を述べると、ガワエは身じろぎひとつしないまま氷の球をセイシンに投げ付けた。
速度と威力こそ足りていないものの実質無詠唱とでも言うべき攻撃に、セイシンも改めて戦慄を覚えるより他なかった。
「私は全く親切の気持ちで申し上げているのです。彼女はあまりにも危険であり、災厄を呼ぶ存在です。彼女を置いておいてはこの国は腐敗してしまいます」
「そなたは自分の吐いた言葉に現実を無理矢理沿わせようとしている。人間、現実を見てから言葉を吐くべきだろう。リンコ殿をなぜそこまでして排除しようとする?」
「あなたもずいぶんとこの国の事を軽く見ておいでなのですね」
そんな事をしておきながらしなを作るような仕草で自分の欲求を通そうとするガワエに、セイシンは心底から嫌悪感を抱いた。
ただただ、純粋に「ヒラバヤシリンコ」なる存在の排除を望んでいる。
何が彼女をここまで焚き付けると言うのか、百戦錬磨、四十路近いセイシンをして不可解だった。
「貴公はかつてヒラバヤシリンコと言う存在に三族皆殺しにでもされたのか?」
人間、不可解な存在に対してはどこまでも過去の経験をもって押すしかない。
あまりにも肥大した憎悪に対するもっともらしい答えを求めるが、ガワエは首を横に振るばかりだった。
「あーあ」
どこからともなく取り出した杖で刀を受け止めながら、再びガワエは深くため息を吐いた。
その三文字だけで、セイシンはガワエを見限った。
街道沿いの樹木と比べてもあまりにも小さなガワエと言う存在を。
何が善で、何が悪なのかわかっていない。
と言うより自分こそ絶対的な善であり、なぜその絶対善がわからないのかと言う傲慢極まる物言いをセイシンは許せなかったし、もうこれ以上聞きたくもなかった。
「拙者にも慈悲の一つや二つはある!貴殿の深き闇は拙者がいただいておこう!」
「これ以上私を失望させないでください」
極めて平板かつ真剣な心配。
その真剣さがセイシンの心をえぐり、同時にガワエの心をえぐっている。
「ヒラバヤシリンコは現在進行形でこの国の未来を傷つけています。その事がなぜわからないのです」
「彼女は篤実で頭も回る強い人物だ。それがどうやって厄を運ぶと言うのだ?」
「篤実ではなく惰弱、叡智ではなくその場しのぎの小手先、強いとすればそれは虚勢。それもわからないとは本当にあなたはこの国の重臣なのですか?」
「その狂気を晴らしてくれよう」
(これは魔物か、さもなくともそれに類する存在だ。魔物には良質なそれもいるが、目の前の存在が悪質極まる事だけには変わりはない!)
姿を偽装する魔法がある事はセイシンも知っている。
実際幾代か前の君主がその魔法を使い市井の見回りに向かい、国家転覆をたくらむ一党をせん滅したと言う話もある。そのおかげで領国も広がり安寧が訪れ、また同時に禁断の秘法として封印したと言う話もセイシンは知っているし、そのせいか知らないがトードー国産の文学にはいわゆる貴種流離譚が多いと言うのは知っている。
だが今の彼女にそんな暖かさはない。
得体の知れない狂気。それこそ見た目通りの歳月をこなしていただけでは得られないような、静かにして重たい憎悪。
魔物ではないか。いや魔王とは単なる異形の生物であり、生物の中でも飛び切り邪悪な存在。
なればこそもはや容赦など要らない。
「お命ちょうだい!!」
これまでの全てをかけて、目の前の存在を斬らねばならない。セイシンの決意は一挙にそこまで持ち上がった。
セイシンの刀が幾色にも輝き、そして幾倍にも膨れ上がる。
避けようのない巨大な斬撃が、目の前の少女を殺めんとする。
炎、風、氷、雷、大地。幾重にも連なる力を得た刃はどこかを守ればどこかが刺さるようになっており、何人たりとも凌ぎきれる者はいないはずだった。
「どこまでも、どこまでも愚かな……心中したいの……!?」
「その底なしの悪意と心中せよ!!」
顔の部分と言う部分を大きく開き、心の奥底から信じがたいと言う表情を大きくむき出しにして見せつけながら、ガワエは奔流のような斬撃に呑まれて消えた。
「憎しみに包まれた魂に、安らぎあれ……」
セイシンは静かに手を合わせ、チリひとつ残らずに消えたガワエの冥福を祈った。
その祈りが通じたかのように魂らしき物体が空へと昇り、晴天へと消えて行く。
「憎しみから解き放たれたか……神も実に優しきお方よ……」
セイシン自身もまた体が浮き上がり、解き放たれたような感覚になって行く。
樹木が縮んて行く。
そして、ガワエの死体が残らなかったように、セイシンの斬撃の痕跡も残らなかった。
「なんだと……」
セイシンの血の気が一気に引いた。
本来ならば、この一撃により地面が焦げるなり草が燃えるなりしてもいいはずだ。
これまでの技を放った経験からして、そうなるはずだった。
セイシンは紛れもなく一流の剣士だったが、それゆえにすぐに何もかも気づいた。
「本物はいずこか!」
セイシンをして、踵を返して走り出すよりなかった。
あれはまがい物であり、本物は既に侵入しているやもしれぬ!
守るべきはコーコ、テイキチ、そしてリンコ。
自らこの国のために選び取ったも同然の存在に対する果てしなき悪意から守らねばならない。
大事な存在を。
「キャー!」




