平林倫子の唐突な異世界生活
彼女が自分の運命に気付いた時には、体が草にまみれていた。
そんな草まみれの中でも、倫子は決して軽挙妄動しようとせず、現状の把握に勤めた。
それこそ、いじめられ続けて身についたたった一つの技量だからである。
敵の足音を聞けばサッと引っ込み、味方になりそうな人間のそれを感じればじっと構える。もちろん、それ以上に獰猛な暴食の獣は必死に噛みついて来るのだが、それでも身を低くして時間を耐え抜くのが彼女の日常生活だった。
とにかく、これまでと同じように場を眺める。
それが青い。だが一部は葉っぱでおおわれている。どこかの森だろうか。
聞き耳を立てようと、頬を触ってみる。だが、途中ですり抜けてしまった。
と言うか、やけに引っかかる。まるで毛皮か何かを触っているようだ。
疲れ相応に荒れているはずだったが、それにしても不思議だった。
まさかと思い、頭を触る。
何か感触があった。
そして、次は尻。
「……!」
尻尾が生えていた。
驚かない。いや、驚きはしているが声を出す事はない。
少しでも弱みを見せればすぐさま襲い掛かって来る存在がいるのだから。
気を付けなければならない。そう思って気合を入れると、急に爪が伸びた。
「…………」
無言で振るった倫子の手により、五本の爪痕により七枚に分かれた葉っぱが出来上がった。
その鋭さに一瞬おびえ、数秒かけて落ち着き、そして爪を引っ込める事ができたのを確認して、ようやく倫子はため息を吐いた。
何がどうなったのか、そんな事はどうでも良かった。とりあえず、大丈夫だと言う事は把握したつもりだった。
「なに…………これ…………」
その安心と共に、自分の手に気が付く。
少しでも伸ばしていれば即敵に責められるはずの爪が、鋭く伸びている。
そして非常に鋭い。
何より、肉球があった。
「私は……!」
犬か。いや狼か。
それでも倫子は混乱する暇もなく、両足をしっかりと踏みしめ木漏れ日のわりにやけに暖かい日差しの中を歩く事にした。
時々尻尾が揺れ、足に当たる。犬って尻尾ってどうやってるのとか、小学校時代に近所で見かけた犬の事を思いながら、ゆっくりと歩いた。
平林リンコ
職業:ワーウルフ
HP:1000/1000
MP:0
物理攻撃力:250
物理防御力:190
魔法防御力:200
素早さ:200
使用可能魔法属性:なし
その過程で水たまりに映った自分の姿を確認し、自分が改めてワーウルフ、つまり人狼になった事を知り、数字を見定める。
一応現代の女子高生らしくゲームの知識の一つの二つは持っていた倫子には、その数字の意味が分かった気がした。
ステータス表示。自分の力のほどを示す数字だ。
だがこれが強いのか弱いのかはわからない以上、彼女の足取りは軽くなかった。
ましてやこの異形だ。襲われたりしないだろうか、親は無事なのだろうか。
「うわっ……」
それでも必死に息を殺していたこの少女に、見知らぬ来訪者が彼らなりの歓迎会を開始した。鍛え上げられた神経により、ほんのわずかな息だけを出しながら少女は目の前の異形の存在、いわゆる魔物を見張った。
剣を持った、犬の頭の怪物。目つきは鋭く、剣は輝いている。
話が通じる見込みはない。
ハイコボルド
職業:コボルド
HP:100/100
MP:10
物理攻撃力:60
物理防御力:50
魔法防御力:70
素早さ:50
使用可能魔法属性:回復魔法
また数字が見えた。自分に比べれば弱いらしい。
いけるかもしれない。
それでも油断は禁物とばかりにじっと構え、その上で爪を出す。
「ウウウウ……」
「ごめんね、逃げてくれればそれでいいんだけど……」
「ウウウ!」
言葉が通じていない事に対する恐怖はもちろんある。
しかしそれでもこのままでは取って食われて胃の中に放り込まれる事だけは間違いない。でも、できれば殺したくもない。
「ウオオオオ!」
淡い期待を裏切るかのように、ハイコボルドは突っ込んで来た。きらめく剣を握りしめ、走り込んで来る。
――――遅い。200と50と言う数字の差でもないだろうが、まるでスローモーションだった。逃げられるかもしれない。
(こんな弱い相手ばかりじゃない、そうに決まってる!ここで逃げたらもっと強い相手に当たるかもしれない!)
だが腰が引けながらも、倫子は決意していた。
元よりこれ以上の相手に苦しめられて来た自分、自分の力では明らかに抗えず、みんなの力によって何とか耐えられて来た存在との戦いを強いられて来た自分。
「あああああ!」
ゆっくりと歩み寄って来るハイコボルドの脇腹めがけて、爪で薙ぎ払う。
自分としては悲痛を極めたつもりの声。気合と言うよりやけくそ、攻撃と言うより投降勧告。そんな思いが伝わるはずがないのはわかり切った事だったが、それでも死ぬよりはましだとばかりに振られた爪。
その爪により、血が流れ出す。青い血が地面に染み込み、後には一本の剣だけが残った。もちろん爪も染めた。
「へ……?」
倫子は思わず口を抑えた。
鎧袖一触であった事。
血が青かった事。
なぜか剣だけが残った事。
そしてそれ以上に、自分がとんでもない存在になってしまったと言う現実。
その全てが、さほど倫子の胃に残っていなかったはずの食事を野山にぶちまけさせようとしていた。
「私、私、本物の……!」
倫子はなんとなくその剣を拾い、当てもなく走り出した。
叫びながら、襲い掛かって来る魔物を爪で引き裂いた。その度に生まれた戦利品を抱え込んで走った。
化け物だ魔物だとか思っておきながら、自分の方がよっぽど化け物じゃないか。
どうしたらいいの、もう私は元の世界に戻れそうにないの!見た目だけじゃなく中身まで本当の狼のようになってしまったの!
そんな悲痛な叫び声を耳にして寄って来るのは、魔物ばかり。
もしかしたら同族と思われたのかもしれない。嫌だと思うつもりもないけど、そのことごとくが襲い掛かって来るのだからどうにもならない。
死にたくない、死にたくない。ただそれだけ。
落ち着けるのは、魔物がいなくなってなぜか残った剣を拾う時だけ。青い血に濡れた剣と手の感触が自分が生の存在である事を証明する。
制服は既に泥まみれ、靴ひももほどけかけ、左の靴下もずり落ちている。自分が高校一年生であったと言う証がなくなって行く。
叫んでも叫んでも、心が晴れない。なんとか爪を戻して服を直そうとするが、肉球の付いた手ではまともに服も直せない。三田川の攻撃から身を守るために不器用ではないどころか相当器用になったつもりだったのに、決して短くない衣服を直す事ができない。
————ああ、また言われる。ほんのわずかな隙をとがめる存在。魔物よりずっと恐ろしいかもしれない、いや魔物より恐ろしい存在に。
その恐怖心が蘇る前に、また別の魔物が来る。そしてまた爪によって魔物を殺す。
後はもう、走りもしないのにその正か負かわからない連鎖が続いた。
ようやく平林倫子の心が落ち着いたのは、血と同じぐらいの涙を地面に叩き付けた時だった。まさか全滅させたわけでもあるまいとか思いながら魔物たちの遺品と言うべき代物をかき集めては抱きかかえ、全てから逃げるように走った。
「なんだよいきなり」
「あ、あの、ここは……!」
そんな青い血まみれのワーウルフが武器を持って人間の住んでそうな町、その大きな建物に飛び込んだのは、やけくそ以外の何でもない。
自分がどれほど危険な存在かわかるだろう、だったらそれ相応の待遇をしてくれ、正直少しでも落ち着ければそれでいい。
米野崎とかだったら「くっころ」ってのだねとか言ってはしゃぐかもしれない、それだけで自分との差を思い知らされそうな気分になれた。
「ワーウルフのお嬢さん、ここは冒険者ギルドだよ。
見たところそいつの買取に困ってるらしいけどさ、とりあえず列に並んでよ」
「あの、いい、んです、か、私……」
自分の頭の中だけでそこまで行っていた倫子は、かけられた言葉の暖かさに尻尾を立ち上がらせた。
温かい言葉と今まで経験した事のない感覚に、舌が回らなくなる。
「いるんだよな、つい熱くなって派手に獲物を狩りまくる奴。そんでそんな風に青い血まみれになってさ、それで成果を見てハッとしてあわてふためく奴。言っとくけど大半の奴はそうなる前に傷ついて逃げ出すからな」
「ごめんなさい……」
「気にする事はない、お前さんなら調子に乗りそうもねえしな。ってああおい、誰かこの張り切りすぎ冒険者さんの体を支えてやんな!」
ワーウルフって自分にも、血まみれの自分にも、武器を抱えて来た自分にも、この「冒険者ギルド」の人間が敵意を抱いていない事に気づいた途端に、平林倫子の腰から下の力がなくなった。
「おいおい、本当に冒険者じゃねえのか?」
「あの剣はハイコボルドの奴だろ?」
「ワーウルフとか以前にかなり強いぞ、こいつは」
「ああ言っとくけどな、このお嬢さんの獲物をかすめ取ったらランク下がるからなー」
感心、驚嘆、賞賛。どれをとっても悪意のない声が耳に届く。
半年以上、味わった事のない安寧に満ちた空間。
(私……)
まぶたが重くなり、耳が垂れ下がる。青い血まみれの制服の腕を見てかろうじて目を覚まし、両肩を抱えられながらも背筋に力を込める。
「おいこら、お前さ」
「でも順番ってのが」
「このお嬢さんかなり参ってるんだぜ、速い所済ませてさ」
「あの、私、順番通りでいいですから……」
精いっぱいの声を出しながら、少女はじっと順番を待つ。これにケチを付ければ即極悪人の出来上がりだろう存在に屈した他の人間が次々と道を開き、その度に少女は一歩一歩足を動かす。
「あの、皆さん、ごめんなさい……」
「いいっていいって、お前さんを放っておいたら俺たちは極悪非道になっちまうぜ」
「ありがとうございます……」
倫子は飛びそうな意識を必死に保たせながら、職員の男性に向けて名前を告げる。
「字が書けなければその腕でもいいよ」
「書きます……」
肉球でペンを握り、必死に名前を記して行く。
「これなんて読むんだい?」
「ひらばやし……りんこです」
「じゃあこうして書いてくれねえかな」
ヒラバヤシリンコと書かれた紙を見て所在なげに書き直す少女の背中は、どこまでも小さく、そして重たかった。
「本気ですか?」
「わかるだろお前ら、このリンコってお嬢さんがウソつきに見えるのか?」
「見えねえよ!」
本来なら一番下のZランク冒険者から始まる所が、いきなりVランク冒険者になった。
しかも大量の剣はそのまま「リンコ」の私財として認められ、銀貨にして五二〇枚の報酬を与えられた。
「どうして見ず知らずの私にこんな」
「見ず知らずだろうがなんだろうが、魔物を狩るのがいい冒険者なんだよ!」
盛大な笑い声と共に、ヒラバヤシリンコのまぶたは敗北した。
彼女はその肉体が持ち上がり、ベッドに寝かされていた事さえも気づかないまま時を過ごした。
そして目を覚ました後の五日間は、リンコにとって学びの時間だった。
ヒトカズ大陸。
女神様をあがめるノワル教と言う宗教。
魔物の存在。
冒険者ギルドと冒険者ランク。
リョータイ市と言う場所。
その一つ一つを、リンコは丁重に聞いていた。
「それで何かい?お前さんいつの間にかここに来てたんだって?」
「はい……」
「それでワーウルフになったのもわからないだなんてさ、ったく本当に大変な思いをして来たんだね」
「いえ、むしろ安心しているぐらいです。ここ五日ほど、本当に皆さん優しくて。と言うか私ぼったくりをしてるんじゃ……」
「この町には大商人様がいて、南には王国があるからな。下手に信用を損ねりゃそれこそその方々を敵に回すことになる訳よ。
お前さんが着てた服もそりゃもう争奪戦になっててな、最終的に南の王国のお貴族が金貨一枚で買ったわけよ、血まみれのはずなのに」
ワーウルフと言う存在は決してありふれてはいないが、それでも迫害されるほどの存在でもないと言う事も知った。
そのついでにボロボロになった制服を売り、ワーウルフ用に仕立てられた赤いローブも買った。尻尾の穴まで丁重に開けられた下着三枚込みで、それでもお釣りが来たほどだ。
「こんな計算ずくの誠意で軽蔑するか?」
「いえ、むしろ安心できます」
慣れない手で必死にギルドの清掃を行う彼女、このギルドに来た初日に計二十六匹のハイコボルドを狩ったとは思えないほどの穏やかな顔で動く彼女、Vランク冒険者とは思えないほどに穏やかな顔をした彼女。
その笑顔がこの町からなくなったのは、その五日後の事だった。
「サムライ……?」




