3.2 森の中の遺跡にて②
机代わりの平らな岩の上にトールを置き、自分で削った羽根ペンでトールの空白に文字を書き記すサシャの指を確かめながら、あらためて、一人と一冊が本拠地にしている古代人の遺跡をぐるりと見回す。
ところどころに草が覗いているがそれでも形状を保っている石畳と、その向こうにある小さな直方体の建物。木々の間にぽっかりとできた空間にあるのは、それだけ。サシャとトールが契りを結んだあの小さな聖堂から、倒木を利用した小さな筏で足を濡らしながら北向と帝華との国境を成す河を渡り、食べるものも身体を休める場所も少ない初夏の森を這々の体で彷徨った先にあったのが、この遺跡。
だが。一階建ての石造りの建物の方を再び見やり、息を吐く。この遺跡には、先住者がいたらしい。建物の地下にあった少なくない量の粉類と干し肉に目を丸くしたサシャを、思い出す。その『先住者』が、昨今八都内を騒がせている『狂信者』であると分かったのは、遺跡に残された羊皮紙とインクが使われている多量のメモ類と、遺跡近くの木の枝にぶら下がっていた三体の遺体を発見した時。狂信者達は、古代の神々に人間の犠牲を捧げると、北向の都で読んだ本には書かれていた。風に揺れるかつては人であったものを見た時のサシャの泣きそうな表情と、それでも頑張って遺体を埋葬したサシャの強さを同時に思い出し、トールは小さく首を横に振った。
狂信者達はこの遺跡を捨てた。それが、一人と一冊の推測。しかし彼らが舞い戻ってきてしまったら? 不意の震えに、もう一度、サシャの横から木々の影までしっかりと確認する。大丈夫。しかし油断は禁物。『紙』のことを書き終えたのだろう、再び羽根ペンを平らな岩の上に置いたサシャの、目の下まですっかり上気した頬に、トールは小さく微笑んだ。
「もうそろそろ、夏至祭、なのかな?」
傾きかけた太陽を見上げたサシャが、息を吐く。
「子供、できなかったね」
不意に響いた、半分だけ残念そうなサシャの声に、トールははっと胸を突かれた。
北向の小さな聖堂で、サシャとトールは契りを結んだ。北向で被った誹謗中傷と、師匠だと思っていたジルドがサシャにした仕打ち。残酷に打ちのめされた結果、亡くなった母上と同じ場所に行きたいという望みを口にしたサシャを助けたい。その時は、その一念だけで「契りを結んだんだから、子供、できるよな」という言葉でサシャを脅し、サシャから『死』を遠ざけた。だが。やはり、サシャ自身もまだ子供。『本』であるトールと、子供であるサシャでは、子供ができても子育ては難しかっただろう。不謹慎ながら安堵を覚えている自分に、トールは唇を歪めた。
「見たかったなぁ、トールとの子供」
冗談に聞こえないサシャの言葉に、咳払いで気持ちをごまかす。契りを結んだ二人は、子供を育て終わるまで互いに離れがたく思うらしいと、北向の北の端、北辺の修道院の図書室で読んだ本には書いてあった。サシャとトールの間に、そのような感情はあるだろうか? 唇を閉じて、思考を巡らせる。契りを結ぶ前から、サシャとトールは互いに分かちがたい存在だったと、トールは理解している。だから、契りを結ぶ前と後で何が変わったのか、分からないのが、本音。
「叔父上、心配してるよね」
不意にサシャが、トールをぎゅっと抱き締める。
「戻った方が、良いのかな?」
叔父上だけではなく、アラン師匠も、クリスも、カジミールも、ヘラルド事務長もエルネスト先生も、皆、心を痛めているかもしれない。沈んだサシャの言葉に、小さく頷く。しかし、先に『本』であるトールを奪われたからとはいえ、師匠であるはずのジルドを湖に落としてしまったのは、サシャ。誹謗中傷のこともある。北都の西にある図書館から東の隅にある『星読み』の館に向かう時に見た、広場で叩首されて晒されていた罪人の腐りかけた身体が、脳裏を過る。サシャも、あんな風になってしまうのだろうか。それならば、……戻らない方が良い。
「戻った方が、良いよね」
トールに囁くサシャの声は、揺るぎない。だから。
[俺は、サシャとずっと一緒に居る]
ただ静かに、背表紙に文字を並べる。
[一緒に、北向へ戻ろう]
今は、サシャの決意を尊重しよう。静かに、トールはサシャに頷いた。
「うん、ありがとう」
トールをぎゅっと抱き締めたサシャの腕の温かさに、トールの体温も上がる。
[あ、その前に、食料準備しような]
帝華の森を彷徨った時の、蒼白く痩けたサシャの頬を、思い出す。遺跡の地下にある粉類を使えば、パンは無理だが、日持ちがするビスケットを作ることができる。トールの提案に、サシャは笑って頷いてくれた。




