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2.43 湖の幻想 その2

「元気だなぁ、小学生」


 聞き知った声に、振り向く。


「俺達も、あんなに元気だったのか?」


 フェンスの向こうからトールを見下ろす伊藤(いとう)のスーツ姿に、トールはにっと唇を横に引いた。


「次の試合、勝てそうか?」


 暑いのか、スーツの襟を引っ張って汗を拭う伊藤に、今度は少しだけ唸る。チームの連携は、良くなってきている。だが、ゴールを狙う精度が良くない。


山川(やまかわ)の方の、成果は?」


 大判のハンカチで額の汗を拭いた伊藤が、ベンチに座るトールを見下ろしてにっと笑う。


「教授推薦で、大手企業の内定をもらった」


 質問の意図を即座に把握し、トールは伊藤を見上げて笑みを返した。


「へぇ」


 やったじゃないか。伊藤の賞賛に、笑みが照れる。


 交通事故で右足と右手の自由を失ってから三年。大学は一年休学することになってしまったが、大学院に進学させてもらった上に将来も、まあ、安泰。人生、イージーモード過ぎる気も、しないでもないが。ベンチから落ちてしまった杖をリハビリを重ねて字が書けるようになった右手で拾い上げながら、トールは小さく息を吐いた。サッカーはできなくなったけど、……生きているだけ、ましなのだろう。


小野寺(おのでら)とは、どうなんだ?」


 おそらく小学生に混じってボールを蹴りたいのだろう、うずうずと身体を小刻みに揺らし始めた伊藤に、焦らす言葉を掛ける。


「あ、ああ、小野寺は、初任者研修でバタバタしてるけど、忙しいのは教職大学院も同じだったから」


 同棲三年目の余裕、なのだろう。変わらない声のトーンに覚えた羨望を、心の底に押し込む。トールより一年早く大学を卒業した伊藤と小野寺は、工学部の修士課程と教職大学院にそれぞれ進学したタイミングで、双方の両親の許可を得て同棲を始めた。何かと忙しい小野寺を、伊藤は、家事や愚痴聞きなどで支えているらしい。結婚式は、現在社会人一年生である二人の仕事が落ち着いてから。サッカー&フットサルクラブの仲間から聞いた噂と、浮いてきた感情を、トールは再び心の奥底に押し込んだ。


「あ、で、その」


「敵を躱してゴールを狙う方法、教えてやってくれないか」


 スーツジャケットを脱ぎ始めた伊藤に、普段通りの声で、頼む。


「あ、OKOK」


 一瞬の後、伊藤の姿は、小学生の中に混じっていた。


 羨ましい。トールの横に脱ぎ捨てられたジャケットに向かって吐きそうになった言葉を、何とか飲み込む。自分だって、端から見れば十分に『羨ましい』生活を送っている。それで良いではないか。

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