2.29 昨日に続いて
次の日の夕刻。
その日も詩が完成しなかったサシャは、いつも通りのエルネストの言葉を背に、湖沿いを歩いて寄宿する修道院まで戻っていた。
「……あ」
「やっと来た」
低い崖のようになった岸辺を歩いていた時、不意に草陰から、件の不良学生達が現れる。
「昨日はよくも馬鹿にしてくれたな」
「貧乏な下人のくせに」
[逃げろ、サシャ!]
サシャを囲んだ不良学生達の隙間を示して文字を並べる。トールに頷くより速く、サシャは北辺で習い覚えた逃げ方を活かし、大柄な不良学生達の隙間をすり抜け、そして修道院目指して一目散に駆けだした。
だが。
[あっ!]
逃げようとするサシャの、エプロンの裾を、不良学生の太い手が掴む。そのまま、引き摺られるように、サシャの小さな身体は湖の側、不良学生達の方へと引き戻された。
「逃げようとしても無駄だぜ!」
それでも抵抗を示すサシャに、不良学生の一人が一歩踏み出して凄む。その弾みで、サシャの足は、湖の方へと一歩、滑った。
「あっ!」
深い色をした湖面が、視界いっぱいに広がる。
エプロンから飛び出したトールを掴んだサシャの腕の温かさは、しかしすぐに、水の冷たさに変わった。
[サシャ!]
暗くなる視界の中で、叫ぶ。
[放せっ!]
トールを手放せば、水に浮く術を習っているサシャは助かる。だが、トールの叫びに反し、サシャはトールを強く胸に抱き締めたまま放さない。
[サシャ!]
もう一度、叫ぶ。
サシャには、母と同じ道を進むという夢がある。その夢を、トールが壊すわけにはいかない。
視界は、ゆっくりと黒く染まっていく。
サシャの腕の確かさは変わらないが、耳に響くサシャの胸の鼓動は、悲しいほどに弱い。このまま、二人とも死んでしまうのだろう。涙が、トールの頬を通り過ぎていった。
結局、サシャを守ることも、サシャの願いを叶えることも、……できなかった。悔しさも、水の冷たさに支配される。
どこか穏やかで暗いものが、トールの全身を包む。
更なる水底に引き込まれる感覚の次にトールが感じたのは、サシャの細い腕とは異なる、意外な、……温かさ。




