2.26 新学期の図書館①
その日の午後。
「カジミール、なんでヤンを誘わなかったんだろう?」
久しぶりに図書館の廊下を掃除するサシャが、ふと漏らした言葉に、頷きながら今朝のことを思い返す。確かに、ヤンを誘おうとするサシャを止めたカジミールの行動は、秋分祭の日にサシャを『星読み』の館に誘ったカジミールの行動からはかけ離れているように思える。何故だろう? 首を傾げながら、それでも丁寧に壁の埃を払うサシャと同じように、トールも首を傾げた。
その時。
「……あれ?」
首を元に戻しかけていたサシャが、再び首を傾げる。
「ここ、像、あったよね、トール」
俯いてトールの方を見たサシャに、トールは目の前の空隙を過去の記憶と重ね合わせた。図書館の廊下にある、古代の遺跡を模して作られた細い空隙には、古代の遺跡に描かれていたものと同じ、小さな神の像が置かれている。この、二階へと続く階段の側に設えられた空隙にあったのは、確か、上半身が犬になっている人の像。瞳が大きくてユーモラスに見えたので、トールも良く覚えている。その像が、今は、見当たらない。
「どうしたんだろう?」
[ヘラルドさんに聞いてみた方が良くないか?]
唇をへの字に曲げたサシャに、学校の全てを把握する事務長ヘラルドの名を提案する。
「ああ、あの像」
トールの提案に頷いたサシャがすぐに廊下に面した事務室を訪れると、書類整理で忙しくしていたヘラルドはトールの思考通り、サシャの疑問をすぐに解いてくれた。
「煌星祭の時にここに来た、白竜騎士団長の息子さんが気に入って持っていった」
八都をまとめる神帝を守る『白竜騎士団』の現在の団長は、北向の王太子の次弟、セルジュの叔父にあたる人物。その人の息子さんが「欲しい」と言ったのなら、ヘラルドが像を手放すのは、当然のこと。
「なんであんなものを欲しがるのかねぇ」
成り行きでヘラルドを手伝っているようにみえる算術と幾何の助手エルネストの呆れたような言葉に、小さく笑う。ヘラルドとエルネスト、二人が言っているのだから、あの像は白竜騎士団長の息子さんが持って行ったということで間違いなさそうだ。掃除に戻るサシャの頷きを、トールはしっかりと確かめた。
「勉強しなくて良いのか、サシャ」
そのサシャの背に、エルネストの言葉が響く。
「学習計画、遅れてないか?」
「あ。……いいえ」
再びエルネストの方に顔を向けたサシャは、少し考え、そして首を横に振った。
午前中、幾何と文法の教授に面会したサシャの学習計画は、結局のところ、春に立てたものから変更は無かった。来年の煌星祭までの、ほぼ一年半分の学習計画を入学時に立てているのだから当然だろう。サシャ自身は、母と同じように帝華の大学へ行くためにできるだけ早く自由七科の資格を取ろうと頑張っている。だが。
「病気で倒れてた日数、多かったんだろ?」
あくまで軽いエルネストの言葉に、サシャが俯く。
そう。風邪をひいたりお腹を壊したり、暗殺者の卑劣な毒に冒されていたりがあったが故に、結局、あと一年はこの北都の学校で頑張らないといけないことになっている。
サシャの悔しさは、大きいだろうな。俯いたままのサシャの、暗い表情に思わず唸る。
「ま、倒れていた分は、今から勉強すれば良いさ」
明るいままのエルネストの言葉に、サシャはようやく顔を上げ、そしてこくんと頷いた。
「と、言うことで、掃除は切り上げ」
「事務仕事も、エルネスト君がやってくれるから、心配する必要は無いぞ」
サシャを見て笑うエルネストを見やり、ヘラルドがにやりと笑う。
「え? まだ手伝うんですか?」
「当然。書類はまだ残っている」
「今日はこれで終わりにしたかったのに」
「後輩に勉学をさせない気か?」
「はいはい」
ヘラルドの言葉に、エルネストは観念したように肩を竦める。
サシャを気遣ってくれる大人は、たくさん居る。そのことが、……嬉しい。二人に促される形で閲覧室に向かうサシャの、エプロンの胸ポケットの中で、トールの心は温かい思いで満たされていた。




