2.11 夏の日々
この場所でも、夏至を過ぎると暑くなるんだな。湖に飛び込む小さな影を眺めながら、息を吐く。日も、まだ傾く気配を見せていない。サシャの水練は、まだまだ続きそうだ。湖畔の、水から遠い岩の上に置かれたトールの下にあるサシャの服の固さを確かめながら、トールは湖の方へと首を伸ばした。
[あれかな?]
独り言を呟きながら、湖面の煌めきに目を細める。自分よりも小さい、漁師見習いの子供クリスにからかわれながら、クリスの膝より上まで水があるところで、サシャは一生懸命水に浮く練習をしていた。とりあえず、うつ伏せで浮くことができるようになっている。サシャの横で器用に水を掻いて泳ぐクリスに、微笑みを浮かべてしまう。小中学校の着衣泳の授業では「服を着ていても落ち着いていれば沈まないから、口と鼻が水面の上に出る仰向けの格好で浮いて救助を待つ」よう教えられたが、この世界には緊急事態を素早く伝えることができる携帯電話などの機器は無い。湖に落ちても自力で岸に辿り着けるように、サシャも泳げるようになっておいた方が良いだろう。背泳ぎができるようになると良いのかな? クリスが立てた水飛沫に立ち上がってしまったサシャの、背中に走る醜い傷に、トールは無意識に首を横に振っていた。
もちろん、水泳以外の勉強も、サシャはきちんとこなしている。意識して、北辺でサシャに大怪我を負わせた卑劣漢の顔を振り落とす。サシャが一番頑張っているのは、算術と幾何と天文。夏至祭の時も、北向における『星読み』の総責任者、『星読み』博士ヒルベルトを手伝っていた。同じ『星読み』であり、サシャに「困難な道を行け」と指示した老人ザハリアーシュは怖いと思ったが、秋津人らしい濃い色の髪と髭を大きく動かして笑うヒルベルトは、明るい上に指導も明確。『星読み』になるには体力が必要であるように思えるが、『星読み』になるという進路も、サシャにはあるのかもしれない。
一方、進んでいないのは、修辞と論理。特に、図書館の閲覧室を訪れる度にエルネストにからかわれる詩作と、相手が必要な討論が、できていない。詩については、いつも持ち歩いている蝋板にそれらしいことをメモしているようなのだが、トール自身、詩作は学校で習っていない。サシャが作っているものが詩なのかどうか分からないのが本音。今はトールの下になっている蝋板の、布とは異なる固さを確認し、トールは大きく唸った。
討論の方も、引っ込み思案なサシャには至難の業。授業と、事務長ヘラルドの手伝いが終わった後はいつも、図書館の閲覧室で手当たり次第読める本を読んでいるサシャだから、討論用の知識は持っているはず、なのだが、こればかりは性格だから仕方が無い。討論は、人格を否定するものではなく、他者の意見を聞きながらよりよい提案を考えていくものだと、トールが大学図書館で読んだ本には書いてあった。そのことを、サシャにきちんと伝えることができれば、サシャも討論に参加しやすくなるだろう。討論の授業の度に教室の壁際に後退ってしまうサシャから聞こえる忙しない鼓動が耳を過ったように感じ、トールは再びしっかりと頷いた。
そう言えば。再び浮く練習を始めたサシャを邪魔するクリスの無邪気な笑顔に、肩を竦める。『紙』の制作も、実は上手くいっていない。トールの母が授業で言っていたように、材料を一つだけ変えて手順を繰り返してみたり、草を煮る火の大きさや時間を細かく変えたりしているのだが、『紙』だといえるものは、未だにできていない。紙を作るのは、意外と難しい。サシャが寄宿している修道院周辺の丘やその周りの畑に生えている草以外も試してみなければ。そう考えたトールの脳裏に過ったのは、タトゥと名乗った、『冬の国』から現れた大男の姿。
『冬の国』については、『冬の国』へ向かう修道士達用の資料が、修道院の図書室に結構な分量、あった。だが、タトゥの件の後、サシャと一緒に読んだ資料は『冬の国』について見下しているものが多く、サシャもトールも読んでいて気分が悪くなった。『冬の国』のことやその国の言葉は知りたいが、他の勉強も多い。とりあえず後回しにしようというのが、サシャとトールが出した結論。
もうそろそろ、サシャも泳ぎ疲れる頃合いだろう。夏の日の傾き具合と、トールの横に置かれているタトゥからもらった短刀の膨らみと、サシャが殊更丁寧にエプロンに付け直した、タトゥが返した釦の硬さを確かめる。現在、サシャのエプロンには、トールを入れる襠付きのポケットの他に、蝋板と蝋板用の筆記具である尖筆が入るポケットと、タトゥからもらった短刀を納めるポケットが付いている。そのうち、サシャのエプロンはポケットだらけになるのでは? 取り留めの無い思考に、トールは、予想通り湖から上がってきたサシャの青白い頬に笑って見せた。




