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2.3 幾何の証明

 事務室に預けてあった筆記用具一式と、ヘラルドからもらった穴の見える羊皮紙を手にしたサシャが、広い廊下を挟んで事務室の向かいにある閲覧室の、窓からの日差しが入らない机に腰を下ろす。


 閲覧室にいるのは、本棚の間に書見台を滑り込ませ、鎖の付いた本を読んでいる、算術と幾何の助手をしているエルネストという名の背の高い青年だけ。授業期間ではないので、学生らしき影は見当たらない。他の学生は、休んだり就職活動をしたりしているのだろう。


 本も、トール基準で考えると、少ない。エプロンのポケットからトールを取り出し、広々とした学習用の机の上に置いてから、トールが入っているのと同じポケットから学習内容をメモしたりレポートの下書きをしたりするために用いる蝋板を取り出して広げたサシャを横目に、閲覧室をぐるりと見回す。この世界では本を作るための紙が貴重品であるし、印刷技術も無いから手書きで書き写さない限り本は増えない。トールの世界とは、比較できない。小口と鎖しか見えない本棚に、トールは小さく微笑んだ。


「歴史の本、持ってきた」


 トールが辺りを見回している間に席を立ったサシャが、鎖が付いていない本をトールの上に置く。


『古代の民は、現在の八都(はちと)の南側に帝国を築いたが、現在の北向(きたむく)や「冬の国(ふゆのくに)」にも、南に負けない文化を持った人達がいた』


 頭の中に流れてきた言葉に、トールはサシャに向かって頷いて見せた。


 そのトールに頷き返し、再び机に腰を下ろしたサシャが、少し毛羽立った羽根ペンを小さなインク瓶に浸す。羊皮紙の端に小さな二等辺三角形を慎重に描くと、羊皮紙の大きさを確かめながら、サシャは小さいがはっきりとした文字を丁寧に、羊皮紙に刻み始めた。


 サシャは現在、この北都の学校で、『自由七科』という、文法、修辞、論理、算術、幾何、音楽、天文の七つの科目を勉強している。文法は古典や歴史、宗教や法律の本を読む勉強。修辞は弁論や詩作といった書き方の勉強。論理は哲学らしいが、他の人々の意見の聞き方やどのように説得するかといった討論技術も含まれているらしい。算術は暦法と代数。幾何はトールが中学や高校で習っていたものと同じ図形関係。音楽は歌い方より音に関する仕組みに重点が置かれていて、天文は天体の運行についての授業となっている。国語と数学が殆どで、たまに歴史や公民を学んでいる。それが、サシャの勉強を観察したトールの理解。学習方法も、『教授』と呼ばれる先生の授業を聞き、助手の先生の許で演習問題を解く。その上で、学生同士で議論を重ねたり、本を読んで知識を深めたりといった方法が取られている。実験や観察が無いだけで、トールの世界の大学における『学び』との違いは少ない。自由七科は、規定された授業を聞き、レポートを幾つか作成し、教授が出す口頭試問に合格すれば『知識を得た』と認定される。その、資格試験のような部分が、トールの世界と異なるだけ。


 唇を横に引き、レポートの下書きが刻まれている蝋板を時折確認しながら文字を書くサシャを横目で確認する。サシャが清書しているレポートは、幾何の授業で出されたもの。『二等辺三角形の底角が等しい』ことを、二等辺三角形の性質である『二つの辺の長さが等しい』ことと、『二辺とその挟む角が等しい三角形は合同である』ことを用いて証明する。トールが中学校で習った『角の二等分線』や『線分の二等分』は、サシャが聴講している授業ではまだ証明していないので使えない。どうすれば、解けるか? 問題を刻んだ蝋板を見つめて何日も考え込むサシャに、トールは何も言わなかった。解答は、サシャ自身が見つけないと、サシャのためにならない。


 サシャが解答を見つけたのは、修辞で出た詩作の課題にも頭を抱えていたサシャに「詩を作るには詩をたくさん読んだ方が良い」という助言をした算術と幾何の助手エルネストを手伝って、古い詩の本を写す作業をしていた時。


「二等辺三角形って、裏返しても二等辺三角形だよね?」


 詩を写す途中の、薄過ぎて裏の文字が透けて見えるのではないかとトールは危惧してしまう羊皮紙を裏返したサシャの、ほっとしたような笑顔を思い返す。元の二等辺三角形と裏返した二等辺三角形が合同であることを利用して、サシャは二等辺三角形の底角が等しいことを証明した。


 実を言えば、トールは、『二等辺三角形の底角は等しい』ことを、角の二等分線や線分の二等分を使わずに証明する方法を知っている。トールが所属していた工学部物理工学科では、大学で規定されている授業の単位を全て取ることによって中学校と高校の数学の教員免許を取ることができた。だからトールは、事故の前まで、教育学部に進学して数学の教員免許を取ろうとしていた小野寺(おのでら)と、(通路一つ分は空いていたが)机を並べて、サシャが解いたものと似たような問題について何度も悩んでいた。


 トールが数学の教員免許を取ろうとしていたことを、教育学部で数学を教えていた母はどう思っていたのだろうか? 証明を書き終えた羊皮紙と下書き用の蝋板とを見比べるサシャを確かめ、息を吐く。あのまま、トールが生きていれば、後期は、母が教鞭をとる応用数学の講義を、小野寺と一緒に受けていたはずだ。母の授業を受ける息子を見て、母はどんな顔をしたのだろうか? 小野寺のことを頭から追い出すために、トールは殊更大きく息を吐いた。

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