1.33 柔星祭の前のあれこれ①
『「神帝」の地位は、まず北向の者が、そして春陽、南苑、西海、東雲、秋津、夏炉、そして再び北向の順にその責を引き受ける。これは、八都が誕生した時に、初代神帝の許で七つの国が籤を引くことによって……』
順調に頭の中に入ってきていたはずの文字列が、不意に中断する。
不快感を覚えつつ顔を上げると、きらきらとした赤茶色の瞳が見えた。
「へへっ」
その瞳の持ち主、リュカが、トールの裏表紙を開いて口の端を上げる。
『祈祷書』には、持ち主の名前を必ず記入するよう定められている。だが、『本』に転生したトールの裏表紙裏に書かれた名前は、二つ。そのうちの一つ、『Luca』というつたない文字をなぞるリュカの小さな指の感覚を、トールはこそばゆく感じていた。
リュカが、自分の名をトールの裏表紙裏に書いたのは、昨日のこと。もちろん、リュカの名前の下には、トールの本来の『持ち主』であるサシャの名前も、きちんと刻まれている。トールの裏表紙をパタンと閉じ、再び、現在はこの修道院の院長代理となっているジルド師匠に課せられた課題を、アラン師匠から借りっぱなしの大きい石板を使って不器用に解き始めたリュカの揺れる身体に、トールは小さく微笑んだ。欲を言うなら、修道院の雑務に取りかかる前にサシャが置いてくれた歴史の本をトールの上に置いてから、自分の課題に取りかかってほしかった。そうすれば、この世界の歴史を早めにマスターできるのに。リュカには届かない思考に、トールは肩を竦めた。
リュカの名前がトールの裏表紙裏に刻まれているから、トールの『読書』を助けるためにサシャが図書室にトールを置きっぱなしにしていても、「自分の『祈祷書』は常に持ち歩かなければならない」という規則には違反していないことになる。先刻、図書室に現れた厳格なジルド師匠も、トールにリュカの名前が刻まれていることを認め、苦い顔をするだけで立ち去った。トールにリュカの名前を書くことを認めたサシャは、ジルド師匠の反応まで予測していたのだろうか? 案外、良いかもしれない。文字を書くことにもう飽きたのか、石板にでたらめな線を引き始めたリュカに、トールは今度は大きく口の端を上げた。
トールの思考を唯一理解できる存在、サシャは今、トールとリュカがいる図書室にはいない。もうすぐ行われる『柔星祭』のために、聖堂を飾る布や器具を準備するサシャの叔父ユーグの手伝いをしている。普段のユーグの仕事は、森の聖堂で行っていたことと同じ麻績みと羊毛紡ぎ、機織りと洗濯と細工物の修繕だが、やはり、大きな祭典の前は準備の方に時間を取られているようだ。どこの世界も同じだな。『読書』ができないために暇になった頭を、トールは静かに動かした。アラン師匠のつてで、修道院を手伝う人手も増やしたらしい。これは、ジルド師匠とアラン師匠との投げつけあうような会話の中から聞こえてきたこと。だが、人が増えても結局、サシャの忙しなさに変化はない。
『柔星祭』が近い、と言うことは。指を折って日を数える。サシャが風邪で倒れたのが『冬至祭』の少し前、リュカがこの修道院に来て、サシャとユーグが森の中の聖堂からこの修道院に引っ越したのがその後。『柔星祭』は、トールの世界で言うところの『立春』にあたるから、サシャ達が修道院で暮らし始めてから一月ほど経った計算になる。トールがこの世界に来たのは、トールの世界では『立冬』にあたるらしい『煌星祭』の頃、だから、トールがこの異世界で暮らし始めて三ヶ月ほど、に、なる。計算中に湧き上がった苦い感情を、トールは何とか飲み下した。
「サシャ!」
そのトールの横で、石板にガタガタの線を引き終わったリュカが歓声を上げる。
「お腹空いた!」
もうお昼なのか。リュカの言葉に、南向きの開放窓から見える陽の光を確かめる。雪が降りそうな厚い雲に覆われた空は、上の方だけが僅かに明るい。確かに、昼だ。お腹が空かない自分の身体に、トールは首を横に振った。
「あのパンケーキ、また作って、サシャ」
落ち込むトールの横で、図書室に入ってきたサシャの腕をリュカが明るく掴む。
「分かりました」
サシャも、リュカの言葉に逆らわない。
サシャの冷たい手が、トールを掴む。ささくれが増えているのでは? そう、トールが思考する前に、トールはサシャのエプロンの胸ポケットに収まっていた。




