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1.29 思いがけない否定①

「リュカ、良い子だったね」


 森を貫く凍った道を、滑らないように注意しながら歩くサシャの声の明るさに、ほっと息を吐く。


 結局、昼食の後も、サシャは夕方までリュカの勉強――リュカが字の練習に飽きた後は、サシャが地理の本を音読した――に付き合うことになった。その所為で、日課である回廊の掃除ができなかったが、ジルドはそのことを咎めなかった。いや、本当はサシャに雷を数発落としたかったに違いない。回廊の隅で楽しそうに字を書いているリュカを見下ろしたジルドの、苦虫を噛み潰したような顔が脳裏を過る。修道院からの帰り道も、途中まで、リュカを迎えに来た、トールの父くらいの年齢に見えた熟練の兵士と一緒に帰ったので、テオの理不尽な攻撃は受けずに済んでいる。


 『権威』に頼ることは「格好が悪い」と、何となく感じてしまう。だが、リュカのおかげでサシャは助かっている。使い方を間違えなければ良い、だけ。サッカー部の先輩に殴られた時、トールは、大学の先生である母の『権威』を頼もしく思った。これは事実。


「リュカ、賢いし、きっと前の神帝(じんてい)猊下と同じくらい立派な神帝になるよね」


 考えるトールの耳に、サシャの柔らかい声が響く。


 小さい子に頼り切ってはいけないことは、分かっている。だが、リュカがいれば、サシャの勉強も、サシャが目標としている都の学校への進学も、何とかなるかもしれない。膨らむ期待に、トールは大きく頷いた。




 だが。


「あれ?」


 森を出る前に、森の出口に立つ細い影を認める。


 その細い影の持ち主、サシャの叔父ユーグは、森から出てきたばかりのサシャをその細い腕でしっかりと抱き締めた。


「叔父上? どうされたのですか?」


 冷たい腕の中で、トールと同じ戸惑いを覚えたサシャが小さく問う。


 その問いに答えたのは、ユーグ叔父の、揺るぎない声。


「明日からはずっと私の側に居てください、サシャ」


 何故? 疑問を、そのまま表紙に浮かべる。しかしもちろん、トールの疑問に、ユーグの答えはなかった。


「……分かりました、叔父上」


 トールと同じように頭が真っ白になっているはずのサシャの頷きが、トールの戸惑いを更に増やす。


 ようやくサシャから腕を離したユーグの普段以上に青白い顔と、俯いたサシャの唇の震えに、喉の苦しさを覚える。ユーグと共に自分の家へと帰るサシャの鼓動の早さを読み取り、トールは大きく首を横に振った。

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