1.28 新たな友人③
しばらく、サシャが書く字をまねようと努力するリュカを、サシャのエプロンの胸ポケットから見守る。
「お腹空いた」
柔らかな太陽が高くなった頃、リュカは字を書く手を止め、サシャを見上げた。
「お昼御飯食べよ」
頷くサシャを確かめてから、リュカは台所の方へと踵を返す。
軽い足取りのリュカを追って入った台所には、誰もいなかった。
「卵と粉がありますから、パンケーキを作りましょう」
台所を見回したサシャが、手早く、材料を作業テーブルに集める。
「この、塊は……?」
「それ『お砂糖』だよ」
トールも見たことが無い、上の棚に置かれていた鍋をひっくり返したような円筒形をした茶色の塊に首を傾げたサシャに、リュカの明るい声が響いた。
「砕いてパンケーキに入れると甘くなるんだ」
砂糖は確か、南にある春陽や南苑でサトウキビらしき植物から生産されているものと、東雲の東の端にある森にある樹から採取する樹液を煮詰める、トールの世界で言うところの『メープルシュガー』のようなものがあると、地理の本に書かれていた。前に記憶した知識を引っ張り出す。どちらの方法で作られる砂糖も高級品であり、大抵は『薬』、あるいは王族や貴族間の贈答品として使われているとも書かれていた。おそらく、リュカがこの修道院でお世話になるにあたり、砦の隊長が修道院に贈ったもの、なのだろう。
リュカの指示を聞いたサシャが、手近にあった木槌で塊の端を叩いて得た砂糖の小さな塊を更に砕いて細かくし、卵と粉を混ぜたパンケーキの種に混ぜ入れる。そのサシャの、砂糖を扱う緊張感からかいつになく震えているように見える手に、トールは吹き出すのを何とか堪えた。砂糖があるのなら、卵白も泡立てやすくなるし、泡立てた後も崩れにくくなる。泡立て器があれば、妹の光が作っていた、流行に乗ったふわふわのパンケーキも作れるかもしれない。いつかサシャに、あのふわふわのパンケーキの作り方を教えよう。サシャが器用に焼いた、綺麗な焦げ色が付いた平べったいパンケーキと、小さな陶製容器に入った、修道院で採取している蜂蜜をそのパンケーキにたっぷりと掛けて頬張るリュカの笑顔に、トールは記憶を新たにした。
「サシャの両親は、どんな人?」
口の周りを蜂蜜でベタベタにしたリュカが、その横で何もつけずに自作パンケーキを頬張るサシャに尋ねる。
「母は、先生をしていました」
「お父様は?」
あくまで無邪気なリュカの問いに、トールの耳に響くサシャの呼吸が、一瞬だけ止まる。
「分かりません。僕……あ、私が生まれる前に亡くなってしまったので」
「あ、……ごめん」
謝るリュカに、サシャは頭を振った。
「でも母は、父は立派な人だったと、言っていました」
「なら、良い人だったんだね」
そう言ってにっと笑ったリュカの口元から、余った蜂蜜が一滴だけ零れた。
「ぼくのお母様は、砦にいる。北辺を守ってるんだ」
その蜂蜜を拭った手の甲を素早く舐めたリュカが、自分の両親のことを話す。リュカの父は、北向の南西にある秋津の国の王族で、星の観察と暦の作成を主たる業務とする『星読み』の長の一人らしい。
武を仕事とするリュカの母と、リュカの父との接点は、『王族である』という部分だけだな。口の周りの蜂蜜を舌で器用に舐めとりながら話すリュカに、小さく首を傾げる。『契り』を結んだ後、どちらに子供ができるか分からないので、『契り』を結ぶ相手は『同等』であるのが良いと、これは確か『祈祷書』の注釈に書かれていた。だから、サシャの父も、おそらく、母と同じようにお金の無い、しかし勉強はできる人だったのだろう。リュカの言葉に耳を傾けているサシャを見上げ、トールは、注釈書を読んだ時の思考を繰り返した。
「お母様はね、……ぼくのために、この砦の隊長になったんだ」
不意に小さくなったリュカの言葉に、はっとする。
同時に思い出したのは、サシャが風邪で寝込んでいる時に聞こえてきた、グイドの声。リュカを『神帝候補』と定めた、予言を主たる業務とする『星読み』の長は、同時に、リュカよりも相応しい候補がいるという言葉を残した。それが、グイドが聞き込んできた噂。
「ぼくを神帝候補に選んだ『星読み』の偉い人がね、ぼくの他に神帝候補がいるってお母様に言ったから、お母様、ものすごく心配して」
リュカの他に神帝候補がいるということは、すなわち、自分の息子であるリュカを暗殺し、神帝候補になろうとする輩がいるということ。そう解釈したリュカの母は、リュカを守るために、この辺境の隊長を志願した。リュカの言葉に、何とか頷く。
「でも、お父様は北都で星読みの仕事が残ってるから、代わりに、お母様の従兄って人が副隊長で来てるんだ。……お母様の邪魔ばっかりしてるみたいだけど」
その従兄のことは、グイドは言っていなかった。どこからか表れた緊張感に、トールの背筋が伸びる。しかし子供のリュカの目からしても、あまり有用な人物ではないようだ。やはり当面は、テオと、……ジルド師匠のことだけを心配すれば良い。再び、サシャをそっと見上げ、トールは今度は大きく頷いた。
「ところで、サシャ」
不意に、リュカの手がトールの方へと伸びる。
蜂蜜が付いたべたべたの手で触られるのか? 思わず身構える。だが幸いなことに、リュカの手は、サシャがエプロンに新しく付けた木製のボタンの前で止まった。
「『祈祷書』に、名前、書かないの?」
「え……」
リュカの問いに、サシャは僅かに頭を振る。
そういえば、個人で持っている『祈祷書』には持ち主の名前が書かれていると、トールがサシャと初めて出会った時のジルド師匠も言っていた。しかしサシャは、今になっても、トールに名前を書いていない。遠慮、しているのだろうか?
「字が書けるようになったら、ぼくの名前、書いて良い?」
「え……」
絶句したままのサシャに追い打ちを掛けるように、リュカが満面の笑みを浮かべる。
[良いんじゃないか?]
そのサシャに見えるよう、トールは背表紙に文字を並べた。トールにサシャ以外の名を刻まれるのは、何となく腑に落ちない。しかしリュカが字を学ぶ目標になるのなら、サシャにとっても良いことになる、かもしれない。
「良い、ですよ」
数瞬の躊躇いの後、サシャが頷く。
「やったぁ」
約束だよ。満面の笑みを浮かべたまま、リュカはサシャの右小指に自分のべたべたの小指を絡ませる。トールの世界と同じ、その仕草に、トールはほっと胸を撫で下ろした。




