1.27 新たな友人②
「リュカ様」
サシャの声で、昔から今へと思考が戻る。
「リュカで良いよ、サシャ」
「あ」
リュカの言葉に声が途切れるサシャに、トールは、過去のことを思考の横に置いた。
「リュカ。えっと、……ジルド師匠から言われた課題は終わったの、ですか?」
そういえば、図書館を出る前に、あの多色刷りの絵がある本のここからここまでを覚えるよう、ジルドはリュカに言ってたっけ。そのことをようやく思い出したのか、自分の課題の方に目を移したリュカに、トールは思わず微笑んだ。
だが。
『神は、二日働き一日休むことを二回繰り返された。神には及ばぬ我々も、神に倣い、神のために二日働き、自分のために一日働くことを二回繰り返し、その後、神を讃える日を一日設けた』
自分の本からサシャへと視線を移したリュカが、『祈祷書』の中にある注釈の内容を暗唱する。
「子供用の『時祷書』なんて、前に母上が読み聞かせてくれたから全部覚えてる」
[え?]
リュカの言葉に目を瞬かせたサシャと同じ驚きを、トールも持つ。聞くだけで本の内容を覚えることができるとは、凄すぎる。目の前の小さな子供を見直すように、トールは目を見開いた。
同時に、伊藤と一緒に勉強していた小野寺が、トールの向かいで書いていた教育系のレポートが脳裏を過る。覚えるだけが学習じゃない。小野寺のレポートには、確かにそう、書かれていた。知識・理解だけでなく、思考力や判断力、表現力の育成も必要である、と。書いたり、学習したことを応用したりすることができるよう、教師は児童・生徒を諭し導く役割を担う必要がある。短い髪をかき上げながら長い文章を書いていた小野寺の幻影を、トールは首を強く横に振ることで追い出した。
「それでは、次は書く練習ですね」
そのトールの横で、サシャが、机の上に置かれていた濃い色の板を手に取る。小さな黒板に似たそれは、スレートで作られた書写用の石板。紙が貴重であるこの世界で字の練習に使うものだと、前にサシャから聞いている。
石板を自分の前に置き、白墨を手にしたサシャが、石板の上半分にリュカの名を綴る。サシャが手渡した石板を自分の前に置いたリュカは、サシャから手渡された白墨を半ば乱暴に石板の上に滑らせた。
[え?]
石板に書かれた線に、再び驚きの声を上げる。リュカが書いた線は、サシャが書いた文字とは似ても似つかぬものだった。トールが見ても、『文字』になってないことが分かる。
「か、書けなくても、神帝になったら代筆してもらえば良いもん」
再び、驚きで目を瞬かせたサシャの前で、膨れっ面をしたリュカが手の中の白墨を振る。
「でも、名前が書けないと、代筆してもらった手紙にサインができない、『自分の意向』だという証明ができない、のでは?」
「い、印章で何とかする」
読み書きは、トールにとってはある意味『当たり前』の能力。では『書く』ことができた場合の利点・便利な点は何だろうか? サシャの言葉に反論するリュカの声を聞きながら、トールは思考を巡らせた。そうだ。……自分の記録を、自分の思考を、自分の手で残すことができる。自分の小さな部屋に残した、誰にも見せていない、お小遣い帳を兼ねたメモのような日記帳を、トールは気恥ずかしさと共に思い出した。見た目は授業用のB5ノートと同じそれは、古いものはメタルのCDを片付けた箱の奥底に、新しいものは数学のノートの間に混ぜ込んで置いてある。父か母が部屋を片付ける時に、きっと読まれてしまう。小野寺への想いも綴ってあるあのノートは、伊藤が小野寺に想いを伝えたら破り捨てるつもりだったのに。過剰に分泌された唾を、トールは素早く飲み込んだ。
「書く練習は、したいけど」
そのトールの横で、膨れっ面を崩さないリュカが呟く。
「文字、小さすぎて、どれも同じに見える」
どうすれば字が書けるようになるのか、小学校の先生になるために教育のことを勉強していた小野寺にちゃんと聞いておけば良かった。後悔を、小野寺の幻影と共に再び思考の横に置く。小さい文字がダメならば、大きい字で練習すると良いのでは? 思いつくままに、トールは自分の表紙に言葉を浮かべた。
トールの思考を読み取ったサシャが、少しだけ天井を見上げる。そしてサシャはすぐに、にこっと微笑んでリュカの方を見た。
「大きい字が書ける石板がありますよ」
トールをエプロンの胸ポケットに入れたサシャが、リュカに手招きをして図書室を出る。
サシャとリュカが向かった先は、図書室の隣。アラン師匠が薬草を調合する時に使う部屋。
「アラン師匠」
今日も慎重に、よく分からないすり潰した物質を天秤の上に少しずつ置いているアランの背に、サシャが小さく声を掛ける。
「ここにある大きな石板、貸してもらえませんか」
「ああ、良いさ」
何に使うのかは聞かず、そしてサシャ達の方を振り向くことなく、アラン師匠は鷹揚に頷いた。
アラン師匠が薬草の調合をメモする時に使う、サシャよりも一回り大きい支え付きの石板を、サシャ一人でどうにか調合室の外へと運ぶ。
[ちょっと待て、サシャ]
そのまま、図書室へと石板を運ぼうとしたサシャを、トールは不意に思い立って制止した。
[図書室で白墨を使いすぎたら、また掃除をしないといけなくなる]
トールの脳裏を過ったのは、授業中に使うチョークでいつも白く汚れていた母の右袖。字の練習をする白墨の所為でジルド師匠に怒られて、掃除をやり直すはめになるかもしれない。それは、サシャのためにできれば避けたい。トールの思考に、サシャはこくんと頷いた。
幸いなことに、今日は柔らかな日差しがある。
「温かいですし、ここで練習しましょう」
「うん!」
石壁に石板を立てかけたサシャと、嬉しそうに頷くリュカに、トールは思わず微笑んだ。




