1.18 冬至準備①
[天井、高いよなぁ]
前後を逆にしたサシャのエプロンの、結果背中側に回った定位置のポケットの中で、ほうと息を吐く。
サシャが掃除をしている修道院内にある一番立派な建物、聖堂の天井に見える、複雑に交差したアーチは、確か穹窿と呼ばれるもの。誰も利用しない中学校の図書室で、本を整理するという図書部の仕事をこなすトールの前に大きな版の建築書を広げる伊藤の声を、思い出す。天井の他に、横の壁にもアーチ型を入れて天井の重みを支えることで、石や煉瓦などといった比重の大きな建築材料を用いて高い天井を作ることができる。更に、天井を直接支える柱群の外に控壁と、控壁から天井へと伸びる梁を置くことで、天井の重量を控壁に流すことができ、高い天井をしっかりと支えることができるらしい。建築学科にいる伊藤なら、どのような工法でこの聖堂が建てられたのか、即座に判断できるだろう。高校の特別教室くらいの広さしかない、それでも祭壇と側廊がしっかりと付属している聖堂を、トールは再びぐるりと見回した。祭壇の上にある、北を示す神の三つ星を模した小さな硝子窓から入ってくる光は、窓の周りをぼうっと照らすのみ。側廊の上の方にある天窓からの光だけが、サシャの掃除の頼り。
不意に、視界が一段下がる。サシャが、聖堂のベンチを拭く作業に入った。冬なのに熱を帯びたサシャの背に、トールは今度は大きく息を吐いた。先程、昼食に何も入っていない薄いクレープらしきものを一枚とキャベツの千切りを少し、そして小さな団栗のような堅果を二、三個食べただけなのに、全く、サシャは、……真面目すぎる。聖堂の掃除は、一週間に二回。少し手抜きをすることもできるだろうに。同級生が皆掃除当番をサボってしまい、たった一人で、机が多すぎて足の踏み場も無い教室の床を掃けるだけ掃いていたトール自身のことをブーメランのように思い出し、トールは小さく頭をかいた。
ここへ来て、何日経っただろうか? 滑るように動くサシャの背中の熱を確かめながら指を折る。午前中、サシャは、図書室で、冬至祭の時に聖堂の祭壇を飾る布の、裾のほつれを直していた。確か、サシャに初めて出会った時、アラン師匠は「この前の煌星祭で……」と言っていた。この世界では、夏至と冬至、春分と秋分にプラスして、祈祷書の創世記に出てくる四つの星を基準に季節を均等に八つに分けた暦を使っている。サシャが図書室を掃除している時に、机の上に乗ったトールの上に乗せてくれた祈祷書の文言を、頭に浮かべる。トール自身に接触している本を、トールは読むことができる。その上、半日ほど接触していれば、その本の内容を全て覚えることができる。それが、『本』としてこの異世界に転生してきたトールの『チート能力』らしい。時間を見つけたサシャが図書室で勉強している時に分かった、ある意味微妙なチート能力だが、この世界を知るには手っ取り早い。
祈祷書によると、煌星祭は、一年の始まりを祝う祭りで、秋分と冬至の間の日、トールの世界でいえば『立冬』の日に祝われるものであるらしい。と、すると、トールがこの異世界、『八都』と呼ばれる帝国を構成する国の一つである『北向』の国の北辺境に来てから1ヶ月以上は経っていることになる。もう、そんなに経っているのか。胸の疼きに、トールは小さく首を横に振った。
トールが考え事をしている間に、サシャの方はベンチの拭き掃除が終わったらしい。立ち上がったサシャがぐっと背を伸ばしたのを、エプロン越しに感じ取る。次は、床磨きだ。トールが教えてサシャが作った、束子に棒を取り付けた不格好なデッキブラシと桶の水を用意するサシャに、トールは何度目かの息を吐いた。『本』である自分は、サシャの掃除を手伝うことができない。「勉強したい」と願うサシャの力にも、なっていない。修道士は祈祷書を肌身離さず持っていなければならない、その規則に縛られる形で、側にいることしか、できていない。
『神のために二日働き、自分のために一日働く、これを二回繰り返す』。祈祷書に書かれているこの言葉に従い、北にある異教の国『冬の国』に神の教えを説きに行くことを職務とする修道会が所有するこの修道院に週四日通うサシャには、聖堂の他、図書室と中庭、台所と食堂の掃除をそれぞれ週に一度行うという仕事が課されている。時間が空けば図書室で勉強ができるが、サシャの師匠の一人であるジルドが、自分が書いた手紙をサシャに清書させたり、本来はジルド師匠が行わないといけないはずの、星を観測して暦を作成したり天変地異を予測したりする『星読み』達が置いていった観測結果の検算をさせたりといった調子でサシャをこき使うため、思うように勉学の時間が取れないのが、現状。
「大丈夫だよ」
仕事が遅いとジルドに怒られ、仕事が増える度にサシャは諦めたように小さく微笑む。けれども、夜、毛布の間でサシャが小さく泣いていることを、トールは知っている。
前にアラン師匠が皮肉っていたように、ジルドは、サシャをずっとこき使うつもりなのだろう。サシャの希望である、北向の都での勉学も、おそらく許さない。悔しい。丁寧に床を擦るサシャの背中で、唇を噛み締める。しかし今のトールには、何もできない。環境は、そう簡単に変えることができないことは、トール自身も、……理解している。




