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1.16 トールの昔語り①

 その日の夜。


「ねえ、トール」


 昨夜のように行李の上にトールを置かず、細い腕の中にトールを抱えたまま毛布の間に寝転んだサシャに、首を傾げる。


「トールのいた世界って、どんなところ?」


 だが。トールを見つめる紅い瞳に見えた好奇心に、トールは思わず笑みをこぼした。


[そうだなぁ……]


 薄い毛布だけではやはり寒いのだろう、暖炉の煙突が通る石壁の方へと身体を寄せたサシャに、幼かった頃のトール自身を重ね合わせる。あの町に引っ越したその夜、あまりの寒さに、トールはずっと使っていた薄い毛布と共に父の布団へと潜り込んだ。あの夜、トールは初めて、窓を叩く氷の音を聞いた。その日から十年以上、冬になると毎日のように耳に響いてくる、あの冷たい音を。


[ここ、雪、降るか?]


 小さく燃える暖炉の火の音を確かめながら、サシャに尋ねてみる。


「うん。もちろん」


 サシャのしっかりした頷きから、トールはすぐに、ここはあの町よりも寒いことを察した。


「トールのいた世界では、降らないの?」


[うーん]


 サシャの問いに、曖昧に首を振る。


[俺が生まれた場所では、雪は、ほとんど降らなかった]


 トールが生まれたのは、温暖な内海に面した、小さな田舎村。緩やかな山々に囲まれた、緩やかな段々畑が広がるのどかな場所に、トールが小学校三年生まで暮らしていた大きな家はあった。


 トールの母は、大きな農家の末っ子。父は、トールの母方曾祖母の縁者の息子。両親を早くに亡くした父は、何事にもおおらかな母方曾祖母の勧めにより、大家族が暮らす大きな家の離れで生活していた。そして、父がずっと家庭教師をしていた母と、母の大学進学を機に結婚した。


 結婚してからもずっと、父と母は、父が暮らしていた大きな家の離れで暮らしていた。数学が好きだった母は、父も通っていた、家の裏手にある山を越えた場所に移転してきた総合大学に通いながら、二十歳でトールを、そしてその三年後に妹の光を産んだ。母方の祖父母が暮らす大きな家には、祖父母の他に母の姉の一家も暮らしていた。近所には母方祖母の縁者が意外に多く住んでいたから、トールは、たくさんの知り合いに囲まれて育った。


 ある意味騒々しいその生活ががらりと変わったのは、トールが小学校四年生になった時。理学の博士号を取った母は、日本海側にある大学に常勤講師として就職した。その母に付いて行く形で、トールも、父や妹と一緒に、雪が音を立てて降るあの町へと引っ越した。


 今まで暮らしていたのとは違う、灰色をした平らな町。その町で、父は小さな修理工場に就職し、妹とトールは小学校に通った。妹はすぐに、町にも小学校にも慣れた。だがトールの方は、小学校にも、町にも、慣れることができなかった。町の人々が話す聞き慣れないイントネーションにも、妹の学童保育が終わり父と母が帰って来るまで独りぼっちで留守番をする淋しさにも。


「お母さんが大学に就職できたのは、幸運なことなんだよ」


 大学の仕事が忙しすぎて母が中々帰ってこない時、父はしばしば、トールと妹にそう言った。苦労して博士号を取ることができても、常勤の職に就くことができる確率は小さい。そのことをトールが理解したのは、高校に進学し、進路について考えるようになってから。小学四年生のトールは、ただただ、あの、緩やかな山々に囲まれた騒々しい世界に戻ることを願っていた。そのトールを唯一慰めてくれたのは、トールが通う小学校と母が通う大学の間にあった市立図書館。母に夕方の予定が入っていない時、トールは、図書館に行き、母の仕事が終わるまでのべつまくなしに本を読んでいた。


 だが。

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