第4話
目が覚めると、仁田彩華は東京の街の中にいた。
今日も私は死んだような街で目を覚ました。きっと、自分も死んだように生きているん
だろう。
起きがけの沈んだ身体にブラックコーヒーを入れてみる、今日はただ刺激が欲しかった。
いつもは肉体的に沈んでる身体が、今日は精神的に病んでる。
心内は満たされてるようで、風穴が出来てるようだった。風穴が出来てるようで、満た
されてもいた。
大雅との性行為は何よりの感激であり、何よりの空虚だった。これまでもそうだ、あん
なに好きな相手としているはずなのに。それがまた心内を痛める、そこに処方箋代わりの
コーヒーを注ぐ。
「おはようございます。昨日はすいませんでした。ちょっと気持ち的に不安定なところが
あって、ただそれだけなんです。私の勝手で、あれこれ振り回すようなことになって申し
訳ありません。できれば、今度会うときにお詫びをさせてください」
乙野智良に打ったメールだ。
結局、昨日は最後までいくこともなく、乙野の家を後にしてしまった謝罪のメール。
本当は電話をして直接謝るところなんだろうけれど、そういう気分にはなれなかった。
あの後、すぐに他の男のところへ行ってしまった自分の心の卑しさがそうさせて。
「おはようございます。昨日のことなら気にしないでください。確かに少し驚いた部分は
あったけど、それで僕の心持ちがどう変わるということはありません。誰だって強く誰か
に気持ちを押しつけることはあるし、仁田さんが僕にそれをしてくれたことは嬉しくもあ
ります。正直、これまで仁田さんの心の中はあまり読めませんでした。でも、昨日は仁田
さんから歩み寄ってくれて、精神的な意味で一歩近づけたような気がします。お詫びなん
かいいですから、是非また会ってください」
乙野から届いたメールだ。
あんなことになっても、まだ乙野は自分に優しいままでいてくれている。それが逆に辛
かった、いっそ突き放してくれればとも思ってたのに。
乙野は自分が悩みを抱えてるとしか思ってなくても、彩華はその悩みが井倉大雅である
ことを知っている。それを知ってる自分の罪の意識を、優しさという槍で突かれてるよう
だった。
こんなことをしている自分が嫌になる、どんどん嫌いになっていく。悪循環は止められ
なくて、もう沸点に近いところまで来てるのは分かりえる。
どうにかしないといけない、何かしらの結論を出さないと・・・・・・。
「へぇ、それで乙野さんの家まで行ったんだ〜」
「うん、まぁ」
「でっ、ちゃんとうまいこといったの?」
「うん・・・まぁ」
うまくいかず、大雅のところへ行ったなんて口が裂けても言えない。
「おぉ、上出来、上出来。彩華にしてはよく出来た、偉いぞ」
蓮香由月は終始にやけた顔をしていた。
同僚の恋の進展を喜ぶ友達思いの面と他人の恋話が好きなおせっかいな面の同居人。そ
のおかげで彩華は一歩踏み込んだところへ足を伸ばすことが出来たのも事実だが、それに
よって生じる傷みを受けたのも確かだ。
ただ、それで由月を責めることはできない。彼女は大雅と彩華の関係をよくは知らない
し、それが乙野とのことでどう関わってくるかまで計算できやしない。
全て自分のせいなんだ、自分で張った蜘蛛の巣に自分でかかってるようなものなんだ。
「頑張んなよ、彩華はこれまで幸せつかめてきてないんだから幸せにならないと」
ポンと肩に手を置かれる、由月にしてはストレートな後押しの言葉でピンとこない。
「由月もだよ、あの人と続けていくつもりなら」
あの人、可哀相な男・・・もうこの呼び方はいいか、友人の恋人に対して。
「あぁ、いいのよ、あんなやつ。絶交よ、もう」
「何よ、どうしたの?」
「私もね、あの後にあいつの部屋に行ったんだけどさ。最悪だよ、元カノから電話かかっ
てきたんだよ。問い詰めたら、まだたまに会ってるって言うから頭に来てさ。部屋の目に
ついたもの、投げまくって帰ってやったの」
「へぇ・・・そいつは散々だったね」
やっぱり、可哀相な男だった。
自分がダメになってたとき、そんなことになってたとは・・・・・・。
由月は由月でいろいろあるんだな、彼女を羨ましく思うし、そうでなくもある。あれぐ
らい思いきりよく出来ればいいだろうし、かといって結末がこうなる恋もどうかと思う。
ダメ男につかまる恋愛なら、面白味が足らなくても堅実な男の方がいい。そうは思ってる
のに、自然と足は求めている方向へ向かってしまう。
なんだか、自分もあの可哀相な男と変わらないのかもしれない。新しい関係へ進もうと
しているのに、同時に他の関係を繋ぎとめておく行為に。
☆
大学生になると、新しい環境が4人を待っていた。それぞれに、新しい勉強、新しい仲
間、新しい毎日があり、多くの刺激を受ける。
同じ大学に進学した4人も高校の頃のように毎日顔を合わせることはなくなった。
ただ、それでも高校の3年間で築いた太い絆は衰えることはない。それぞれに時間をつ
くり、食堂に集まったり、他学部の授業におじゃましたり、休日に遊びに行ったりと関係
は続いていた。
「そんじゃ、出発進行っ!」
武澤玲奈の掛け声とともに車は出発・・・というより、車の出発に合わせて玲奈の掛け
声が飛んだ。
この日は休日を利用して、4人でドライヴがてら海に行くことになった。車は神田橋幹
太がなけなしの貯金で買った中古の軽自動車、4人唯一の足であるその車はずいぶんと役
に立っている。
玲奈は特に我が物顔だ、「遊びに行くなら車出してくれるんでしょ」ぐらいの。
「お前らの人使いの荒さは褒めてやりたいよ」
毎度の運転係である幹太からの愚痴が飛ぶ。もっとも、そんなの他の3人は受け流すの
みだが。
正直、幹太が車を購入するまでの総費用を聞いただけでお手上げだ。そんな金を払うな
ら、もっと青春の残り火を謳歌したい。
「何様のつもりよ、乗ってあげてるんだからありがたいと思いなさい」
玲奈は助手席でアハハと笑う、釣られて彩華と大雅も笑う。
よくある仲良しグループの図式だ。イジる人間、イジられる人間、客観視する人間、そ
の集まりでうまく均整がとれる。
「海、見えて来たよ。良いわ〜、夏全開って感じ!」
玲奈の言葉のとおり、車から見えた海景色は心奪われるぐらいの最高のものだった。海
自体の色合いももちろんとして、快晴の空から降り注ぐ真夏の太陽の光線が海面に当たり、
より美しさを際立たせている。こんなに綺麗なものを見るのも久しぶりだったけど、何よ
りこの4人で見れたことがよかった。
何を見るかも大事だけど、誰と見るかが大事。この4人ならその答えになれる、そんな
関係は絶えることはなかった。
海付近の駐車場に車を停めると、浜辺で何をすることもなく時間を過ごす。
玲奈は一目散に浜辺を駆けていき、水際で楽しそうにはしゃいでる。
「彩華ぁ、こっち、こっち」
玲奈の誘いで、彩華も浜辺を駆けていく。別に駆ける必要は然程ない、でもそれでいい
んだ。今を楽しむ、玲奈の生き方に乗ってみると心地良い。違う自分がそこにいるみたい
でいい、こんな人生いいだろうなと心底思える。
そのうちに大雅と幹太も加わり、最終的には全員で海水をかけあって遊んだ。
「ねぇえ、幹太。これ、買ってよ」
浜辺で思う存分はしゃいだ後、近くにあった小物のショップに寄った。それぞれに店内
を見て回ると、玲奈はアクアブルーが印象的なアクセサリーを幹太にねだる。
2人は大学に入ってから付き合いだした。高校のときは近すぎたからか、お互いを出し
過ぎてしまっていたのかもしれない。大学に入ってある程度の距離感ができると、自分の
気持ちを素直に出すことが出来たらしい。
とはいっても、2人の掛け合いは高校の頃のまんまだ。ケンカになるんじゃないかとい
うぐらいに互いに突っ込んでいき、それが案外にケンカにならない。多分、2人の中での
線引きというものが上手に出来てるのだろう。うまいこと線を越えないように相手をつつ
く、たまに間違えてしまうこともあるが。
「いいじゃん、ちゃんと付けるからさぁ」
そう幹太の服を軽く引っ張りながら、玲奈はおねだりを続ける。
「分かったよ、買えばいいんだろ」
「やった、ありがとうっ♪」
玲奈は彩華にガッツポーズを見せる、彩華も応えるように笑顔を見せる。
いいなぁ、あれだけ自分を全開に見せられる玲奈は。彩華は自分には出来ないことだろ
うなと息をつく、そして近くにいた大雅を見る。自分はあそこまでしないし、しても何も
変わらない。
大雅はそれで変わりはしない、それなら無理をしようとは思わない。無理をして大雅と
の距離を開きたくない、今のままを保つことを選ぶ。
☆
「それではぁ、久々の再会を祝しまして乾杯っ!」
カチン、カチン、グラスの合わさる音が鳴る。
この日はLENNONに彩華と玲奈と幹太が集まった。カウンターの中にいる大雅もこ
っそりと乾杯に参加し、久しぶりに4人が1つになる。
それぞれの都合で全員が集まるのは難しいため、たまにこうしてLENNONに集合す
る。大雅は仕事中だが、そこにおじゃましてカウンター越しの4人の空間を作る。
この場所は心が落ち着く、家にいるような居心地の良さだ。4人が集まればいつでもそ
うなれる、すぐに高校や大学の頃の自分を取り戻せる。
玲奈も幹太も、大雅も私だって大人になった。たくさんのことを経験したし、しなくて
いい失敗もたくさんした。そんな自分を優しく迎えてくれる、そのときだけは15歳の自
分になれる。
「私さぁ、この前、上司とケンカみたくしちゃったの。言われたことが納得いかなくて、
忙しいときだったからカチンときちゃって。強めに行っちゃったんだよね、ちゃんと謝っ
てはおいたんだけど」
玲奈はOLになった、割と普通の会社に普通に入った。
それを意外に思ったけど、すぐに彼女も普通の女の子ってことなんだなと分かった。人
一倍の元気印で、武将だったら我先にと先陣を切りそうだけど、そういうところもあった
りする。
「そうそう、そんとき困ったんだよ。帰って来て、いきなりああだこうだってその上司の
愚痴をぶちまけやがってさ。ホント勘弁してくれって感じだよ。俺だって仕事で疲れて帰
ってきてんのに、なんでこいつの面倒まで見なきゃなんないんだよ」
「あぁっ、そういうこと言うんだ〜。その日は優しくしてくれたくせに、後になってから
ブツブツぼやくってことですか? 言いたいならその場で言ってもらえませんかねぇ、幹
太くん」
相変わらずだ、玲奈と幹太は。
まだ2人は高校生の頃と変わらないようにはしゃげる、羨ましいかぎりだ。
そして、いつまでも変わらない仲間に彩華は心を落ち着けられる。こうやって帰れる場
所があるということが力になってくれる。
「俺もさぁ、毎日クタクタだっつうの。基本みんなキレ気味で電話してくるからさ、ムカ
つくんだけど下手に出ないといけないし。大体は消費者側が機能を分かってないだけなの
に、こっちが怒られるのは理に適ってないじゃん。身勝手な人間が多くてストレス溜まる
よ、精神がやられちまうよ」
幹太はサラリーマンになった、割と普通の会社に普通に入った。
意外というほどじゃなかったけど、玲奈と幹太が揃って堅実派だったのは意外だ。
幹太は電化製品を取り扱う会社の、いわゆるクレーム対応の担当になった。言葉のとお
り、理不尽な消費者が多いようで日々格闘してるらしい。
「なのに、こんなふうに家で愚痴られたらたまったもんじゃねぇって。家ぐらい、自分の
時間にさせてくれってんだよ」
「なによ、聞いてくれたっていいでしょ。そんな邪魔なら、別に出てったっていいんだか
らね」
「それはまずいだろ、家賃を俺1人で払わなきゃなんねぇじゃん」
「そっちかよ、ふざけんなっ!」
そう言い捨て、玲奈は幹太の後ろから首をグッと絞める。といっても、もちろん本気で
絞めてるわけじゃない。あくまで、恋人同士のかわいいケンカの中で。このぐらいなら日
常茶飯事といえる2人のケンカに関して、彩華と大雅は特に止めることはしない。
その光景を見て、顔を見合わせて「またやってるよ」と笑みを浮かべる。
「彩華はどうなの? 嫌な客とかいるでしょ?」
一通りのケンカを終えて、すがすがしい顔になった玲奈からの言葉。
「いるはいるけど、2人の話を聞いてたらそうでもないかも。私のところは、どっちかっ
ていうと対応が難しいかな。おじいちゃんやおばあちゃんが多いからさ、耳が遠かったり
して。あと、構ってもらいたくて来る人とかもいてさ。受付のところに居座っちゃって、
ずっと長話してくるのよ。まぁ、それはそれで雰囲気が和らいでいいっていうのはあるん
だけどね」
「ふぅん、でも接客の仕事は大変だよね〜」
大変だけど頑張れる、モチベーションがあるから。これまで3年半、それを胸に毎日や
ってこれたところもある。
ただ、それが欠けてきている、崩れようとしている、壊れようとしている。しがみつく
ように抱きしめてきた想いからの別離、そこで苦しんでる。
「大雅はどう? こういうとこって暴れる客とかいないの?」
玲奈がカウンターの向こうの大雅に聞く。
「暴れたりってのはないかな、店の雰囲気的にそういう人は来ないし。酔って潰れちゃう
のが困るかな、寝てるのを無理に起こさないとなんないから。気持ちよく寝てるのに横入
りされるのってイラッとくるでしょ? 起こしてる側からしたら、起こしてあげてるのに
ムカつかれるのにイラッときたり。そういうので、結構それが嫌だったりするかな」
「へぇ、いろいろあるんだねぇ」
「みんながみんな、それぞれ抱えながら生きてるってことだよな」
幹太の言葉に、3人がウンウンとうなずく。
「それでぇ、お2人の恋路はどうなってるんでございましょ?」
玲奈が柔らかい笑みで質問してきた。
彼女は自分の質問の答えはなんとなく把握している。彩華と大雅のことを考えて、棘の
あるようには聞きたくない。でも、2人の恋愛事情については1番の心配を抱いている。
仲間として何よりも気に掛けてることだし、それを押しつけることもできない。
だから、なるべく負担にならない程度に柔に聞く。
「俺は何もないよ、彩華は少しあるみたい」
切り出しにくかったが、大雅からそれを言ってくれた。
「彩華、新しい男できたの?」
「うん・・・まぁ、そこまで言っていいか分かんないけど」
微妙な返答にしておいた、実際その関係が微妙なものだったから。
「なになぁに、どうしてそんな良いネタあんのに黙ってんのよぉ」
玲奈が急に満面の笑顔に変わり、彩華の肩を揺すりながら聞きたい光線を発しまくる。
「同僚の子に紹介された人がいるんだけど、まだ知り合ってちょっとしか経ってないの」
「いいじゃない、いいじゃない、そういう人いるんなら私に言いなさいよぉ」
「うん・・・ただ、どうなるか分かんないし」
「何を弱気になってんの、頑張りなさいってば。でっ、どういう人なの?」
「普通にサラリーマン、営業やってる人で。多分、多少怒ったぐらいじゃ顔色変わらない
ような優しめな人っぽい」
「なるほど、彩華には合ってるわね」
うんうん、そう玲奈は首を縦に振る。
玲奈も幹太も彩華の新しい恋を毎度応援してくれている。
本音を言えば、彩華と大雅にくっついてもらえれば何よりだ。ただ、10年の付き合い
でそうはなってくれそうもないのは承知している。2人がそこから抜け出せずに苦しんで
ることも知ってる、だから彩華の恋を応援してあげたい。
「じゃあね、また一緒に飲もうね〜」
そうタクシーの中から手を振る玲奈と幹太に、彩華と大雅も振り返す。
深夜1時すぎ、大雅の仕事が終わるまでLENNONで続いた飲み会もお開きとなる。
走り去るタクシーの後ろ姿を眺めて、彩華と大雅は歩き出す。
「変わんないよな、あの2人。ホントに、いつもだけどああなりたいって思うよ」
「うん、私も」
いつまでも変わらない関係でいたい、でも・・・自分たちは変わらないといけない。こ
こに留まったままじゃいけない、次の道を歩き出さないと。
「彩華」
大雅から呼ばれ、少し前にいた彩華が振り向く。
「話したいことがある」
その一言に、彩華の身体の熱が奪われる。さっきまでのアルコールが抜けるように、現
実にグッと引き戻された。
お互いに向き合うと、大雅から口を開く。
「実は、知り合いの人に良い人を紹介してもらったんだ。その知り合いの人も、紹介して
もらった人も俺と同じ境遇の人なんだけど。年は29で、俺みたいに飲み屋で働いてる。
一昨日に会ってみたんだけど、話も合うし、性格もどことなく似てて。初対面だったんだ
けど、結構打ち解けられたんだ」
「へぇ・・・そうなんだ」
言ってるだけの言葉だった、感情のない。
大雅からの言葉は、彩華の心に落ちて来るように衝撃を与える。
そんなこと言わないで、そんなこと聞きたくない、そう言いたかった。
「昨日、向こうからメールもらって。また会いたいって言われて・・・いいですよ、って
返した」
下を向いていた彩華の顔が大雅の方へ向いていく、もう涙目だった。
「それで・・・その人とどうしていくの?」
言いたくなかった、答えを聞きたくなかったから。
それでも言わないといけない、もう逃げることはしたくなくて。
「ちゃんと向き合いたいって思ってる、真剣に・・・・・・」
涙は流さなかった、意地でも流さなかった。
自分が不甲斐ないから、大雅はこれまで一緒にいてくれた。恋人を作ることも出来たは
ずだ、実際に何回か紹介もしてもらっていたし。
大雅が初めて決心したんだ、ここで泣いたら大雅がまた揺らいでしまう。
大雅が新しい道に行こうとしたということは、彩華の背中を押してるということ。
自分は今までのように側にいてやれなくなる、だから彩華も今の幸せに行ってくれと。
「彩華、いいかな?」
静かな声で聞かれた、答えはもう決まっている。
暗黙の了解だ、片方がそれを決めたのなら相手は乗らないといけない。
「うん・・・よかったね、そういう人が出来たんだ」
「あぁ、そうだね」
お互いに笑みを見せる、力いっぱいのなけなしの笑顔。
「なんだ、玲奈と幹太がいるときに言えばいいのに」
「いや、最初に彩華に言いたかったから」
「そうか・・・ありがとね」
ううん、そう大雅はかぶりを振る。
「彩華もさ、今の人と向き合ってみてよ」
「・・・・・・うん、そうだね」
最後は笑ってた、笑ってたのは顔だけだったけど。
大雅と別れてからは記憶がぼんやりしてた、どうやって家まで帰ったかもおぼろげにし
か分からない。
いつかは来るときだと分かってた。10年間、誰よりも想ってきた大雅と離れないとい
けないことに。
でも、いざ目の前にそれが現れてしまうと、うまく心構えがつかない。
彩華はベッドで自らの心内のようにもがく、胸が締められるように痛い。悪あがきのよ
うなことも何度と思い浮かんだが、そんなことはできない。
大雅が決めたんだ、自分も同じように進まなければいけない。
「こんばんは、上がってください」
「はい、おじゃまします」
小ぎれいなマンションにある乙野の家におじゃまする。清掃の行き届いた綺麗な、乙野
のイメージに添う部屋。
前に来たときは心身的にぶれていたので、改めてじっくり冷静に見ることができた。前
回は彩華の急な申し入れでの来訪だったので、事前に約束をしておいた今回は余裕もある。
「じゃあ、さっそく作りますね」
「僕も手伝いますよ、一緒にやりましょう」
今日は晩ご飯を作るというメインで、乙野の家へ来た。
乙野からしたら前回生じてしまった精神的な亀裂を修復しようというメインで、彩華か
らしたら大雅とのことで自分にムチを振るうというメインでいた。
「仁田さん、普段から料理をするんですか?」
「いえ、休日の前の日ぐらいです。やっぱり、まとまった時間がないと気が起こらないっ
ていうか。料理がストレス発散になるって人っていいなぁ、って思います」
「いいじゃないですか、僕なんかほとんどしませんよ。休日になったって、疲れてるから
いいやって怠けて。自分以外の作った料理を食べるなんて、家では本当に久しぶりですよ」
「そうなんですか、ちょっとプレッシャーかも」
「いやいや、そういう意味で言ったんじゃないですよ」
「分かってます、言ってみただけです」
顔を見合わせると、2人で素直に笑った。
この日は何もかもが順調にいった。
大雅とのことが自分へのプレッシャーになると思ったけれど、そうではなかった。これ
までが嘘みたいに、自然に乙野に接することができる。2人で料理を作ってる間も、なん
てことない会話で笑い合った。
これまではどこか形式ばったところもあった、気を張りすぎてたのかもしれない。大雅
への想いがあることで、一線を引いて付き合う関係に。
2人で作った料理はカレーだった、味には自信がある。凝ったものなんか出来ないし、
そんなことして失敗するのは逆効果。無理をする必要なんかない、肩に力を入れることも
ない。
私はこの人と長く付き合っていくんだろう、そう思えるとすごく楽になれた。乙野のこ
とが身近に感じれた、普通にすることができた、好きにもなれそうだった。
「どうですか?」
仁田家のカレー、肉はポーク、ルーは偏りのないストレート、野菜はやや大きめでたっ
ぷり入れる。ハズレのない、誰が食べても喜んでくれる母親の味だ。
「美味しいです、ホントに美味しい」
乙野の顔に笑みがこぼれる、それを見て彩華も笑った。
食事中、食べ終わった後も2人でいろんなことを話した。お互いのこと、これまで触れ
なかった部分をたくさん聞き出す。
乙野を近くに感じることが出来ると、自然に彼のことを知りたくなって。
彩華のこともたくさん聞かれた、彼女もそれを飾り気なく話す。玲奈のこと、幹太のこ
と、大雅のことも乙野に話した。大雅を10年間想ったこと、彼が同性愛者であることを
除いて。
「いいですね、それぐらい分かり合える仲間がいるって」
「はい、みんなは一生の宝物です」
そう、宝物だよ。玲奈も幹太も大雅も、自分にとって大切な宝物。
大雅への想いは続かなくなるけど、それによって玲奈や幹太との関係もちょっと変わる
のかもしれないけど、4人の絆は絶対に消えたりしないから。
その夜、彩華は乙野の身体に包まれた。
緊張はあったけど、清廉とした気持ちで望むことができた。今日は最初から最後まで感
じることが出来た、身体は素直に反応してくれた。
それは同時に、精神的なところでもの大雅との別離だった。
これでいいんだよね、そう彩華は自分の心内を撫でるように伝えた。
次の日、深夜1時すぎに仕事を終えてLENNONを後にすると、すぐに大雅は彩華の
姿を視界にとらえる。
「お疲れ、大雅」
「どうしたの、今日は」
彩華はこれまでにない晴れた顔をしていた、大雅は彼女の用件をすぐに汲み取ることが
できた。
「見て、今日の星すごいキレイだよ」
促されるように顔を上げる、雲一つない夜空にはいくつかの星が浮かんでいる。
オレンジに近い光を放っていた星は、上空のキャンバスをいつもと違う印象にしていた。
黒とオレンジ、中々ない組み合わせだけどいい。暗闇に浮かぶ明色の光、黒を今までの自
分とするならオレンジは未来の自分。まだ大部分を黒に染められてるけれど、そこにある
オレンジを拡げていくんだ。
「あぁ、キレイだな」
彩華に合わせたわけじゃなく、本音でそう思えた。
「ねぇ、そういえばさぁ、私たちが会うときって最近ずっとこんな感じだったよね」
空を見ながら彩華は言う、きっと「夜にしか会ってない」という意味で言ったのだろう。
「あぁ、せっかくの土日とかも俺が働いてるから。みんなに俺の都合に合わしてもらっち
ゃってたな」
思えば、大学を卒業してから昼間に集まったことなんか1回か2回しかなかった。それ
だって最初の1年ぐらいのことだ、もう2年はそんな機会も作っていない。
時の流れを感じた、いつのまにか自分たちも社会の中にいるんだなと実感する。
「今度さ、みんなでどっか行かない?」
「どっか? どっか、って?」
「どこでもいいんだよ、どっかでいいから行こうよ」
彩華はそう不明確な提案を続ける。ただ、彩華の中では明確なものがあった。
どこに行くかが問題なんじゃない、誰と行くかが大事なんだ。彩華と大雅と玲奈と幹太、
その4人で行けるなら行き先はどこだっていい。また学生の頃のように、バカをやって騒
げる4人に戻るんだ。あの何をやっても楽しかった、一瞬一瞬を懸命に生きていた頃に。
「あぁ、そうしようか」
大雅も晴れた顔をしていた、彼ももう分かっているんだろう。
自分たちも大人になっていくことで下手な荷物を背負ってしまった。マニュアルに沿っ
た機械的な人間になって、社会に適応してしまった。本当はもっと惰性で動いていた慣性
的な人間なんだ、4人とも。
それがいつからか薄れてきていた、自分でも気づかないうちに。
「約束だよ、絶対守ってもらうからね」
「分かってるよ」
幹太が新しく買った新車を出してもらって、昼からみんなで遊びに行こう。高速をかっ
飛ばして、音楽をガーガー鳴らして、ギャアギャアうるさくしよう。
なつかしいな、またあんなふうな関係になれるんだなぁ。
玲奈は助手席でお構いなしに騒ぎ立ててる、その後ろで大雅はクールめに笑いまくる。
その隣で彩華は負けじと騒ぎはやす、それを運転席の幹太が親みたいに注意する。その隣
で玲奈は聞こえてないみたいに騒ぎ続け、結局は幹太もそれに乗っかってくる。
目をつむってその光景を思い起こしてみる、楽しそうで淋しかった。
それによって、たくさんのことを得られる。そして、一つのことを失う。
「・・・・・・大雅・・・・・・」
失ってしまう一つのことを浮かべると、どうしようもない切なさに襲われる。
それを押しつけるようにして、彩華は大雅に抱きついた。彩華が大雅の肩に手を回すと、
大雅も彩華の背に手を回す。
「・・・・・・楽しかったよ、大雅と一緒にいた10年・・・・・・」
彩華は泣いていた、泣かないと決めて来たけど無理だった。
「・・・・・・大雅からいっぱい大切なものをもらった・・・・・・」
ありがとう、彩華の言葉は彼女が顔をうずめていた大雅の胸に直に刺さる。
自分が何をしてあげたというんだ、そう思うと彩華からの感謝の言葉が痛かった。
「・・・・・・俺は何もしてなんかないよ、逆に俺の方がたくさん大切なものを彩華から
もらったんだ・・・・・・」
大雅も泣いていた、抑えようと思っていたのに制御するよりはるかに多い感情が波を打
って押し寄せてきた。
「・・・・・・大雅・・・・・・」
「・・・・・・んっ?・・・・・・」
「・・・・・・大好きだよ・・・・・・」
「・・・・・・あぁ・・・・・・」
囁くように、大雅の胸に直接言うようにした。
「・・・・・・大好き・・・・・・」
「・・・・・・うん、俺も彩華のことが好きだよ・・・・・・」
寄り添っている大雅に言った、大雅からの言葉に彩華は胸を熱くする。
「・・・・・・これからは素敵な恋をしてね・・・・・・」
「・・・・・・あぁ、彩華もな・・・・・・」
そのまま、5分は抱き合っていた。これまでの10年間に悔いを残さないよう、未練の
残らないように。
大雅の身体は優しかった、今まで自分にしてくれたように優しかった。これからもきっ
とそれは変わらない、大雅はこれまでどおりの大雅でいる。
それでいい、自分が大好きになった彼のままでいてほしい。
身体を離すと、お互いに涙は止まっていた。その名残を映すように、瞳は赤みを帯びて
いる。
夏風が一つ通り抜ける、ぬるい風を2人に浴びせて先へと行く。
彩華はフッと笑った、最後は笑顔でと決めていた。
「バイバイ、大雅」
何かを思うような顔をして、大雅もフッと笑った。
「あぁ、バイバイ」
これで終わりなんだな、そう思いながら彩華は振り返って歩き出す。
大雅の視線は自分の背中にあるだろうと思うと、なんだか緊張した。
大雅からもしも、
「彩華、行かないでくれ!」
なんて言われたらどうしよう、とか考えたがいらない考えだった。
100mほど歩いた先で左に曲がると、彩華はそこに崩れ落ちる。
だらしない姿勢のまま、見苦しいぐらいに泣きまくった。さっきまで限界ギリギリに押
しとめていた分の涙が噴くように溢れてくる。
世界で1番好きだった人とのサヨナラ、止まらない涙はとめどなく流れた。その泣き姿
がどんなに醜くても、周りに指さされて笑われようと知ったことじゃない。人間1人の我
慢なんて通用しない、それぐらい大雅を想った10年間は大きかったから。
泣きながら彩華は右手を開く、そこには2枚のミルクビスケット。去り際に大雅が言葉
なしにグッと彩華の右手に押し込めたものだった。それを少しずつ口にしていく、涙と一
緒に喉を通るとしょっぱい味がした。ぼろぼろ泣き崩れながら、彩華は震える口にビスケ
ットを入れていく。
全て食べ終えると、大雅との線が途絶えた気がした。寒気がして鳥肌が立った、これで
終わってしまったんだと思った。
さようなら、離れたくなんかない、次に会うときは友達だよ、大好きだよ。
大雅・・・私の大好きな大雅・・・さようなら。
今作はこれで本編を終了となります。
次回のエピローグで完結になります。