第3話
目が覚めると、仁田彩華は東京の街の中にいた。
今日も私は死んだような街で目を覚ました。きっと、自分も死んだように生きているん
だろう。
「おはようございます、仁田さん」
「あっ、おはようございます」
乙野智良はベビーピンクのシャツにジーンズというラフなスタイル、彩華はホワイトの
ロングシャツにスキニージーンズという少し頑張ったスタイル。
「天気よくなってよかったですね」
「はい、天気予報では曇るとか言ってましたからね」
助手席に座ると、乙野の運転で銀のBMWは走り出す。
乙野からの誘いで、今日は2人でドライヴに出掛けることになった。最初は断ろうか迷
った、こんな心持ちで会うことは乙野に失礼になると思い。大雅のことを知らないのをい
いことに、自分は乙野に良いように寄っかかっている。
気持ちは行ってないのに、こうやって期待を点すようにしている。
「音楽でも掛けましょうか、良いのがあるんですよ」
「あっ、はい」
いまいち気分が乗ってこない彩華を見て、乙野は車の中にあったCDを掛ける。流れて
きたのは最近ヒットしている洋楽のナンバーだった。
「こういうのが好きなんですか?」
「まぁ、そうですね。ここ最近では気に入った方です」
なんだか、流れの悪い言葉だった。嘘をついてるわけではないが、本音とも言いきれな
いような。
きっと乙野は自分に合わせてるのだろう、そう思った。無難にヒットしてる曲を流して
おけば、どちらにとってもいいだろうと。
それも申し訳なかった、気を遣われてるのが逆に窮屈に感じた。
「普段、どういうのを聴いてるんですか?」
「普段、ですか?」
「これハマったな〜、みたいなのありませんか?」
そうだなぁ、と乙野は少し考える。
「結構、フュージョンとか聴いたりしますね」
「そうなんですか? へぇ、意外です」
「聴くことありますか、フュージョン系」
「いや、正直ないです・・・でも、聴いてみたいです。ありませんか、そういうの」
「ありますけど・・・いいんですか?」
「はい、乙野さんの好きなものを掛けてください」
ありがとうございます、そう言って乙野はフュージョン系のCDを掛ける。彩華にはピ
ンとこない音楽だったが、さっきのCDよりはこっちの方がいい。車内の気の張った雰囲
気が安らぎ、リラックスできるから。
その後、2人を乗せたBMWは東京湾に添うようにドライヴを続けた。
乙野の醸す空気感は彩華に合うもので、彩華はこのデートを楽しむことができた。
適度な会話はするが、彩華が黙っていれば乙野も深くは話しこんでこない。
でも、それは苦にならないものだった。目立って盛り上がることはなかったが、小さく
ても楽しめたのは確かだ。大雅とのことで一件あった後なので、いい気分転換になれた。
「ありがとうございました、楽しかったです」
「本当ですか、楽しんでもらえならよかったです」
彩華は最後は笑顔で乙野と別れた。
自宅に戻って洗面所に行くと、自分の顔を見て急に冷めた。まだ軽く笑みの残っていた
自分の顔がだらしなく思えて。
何をしてるんだ、どうしたいんだ、私は。
大雅を好きな自分、乙野を好きとまでいかない自分。大雅への道は一方通行の行き止ま
り、乙野への道は大きく開いている。たまにぶつかることのある大雅、きっと自分のわが
ままも許してくれる乙野。大雅、こんなに好きな人はいない、この先も。乙野、あんなに
良い人はいない、この先にも現れないかもしれない。
どうすればいい、葛藤は葛藤を呼んで彩華を苦しめる。
誰かに相談すれば間違いなく乙野を薦められるだろう、だから相談もできない。
彩華は自分の中で悩み、答えを出すことを選ぶ。何かを得るために何かを切らなければ
ならない、無常の選択を。どっちの道にしようと幸福と不幸が同時に訪れる運命、そこで
彩華は多大に揺れる。
おそらく、納得のいく選択は出来ないのだろう。片方を選んで進んだ先、もう片方を選
ばなかった悔いが生じる。どうして、こんな決断をしなければいけないんだろう。これま
でだって、あんなに苦しんできたっていうのに・・・・・・。
☆
高校の卒業式、卒業生にとっての晴れの舞台。なのに、そこにいる彩華は晴れやかな気
持ちにはなりきれなかった。2年以上前、大雅を想い続けることを選んだ彩華の気持ちは
今日まで変わらなかった。
2年生、3年生と、大雅と同じクラスにはならなかったが、武澤玲奈と神田橋幹太との
4人グループに翳りは生じない。むしろ、大雅とのことで結束力は強まった。席が近かっ
たから親しくなった仲間内関係に、太い頑丈な絆が加えられたから。
あれ以来、それ以前のように4人でどこへでも遊びに出かけた。どこへ行くより、誰と
いるかが大事だった。そりゃあ、以前の関係のとおりにはいかない。全く気を遣わない関
係かと言われれば、否定せざるをえない。気を遣わないように心掛けてること自体、すで
に気を遣ってるのだから。
それでも、みんなと過ごした時間は何にも変えられないかけがえのない宝物になれた。
この3人と会えてよかった、心の底からそう言える仲間だった。
フッと意識が式に戻る、この高校生活を思い起こしてるうちに時間は幾分か流れていた。
周りを見やってみる、他の3人はそれぞれ別のクラスの席にいる。大雅と玲奈は式に集中
してる、幹太は周りとこそこそ喋っている。
青春時代の3年はこれで終わる、そして大人へと移り変わる4年がこれから始まる。
卒業式とHRが終わった後、4人はクラスの輪から抜け出るように集まった。
グループごとに別れる、クラス全体で集まる。式後の展開はそれぞれだったが、4人は
そこに行くことをしない。当たり前のようにいつものメンバーで集合し、近場の大公園に
向かった。
散歩コースやバスケットコートもある、広場のような公園に4人は週1は必ず来る。そ
れぞれの部活で時間帯がずれようと、ここを訪れる時間は調節してでも作った。毎度のよ
うに大公園を斜めに横切っていき、自動販売機の前で停止。彩華は紅茶、玲奈はコーンポ
タージュ、大雅と幹太はコーヒーを買う。
それを手袋代わりに歩いていき、1番奥にある雑草だらけの傾斜を登っていく。階段も
ないから手や膝を土まみれにしながら登らないとならないが、そんなの苦にはならない。
こんなことをしてる時間が楽しいんだ、大人が忘れている感情のそれなんだ。
「いっちば〜ん! ヤッピ〜!」
傾斜をトップで登りきった玲奈がサタデーナイトフィーバーみたくに左手を腰にあて、
右手の人差し指を高く伸ばして喜ぶ。別に1番になっても賞品なんかない、分かってても
頑張ってしまったりする。
計算なんかいらない、目先の愉快爽快を手に入れるために前進する。見当たるところに
ないのなら、自分たちで作り出してしまえばいい。
目の前に一本道しかないときとしよう。玲奈なら、
「次の電信柱に最初に着いた人、今日の運勢は絶好調!」
と言って全速力で駆けて行くはずだ。
彼女はそういうことに関して、才能が尊敬するほどある。そして、それに釣られるよう
に他の3人も上々に自分を上げていく。彼女や幹太がいなければ、こうして大雅との関係
を修復に近いくらい戻せることもなかっただろう。
「お前、俺のこと押しといて1番とか言ってんじぇねぇよ」
2番に傾斜を登った幹太が玲奈にケチをつける。
「はぁ? 何言ってるわけよ、ハンデじゃない、ハ・ン・デ」
幹太の前でわざと嫌味ったらしく言う玲奈、これはいつものことだ。
「ホントに可愛げねぇな。女じゃねぇ、お前は」
「そんなん言われましてもぉ、ちゃんと成長してるもんで〜」
そう言って、玲奈は変顔をしながらグラビアポーズをとってみせる。
「あぁ、もうやるだけムダ! バカバカしい!」
対抗をあきらめた幹太に、勝利のピースサインの玲奈。この2人は常にこんな感じだ、
わざわざ争いをお互いにふっかけていく。
もちろん、いがみ合ってるわけじゃない。そうすることが2人にとっての友好関係の構
築の方法なんだ。天邪鬼でもなく、これが正規のやり方。
その光景に、彩華と大雅はいつも微笑ましく思う。自分たちにはない、それだけ自分を
ひけらかせる関係が羨ましかった。私は大雅の前で恥ずかしくてあそこまで出来ないな、
そう彩華は思う。フラれてしまった相手に対し、より自分の評価を下げるような行為が出
来なかった。
大雅も同様に、彩華の前でああは出来ない。自分のどこかにある女性的な面がそれをさ
せない、中途半端なプライドかもしれないが。
「いやぁ、しかし3年なんてあっという間でしたなぁ」
幹太が背伸びをしながら言う。
「あぁあ、この時間が永遠に続いてくれれば言うことないのになぁ」
玲奈は両手を後ろに組んで言う。
「まっ、そうやって誰しもが卒業していくんだろうけど」
大雅はポケットに手をつっこんで言う。
「いいじゃない、良い3年間になったんだから」
彩華は遥か向こうの空を見ながら言う。綺麗な青空だった、空はこれでもかと澄んだ青
色、雲は絵の具で塗ったみたいに濃い白色をしている。
こんな空をみんなで見るのは久しぶりだった。部活帰りに眺めるのは、夕暮れから暗闇
へと移っていく空だったから。眩しいぐらいの青空は、そのまま4人の今の心持ちを映す
ようだ。清々しく晴々しい、そんなクリアーな色合い。
「じゃあ、いっちょ行っときますか?」
そう玲奈が缶を差し出すと、他の3人もそれに続く。
「本日、私たちは無事に高校を卒業いたしました」
玲奈は言を始める。
「嬉しかったこと、悲しかったこと、いろいろありましたが全ては素敵な思い出です。こ
れからは大学生として、今までどおりに仲良くしていきましょうね」
言いながら円になってる仲間を見渡す、彩華も大雅も幹太も良い顔をしてる。
「乾杯っ!」
「乾杯っ!」
玲奈の音頭に他の3人も続く。それぞれ持っていた缶の飲み物を豪快に飲んでいくと、
満面の笑みで見合わせた。
大きな満足感があった、具体的に何を達成したというわけじゃないが心は満たされてい
た。高校生である今しか味わえないことをやり遂げた、そういう充実感なのだろう。
「あれぇ、あんた、ボタン全部残ってんじゃんか」
「はっ?」
玲奈の指摘は、卒業式の日によくある異性や後輩から制服のボタンをねだられるという
ことだ。
玲奈は故意的に大雅の制服を指差す、彼の制服は3つのボタンが無くなっていることを
知ってて。
「可哀相だねぇ、幹太くぅん。お姉さんが1つ貰っといてあげようか?」
侘しそうな表情で出された玲奈の右手を、幹太はパンッと叩く。
「お前にあげるもんはねぇんだよ、バァカ!」
そう吐き捨て、幹太は戦闘モードに入る。
「こいつ〜、もう貰わなきゃ気がすまないっ!」
高揚する玲奈も戦闘モードに切り替わり、幹太に襲い掛かる。
「いいからよこせって言ってんの、バカ幹太!」
幹太の後ろに回った玲奈は抱きつくようにして、後ろからボタンを無理に千切った。
「神田橋幹太、獲ったり〜」
獲ったボタンを上に掲げ、得意気な顔で玲奈はブレザーのポケットにそれを入れる。
「最後までやってるよ、あの2人」
「あぁ、でもいいよな」
大雅の返答に彩華は頷く。あんなにも無邪気にバカをやれる関係を他人ながら愛おしく
思えた。
「終わっちゃうんだね、本当に。なんだか、淋しいな」
「大丈夫、これからも一緒にいられるんだから」
そうだね、と彩華は返す。
高校卒業後、4人は同じ大学に行くことが決まっている。みんなで話し合った結果、全
員で同じ大学を受験しようと決めた。高校だけでこの関係を離れ離れにさせてしまうこと
は選択肢から予め外していた。
正直、この関係がなくなってしまうことは考えられない。きっと、この先もこれ以上の
仲間に出会えることはないはずだから。だから、必死になって勉強をして合格をつかみ取
った。勉強は好きじゃないけど、みんなのためならいくらでも頑張れる。自分プラスアル
ファの力があることがどれだけ心強いことか、より思い知った。
「大学生になったら変わっちゃうのかな、私たち」
そんなことないよ、そう言ってくれると思って言ったのに大雅からの言葉まで少し時間
が流れた。
「どうだろうな、環境がそれぞれ変わるからね」
大学が同じといっても、学部はみんな違う。
それでも、大雅はそんなことないよと言ってくれると思ってた。
「変わりたくない・・・私、今のままがいいよ」
欲を言えば、もっと大雅と近づきたい・・・・・・。
「そりゃそうさ、ただ全く変わりないかと言ったらそうはならないよ」
「うん・・・そうだね」
尤もだった、でも彩華は少し淋しくなった。
みんな少しずつ変わっていく、大人になっていく。それによって、みんなの心が遠くな
ってしまうのは嫌だ。心が切なくなって、切ない瞳をしていた。
「彩華、手出して」
「えっ?」
彩華の心情を察したのか、大雅から言葉を送る。
彩華は何だろうかと思いつつ、左手をスッと差し出した。大雅はブレザーのポケットか
ら出した物を彩華の左手の手のひらにそっと乗せる。そこにあったのは、大雅のブレザー
から外れているボタンだった。
「それ、あげるよ」
「・・・・・・いいの?」
式の後に集合したとき、大雅のボタンが全部なくなってるのは確認していた。取ってお
いてほしい、そう予約してはおかなかったから渡しちゃったんだと思った。大雅は彩華の
心内を察してるように、1つを最初に外して取っておいてくれたのだ。
2年以上前、大雅にフラれてから彼は自分に対して少し態度を変えた。気持ちを離すよ
うなことはせず、より彩華に優しくするようになる。彩華はそれが恋心を含ませたものじ
ゃないこと、思わせぶりにしようとしたものじゃないことは分かっている。
ただ、大雅に優しくされることが嬉しかった。彩華はそれを居心地のいい空間とし、そ
こに甘えてきた。
それが26歳まで続いてるとは、このときは思いもせずに。
☆
「でね、その週に3回くらい来てる60歳ぐらいのおじいちゃんに「あなたの笑顔は癒さ
れます」とか言われちゃって」
「うわぁ、そいつはチャレンジャーだな」
蓮香由月のエピソードに、彩華は笑みを浮かべる。
この日は、仕事終わりで4人で食事をすることになった。4人といっても、彩華と乙野、
由月とあの可哀相な男のカップルだ。由月が乙野に会ってみたいと言い出したのがきっか
けで、彼女のおかげで出来た関係なので断ることはせずに受け入れた。
「でっ、乙野さんは彩華のどこが気に入ったんですか?」
「えっ、気に入ったところ・・・ですか?」
「はい、だって気に入ってないのに何回も誘ったりしないでしょ」
由月からのストレートな質問に、乙野は考える。
彩華の良いところを探すのに時間がかかったわけじゃなく、この場に適正な回答をしよ
うとして。
「そうですね、お淑やかなところとかですか」
「へぇ、そうなんだぁ」
そう言いながら、由月は彩華を見てニヤニヤする。乙野の前ではそんなふうにしてるの
か、とでも言いたそうな顔だ。
別に計算してるわけじゃない、乙野の前では変に盛り上がれないだけだ。大雅にはでき
ることが乙野にはできない、大雅を想ってる自分に申し訳ない気がして。だから普段どお
りではない自分が出てしまう、本当はそんなお淑やかな人間なんかじゃない。
「ったく、お前も仁田さんぐらいお淑やかになれよ」
「うるさい、そんなこと言ってると知らないぞ」
由月と可哀相な男が言い合う。
2人はまだ続いていた、その日にベッドインするような関係なんか終わりもスッパリと
したものだと思っていたが。
といっても、その言い合いは言葉の投げ合いに見える。会話のキャッチボールというも
のじゃなく、放り投げてる感じ。武澤玲奈と神田橋幹太の言い合いとは、明らかに違うも
のだ。
「じゃあ、彩華は乙野さんのどこが気に入ったの?」
「気に入った・・・ところ」
彩華は乙野を見る、視線が合うと瞬間的にそれを逸らした。
なんだか、2人はある程度は想いが通じてるような展開じゃないか。
そんなんじゃない、私の心はまだそこまで行ってやしない。そう言いたかったが、言え
るはずもなく縮こめてしまう。
「えっと、誠実そうなところとか」
嘘をついた、嘘をつくことを自分で選んだ。乙野を誠実と感じてるのは本当だけど、そ
れが気に入ったところということではなかった。
「そうなんだぁ。もういいなぁ、2人とも」
由月の冷やかしに乙野は合わせたような笑みを見せると、彩華も続くようにする。
「ねぇ、何なのよ、さっきから」
「んっ、どういうこと?」
由月がトイレに立つと、彩華も追って来る。何かを仕向けたがってる魂胆の見える由
の態度を責める。
「なんだかさ、無理にでもくっつけようとしてない?」
「うん、そうだけど」
「そうだけど、って・・・困るから、そういうの」
ため息混じりの彩華の言葉に、由月は顔色を変える。
「なんでよ、じっくり時間かければいいってもんじゃないでしょ? 彩華のために紹介し
たのよ、あんたがいつまでもバーデンダーの彼から離れられないから。じゃあ、少しずつ
やってけば、その人を忘れられるっていうの? 私は一気に乙野さんと進めてく方が勢い
でいけると思うよ。10年も好きだったんでしょ? だったら、そんな簡単に忘れられな
いじゃない。だから、このまま行っちゃいなさいよ。冷静にあれこれ考えてると、うまく
いくのもダメになっちゃうよ」
言い返せなかった・・・自分が思ってることをそのまま言われたから。確かに、このま
ま緩い状態で関係を進めるのはどうかと思っていた。
乙野に会う度に大雅のことを浮かべてしまう、比較してしまう、大雅を上としてしまう。
それじゃいけない、自分はいつまでも変われない。
そう思っていたから、由月からの言葉は喝を入れられたような気になった。あれこれ考
えるな、大雅は大雅で、乙野は乙野だ。人間が違うんだから、それぞれの良いところ・悪
いところがある。新しい場所に行こうとしてるんだから、真っ新な心にするぐらいの気持
ちでないといけない。そう自分自身に喝を入れる、大雅への片想いから卒業しなければい
けないと。
「乙野さん、行きたいところがあるんです」
「あっ、はい、どこでしょう?」
由月と可哀相な男との食事を終え、彩華は乙野と駅に続く大通りを歩く。元々がそうな
のか、時間帯が遅いからか、人の通りはさほどない。車道を不定期に抜けていく車の音を
耳にしながら、彩華は意を決した。
「乙野さんの家に行きたいです」
「えっ・・・・・・」
突然の彩華からの直球に乙野は時間が止まる。そして、次から次へ頭に降ってくる、今
の言葉の中の意味合いの仮説に動揺してしまう。
単に家を見てみたいのか、その言葉の裏に大きなものが隠されてるのか。普通に考える
なら後者だろう、でもそんな展開になるものなのか。これまで叩いても返りの少なかった
彩華の扉が、開くどころか向こうから来るという。
どういう心境の変化なのだろう、何か悩み事でもあるんだろうか。そういえば、友人と
ケンカをしたと言っていたがそれは今回の言葉に直結はしないだろう。
「はい、何もない部屋ですけど・・・・・・」
そう言うと、彩華はコクリとうなずく。思ってもない流れになって、乙野は仮説と動揺
を重ねていく。
一体、いつ彩華の心はそんなに自分に動いていたのだろうか。女心は分からないとは聞
くが、こんなにそれを実感したことはない。
今、彩華は何を思ってるのか。あがこうとも、答えは全く見い出せないまま足を進める
ことしかできなかった。
「すいません、ちょっと片付いてないけど上がってください」
「はい、おじゃまします」
電車で6駅分を乗り、そこから15分ほど歩いたところにある小ぎれいなマンションに
乙野の住まいはあった。マンションなんてピカピカに磨き上げられたところから蜘蛛の巣
の張ったところまでピンキリだが、ここはピンの方だろう。
おじゃました乙野の部屋も清掃の行き届いた綺麗なところで、乙野の言った「片付いて
ない」ところはキッチンのシンクにあった数枚の食器ぐらいだ。内装も家具もあまり強い
色の少ない、言ってみれば乙野のイメージに添う感じだった。
「何か飲み物でも入れてきますね」
「あっ、すいません」
そう言って、乙野はキッチンの方へ行く。
彩華は目をつむって、大きく深呼吸をした。思いきったものの、いざここまで来ると緊
張を隠せない。いろんな感情が蠢いては自分を覆うように不安と化してくる。
「どうぞ、紅茶でいいですか?」
「はい、ありがとうございます」
乙野は鼻でゆっくり息をしながら、彩華のいるクリーム色のソファに腰を下ろす。
すぐにそこは妙な雰囲気の空間に変わる、それを出すなという方が無理な話だった。こ
んな急展開になることなど、数時間前までどちらも思っていなかったんだから。
「味どうですかね」
「美味しいです、温かいし」
そう笑顔を見せるが、顔の筋肉が硬くてぎこちなく見える。話もなぞったようなものし
かなく、気の利いた話題を振ることもできない。紅茶の味なんか分かってるし、紅茶が美
味しいことぐらい何歳のときから知っている。当たり外れの少ない飲み物だし、なにより
自分が飲んでるんだから味は分かってる。
ああだこうだもがくことで、余計に自分を陥れることになってしまう。何も考えるなと
思うと考えてしまうし、緊張するなと思うと緊張してしまう。
早くしないと、それでいて自然な流れで、そう叫ぶように心に告げる。
「乙野さん・・・・・・」
そう歯を噛みながら、左手を乙野の手に乗せる。
「仁田さん・・・・・・」
お願いします、そう感情を乗せた手から乙野は覚悟を決める。
微かな音とともに彩華に近づくと、その身体をそっと抱きしめる。彩華は密室に閉じ込
められたように、身動きが取れずに委ねるしかなかった。
男性に抱きしめられるなんて、どれぐらいぶりだろうか。その度に失敗してきた、自分
の身勝手で。それを払拭するように、彩華も乙野の背中に手を回した。
「じゃあ、お疲れ様です」
深夜2時、LENNONでの仕事を終えた大雅は小リュックを肩に掛ける。
従業員用の裏口から外に出ると、いつもどおりの黒い空が一面に広がっている。それを
自分に重ねてしまった、いつまでも変われない自分自身に。
前に見た彩華と一緒にいた男は、今も親しくしているのだろうか。これまでも彩華は何
回かそれらしい男を作ってきた、うまくはいかなかったが。
自分も変わらないといけない、そうしないと彩華も次に行けないのかもしれない。彩華
のためにも、自分のためにも、そうしないと。
そんなことを思いながら帰ると、家の前にうずくまってる陰が見えた。
「・・・・・・彩華?」
大雅の声で、うずくまっていた陰から姿が見えた。顔を上げたのは彩華だった、彼女は
涙で顔を濡らしていた。
「どうした?」
そう言うと、彩華はまたボロボロと泣き出してしまう。
「大雅ぁ」
彩華はそう駆け寄り、大雅に抱きついた。これでもかというぐらいに力いっぱいにして、
そこで泣き続ける。
大雅は理由は分からないまま、彩華のことをそっと抱きしめる。
彩華がこうしてくるのは珍しい、普段はそうしたいと思ってても自分の感情を押し殺し
ているから。それをするということは、きっと余程のことがあったのは読み取れる。
抱きしめた彩華の身体は愛おしかった、10年も自分を純に想ってくれてる相手なんだ
から。
コツン、大雅の家のリビングのガラス板のテーブルに缶の当たる音。
「これ、どうぞ」
彩華は言葉なしにうなずき、その缶ビールを少しずつ口に含む。
部屋の中は何の音もなかった、時間帯からして外からの音も少ない。
大雅は缶ビールを1本飲みきる間、何の言葉も発しなかった。そして、1本飲みきると、
そこをタイミングをしていたように口を開く。
「今日はどうしたの?」
優しい言葉だった、声色も声音も。
「よかったら、話してくれない?」
大雅の言葉に彩華はフッと心を洗われて、涙の理由を全て話した。
由月と可哀相な男と乙野と食事に行ったこと、由月に喝を入れられて乙野の家に行った
こと、そこで乙野に包んでもらったこと、その先も。
彩華は乙野に包んでもらったが、感じることが出来なかった。途中で大雅のことを思い
浮かべてしまい、そこから何をされても無理になった。それでも感じているフリをしたの
だが、身体は素直だった。いくら時間をかけても、身体は反応しなかったから。
これまでもそうだった、過去にも同じように包んでもらったことが何回かあった。その
度に大雅のことを思い浮かべて、同じ結果に終わってしまう。
今回は大丈夫、そう言い聞かせて行ったのに乙野にも同じことをしてしまった。
「ごめんね、いつもダメで・・・・・・」
そう彩華はまた泣き出す、大雅はそれを見て彩華をまた抱き寄せる。
「謝らないで、悪いのは全部俺だから」
そうだ、自分がいるから彩華はいつまでも自分から抜けられない。お互いに甘えて、結
果こうやって傷を負ってしまう。
そして、またこうして相手に甘えてしまう。
「泣かないで、彩華・・・・・・」
ゆっくりと彩華の身体を倒すと、見つめ合ったまま唇を合わせる。何度と繰り返すと服
を脱ぎ、彩華の身体を包んでいく。
これが毎回の流れ、傷ついた彩華の身体を大雅が包む。悲しげな彩華の瞳と悲しげな大
雅の瞳、切ない彩華の心と切ない大雅の心。熱く燃えるような行為をしてるはずなのに、
いつも2人は淋しかった。
こうすることで、またふりだしに戻っていく。同じことを繰り返しているだけの行為、
そこに幸福は少しばかりしかなかった。
それでも、2人はお互いを包んでいく。彩華はこれ以上ないほどに感点に達する、抑え
ることもせずにそれを出していく。乙野には出来なかったことが、大雅にはこれでもかと
出来てしまう。
ただ、大雅はその逆にしかならなかった。大雅はいくら彩華を包んでも、感じることは
出来ない。乙野に対する彩華のそれのように、大雅には無理だった。こんなにも愛おしい
相手と抱き合ってるのに、どうして切なくならなければいけないのか。大雅のビスケット
みたいに甘くはなれない、あの理想系の味と現実は違う。
考えれば考えるほど、2人は樹海にはまっていく。それを隠すように彩華は大雅の身体
をきつく抱きしめた。どうにもならない感情に苦しめられ、変わらぬ夜明けを迎える。昇
ってくる朝日の眩しさに反比例するように、2人は悲しげな瞳を見合わせた。
本作は全4話となっているので、次回が最終話ということになります。
(その他、エピローグもあります)