第2話
目が覚めると、仁田彩華は東京の街の中にいた。
今日も私は死んだような街で目を覚ました。きっと、自分も死んだように生きているん
だろう。
起きがけの沈んだ身体にミネラルウォーターを入れてみる、頭が痛み出すことはなかっ
た。いつもは肉体的に沈んでる身体が、今日は精神的に沈んでる。
目が開いたら違う世界がそこにあれば、そんなことをよく思う。
思うのは決まって同じことがあったときだ。井倉大雅との間に起こったことで、彩華の
心にヒビが入ったとき。現実逃避に近い感情になって、別の世界を望む自分がいる。
そうだとしても、大雅にはそこにいてもらいたいと思う自分を卑しくも思う。その世界
では自分と大雅が結ばれてほしい、そう操ってしまう。
どう願おうが現実が変わらないことは分かってる。でも、もどかしい現実をどうにかし
たいともがいて、結果そうやって自分勝手な世界を創ってしまうのだった。
「大雅・・・・・・」
気づいたら、彼の名前を呼んでいた。昨日あんなふうに店を出て来て、大雅はどう思っ
ただろうか。自分に申し訳なく思ってるだろうか。それとも、自分の勝手な行動に嫌悪を
感じてるだろうか。
そればかりが気になった、2人の関係はこんなことの繰り返しだ。
彩華が一方的に大雅を想い、大雅は恋人未満として彼女の存在を受け入れる。そんな日々
が続いてくうちに彩華は現状に不満足になり、大雅に強くあたってしまう。
もう10年もそんな関係でいた、いい加減にそこから抜け出したい。それ以上には抜け
れない。でも、それ以下になることは嫌だった。
結果、彩華はいつまでも樹海のようにそこに居続けてしまう。この先もこんな着地点の
見えない飛行が続くのかと考えると、ため息が絶えない。
「どうしたの、ため息なんかついちゃって」
「うぅん、何でもないよ」
蓮香由月に小さな嘘をついた。昼休憩でのデパートの食堂とはいえ、華やかさが売りの
デパガとはいえない顔を彩華はしている。気が抜けてるのか、意識のないまま彩華はまた
大雅のことを頭に浮かべていた。
仕事場なんだから集中しないと、そう気を引きしめなおす。
「一昨日、何かうまくいかなかったの?」
「そういうわけじゃないよ、別に」
はっきりいって、一昨日の乙野智良とのことなんか彩華の頭にほとんどなかった。
「良い人だったんでしょ、だったらいいじゃない」
「まぁ・・・そうなんだけど」
こりゃダメだ、煮え切らない彩華の態度に由月はあきらめる。
「また、バーデンダーの彼のことなの?」
しかめ面で由月は言う。それに彩華は何も答えない。彼女はドラマでいうなら、主人公
をいびる嫌な役柄のような顔をしている。なので、彼女には笑った顔よりも正直そういう
顔が似合っている。
「あんたね、何回も言ってるじゃない。その人は彩華に振り向いてくれないんでしょ? な
ら、とっとと次の恋に動きなさいよ。そこが彩華の1番ダメなところ、脈がないなら諦め
るのも必要なの」
由月の言ってることは尤もで、それに対して執拗に反論することはしない。
だからといって、彼女の言うことを聞き入れもしない。10年も悩んできてることだ、
由月の言動ひとつで気持ちが変わったりはしない。
「乙野さんと次の約束したんでしょ? だったら、有無を言わさず会いなさい。デートし
てくうちに向こうの良さが分かってくるから、きっと。叶わない恋に執着してないで、目
の前に転がってる確かな恋をちゃんと拾いなさいよ」
「・・・・・・はぁい」
目の前の恋を拾うというところではなく、次の約束に会うというところに言った。自分
がそうした方がいいことは知ってる、そっちにいった方がいいことも。
仕事終わり、最寄り駅で由月と別れると彩華はすぐに携帯を手にした。更衣室で一見し
たとき、乙野からの着信、大雅からの受信メールを確認していたから。
さっき、由月からは乙野と連絡を取るように諭されたが、彩華は先に受信メールを開い
ていた。彩華にとっては、何倍も大雅の心持ちの方が気になっていたから。
「昨日はごめん、彩華の気持ちを深く考えずに言ってしまって。また傷つけちゃったな・・・
もう何回目になるだろう。でも、分かってほしい。俺は彩華の淋しさを全て埋めてあげら
れない。だから、もし彩華にそういう人が出来そうなら、俺のことは気にしないで行って
ほしい。そっちの方がいいはずだから、彩華にも、俺にも。とにかく、昨日のことは謝る
よ。よかったら、また店に来てほしい」
まただ・・・また大雅は自分のことを少し離しては近づける。切り離したりもせず、微
妙なところに2人はいる。友達以上の恋人未満、その間にずっと自分はいる。
高校1年の冬、初めて彼に告白したときから。
☆
16歳のクリスマスイヴ、彩華は大きな期待を胸にその日を迎えていた。
外は冬本番の寒冷風で、コートを着てようと、ブーツを履いてようと、マフラーを巻い
てようと、ニット帽を被ってようと、お構いなしといったところだ。
しかし、彩華の身体の中はいろんな感情が行き混ざっており、むしろ暑いぐらいだ。心
内の揺らめきはうまくコントロールできず、それを察したのか武澤玲奈がポンと彩華の肩
に手を回す。
「彩華、いい? シュミレーションのとおりにやれば、間違いないはずだから」
「うん・・・なんか、昨日からずっと落ち着かないんだけど」
「大丈夫だって、あんなに息が合ってるんだからNOなんてありえないわよ」
しっかりしなさい、そう玲奈にまたポンと肩を叩かれる。
昨日、玲奈の家でこれでもかというぐらいのミーティングをした。玲奈曰く、題して「大
雅を振り向かせるんです作戦」の最終章の。
「ここまで、じっくり時間かけてきたんだから焦ることないよ。もう、あとは自然な流れ
で2人はくっつくから」
そんな保障のないこと言われても・・・彩華本人は玲奈の言葉に不安を抱かずにはいら
れない。
とはいっても、玲奈には今日まで数知れないぐらいの協力をしてもらった。
「まずはね、大雅の前で変顔とか白目とか一切禁止」
玲奈案はそこから始まった。
バカな話はしてもいい、バカみたいに笑ってもいい。ただ、バカみたいな行動は控えな
さいと。
今現在、大雅には彩華は「一緒にバカやる同士」ぐらいにしか映ってないだろうとして、
彩華を女として見せることから作戦は開始された。
「次はね、大雅の前で女らしい面を見せるように心掛けなさい」
玲奈案の第二次がそこから始まった。
イスに座るときに開きぎみだった足を閉じるようにする。閉じてる足の上に両手を手の
ひらを上にして置くようにする(手の甲を上にする方が女らしいんだろうけど、それはさ
すがにお嬢様気取りに見えて逆に違和感が否めなかった)。笑うときも大口を開けるんじゃ
なく、お淑やかに見えるようにする。他にも、背筋は伸ばす、さりげないボディタッチ、
意識を向けた視線を送る。そんな仁田彩華のイメージ改革は時間をかけて確実に進んでい
った。
「次はね、大雅の方に彩華に意識を向けさせるようにするの」
玲奈案の第三次がそこから始まった。
簡単にいえば、大雅との2人きりのシーンを多くするということ。
生後間もない動物の親子みたいにくっついて行動していた4人グループから新しい関係
を築くため。
最初は恥ずかしかった、大雅といるときはバカしかやってなかったのに真面目な空気に
なって何をすればいいのかさっぱりだった。それでも、放課後に一緒に帰ろうと誘ったり、
休日に一緒に出かけようと誘ったり。彩華の気持ちは敏感な思春期の学生にはもう伝わっ
てるだろうというぐらいに大雅への行動に移されていた。
そう、あとは告白だけというところまで。
夏に大雅に想いを寄せてから半年近い時間を掛けて玲奈案の作戦は実行された。全ては
この最終章、今日の日のために。
今日はいつもの4人グループで遊ぼうと、大雅や神田橋幹太と集まった。珍しく人通り
の多いところへと出向こうと横浜に来て、中華街で食べ歩きやウィンドウショッピングを
して時間を過ごしていく。
それは彩華には気が気でならない時間でしかなかったが、表情は楽しそうに取り繕う。
そして、辺りが暗くなり出したころ、玲奈から「行くからね」と合図を出される。来た
っ、そう思うと玲奈は大雅がトイレに行った隙に幹太を連れ出した。去り際に「頑張って」
とグッと左手を握り上げる玲奈に、彩華も同じように返す。
頼もしい友達がいてよかった、このときは心底そう思えた。
「あれ、どうしたの?」
玲奈と幹太は、という意味で大雅は言った。彼がトイレから戻って来ると、そこには彩
華がポツンと立っていたから。
「2人ともトイレ行ったの?」
大雅はなんとなくを感じた、もしトイレだったら幹太と擦れ違ってるはずだ。
「なんかね、別行動とるからって行っちゃった」
「別行動?」
「4人で夜景見るのも味気ないからって、2人・2人に分かれようとか言って」
そう言うと、大雅は何も返さなかった。何かを納得したように一つうなずき、視線を横
に向ける。
「ねぇ、せっかくだから2人で夜景見に行こうよ」
余裕のある顔で言ったけど、本当はドキドキしていた。
「・・・・・・そうだね」
大雅はフッとやっと笑みを見せてくれた。彩華はそれにホッと安心した。
横浜港を見下ろす高台にある、抜群のロケーション。ベイブリッジやマリンタワーを一
望できるビュースポットからの夜景はすでに人でいっぱいだった。そこから映る景色は瞳
に輝かしく入ってきて、少しだけ彩華は心を落ち着かせられた。
「キレイだね」
「うん、そうだね」
しばらくはそうしていた、タイミングをうかがいながら。
5分ぐらいが過ぎたころ、彩華は意を決して行動に移す。
スッと大雅の左腕に右腕をまわすと、自分の身体も寄り添わせる。頬に合っている彼の
コートの温かみを大雅自身の温もりと錯覚したような感覚で、その温度に包まれながら彩
華は思いを口にした。
「ねぇ、大雅」
「んっ?」
「ずっと・・・好きだったの」
何一つおかしくない流れだった、あとは大雅からのOKの返事を待つだけだった。
ただ、大雅は考え込んだまま返答せず、やがて一言もらすように言った。
「・・・・・・ごめん・・・・・・」
時間が止まった、何が起こったのか最初は理解できなかった。正確にいえば、起こった
現実を受け入れようとしなかった。絡めていた腕と添わせていた身体をどうしていいか分
からず、固まったようにその姿勢を続けてると大雅からの言葉が聞こえた。
「彩華のことは好きだよ、友達として、女として。でも、そういう恋人関係にはなれない」
大雅の発言の意味が彩華には分からなかった。女として見てくれてるなら、女として好
きなら、どうして自分ではいけないんだと。
その場で大雅を責めたかったけど、それは気持ちを留まらせた。すがるようなことして、
余計に離れさせたくなかったから。
なんだか、無数に光り輝くイルミネーションがその分だけ彩華の心を空しくさせていた。
その日の夜、玲奈に電話をかけると全てを彼女から知らされることになった。
家に帰ってから毛布にくるまって、ひたすら泣いた後に玲奈に話を聞いてもらおうと電
話した。
彼女の声は静まっている、さっきまでの弾みは陰をひそめてる。こっちが何を言う前に
内容が分かっていたようだ。
彼女と別れてからの大雅との一連のことを話すと、
「ごめん、こんなふうになるはずじゃなかったんだけど・・・・・・」
と謝るように言う。
何かを含ませたような言葉に感じれたが、それはすぐに玲奈から告げられる。
「あの後、幹太にあんたと大雅のことを話したの。半ば強引に連れ去ったから、幹太も何
がなんだかっていう感じで問いつめてきて。もちろん、あんたと大雅がうまくいくって思
ってたから言ったんだけど」
話を聞いてるだけで、そのシーンは浮かんだ。自分に合わせるように玲奈もそんなには
バカをしないようになったけど、それでも玲奈と幹太は相変わらずといったように日々笑
いまくっていた。
「そしたら、幹太から彩華の恋はうまくいかないみたいに言われて。何言ってんの、友達
なら応援しなさいよぐらい言ったんだけど、すごい冷静に下向いてて。それで理由を訊ね
たら、幹太から聞かされたの」
それが自分が大雅にフラれた理由・・・彩華は息を止めるように聞く。
「大雅ね・・・男の人しか好きになれないんだって」
また時間が止まった、今度は頭の中も空っぽになった。
玲奈の言ってることは理解がしきれず、
「どういうこと?」
と聞こうにもうまく言葉が口から出てこなかった。
「昔からそうだったみたいで、両親にも言ってないことらしいよ」
嘘だ・・・そんなの嘘だ。そう言い聞かせたかったけど、現実は変わらない。
「それ・・・知ってるのは幹太だけなの?」
「中学のときの友達も2人知ってるらしくて、ウチの学校では幹太だけだって」
そんな・・・そりゃ、そんなこと仲良しといえど女には言えないのは分かるけど。
これまで大雅から恋愛の話を聞いたことはなかったのは、彼女がいないからと良いよう
に捉えていたが違った。悔しいとか悲しいとか寂しいとか苦しいとか、どんな感情とも表
せないものに彩華は襲われる。
何もできない、無常な現状に胸を掻きむしられるようになった。
☆
「仁田さん? 仁田さん?」
「・・・・・・あっ、はい」
乙野の呼びかけで彩華は現実に戻る。
「すいません、僕とだとつまらないですよね」
「いえ、そういうんじゃないです。ちょっと、今日中に結論出さないといけないことがあ
りまして」
「そうなんですか、それは誘ってしまってすいません」
「いやっ、いいんです。本当に気を遣わないでください」
大雅からのメールを見た後、彩華は乙野からの着信に対して返信の電話を掛けていた。
そこで、乙野と約束をしてレストランで食事を摂った。
乙野は前回と同じような低姿勢で彩華と会話を続ける。まだ2回目だが、おそらく彼に
は目立つような裏の顔はないのだろうと見受けられる。二重人格かと疑いたくなるような
人間も世の中には溢れるほどいるが、彼は違うだろう。子分気質というか、勢いまかせに
人に手や口を出すことはしなさそうだ。
「よかったらですけど、僕に話してもらえませんか?」
「えっ」
「非力ですが、仁田さんの力になりたいんです」
乙野の眼は真っすぐだった、それに彩華は多少に動かされる。
「友人とケンカみたいになっちゃって。私が怒っちゃったんですけど、どう謝ればいいか
なって思って」
「そうなんですか・・・でも、大丈夫ですよ。誠意をもって謝れば、想いは絶対に相手に
伝わります」
乙野には申し訳ないが、彩華には上辺をなぞってるようにしか聞こえない。
どれだけ想っても伝わらない、大雅への気持ちはその言葉じゃ説明がつかない。
「はい、そうしてみます。ありがとうございます」
「いえ、お役に立てたならよかったです」
そう、2人は笑みを浮かべる。乙野の素直な笑顔と彩華の作った笑顔。
彩華の心の中は今の自分のふがいなさでいっぱいだった。乙野の人柄に触れてると、中
途半端な気持ちでいる自分に息をつく。
彩華は乙野と別れ、そのままLENNONを訪れる。
シャリン、カララン。LENNONの入口の扉を閉めると、この2つの音が鳴る。
シャリン、扉の上の方に掛けてある3つの鈴が扉と当たって奏でられる1つめのおかえ
りなさい。
カララン、扉の真ん中に掛けてある「WELCOME」の木製オブジェが扉と当たって
奏でられる2つめのおかえりなさい。
「おかえり、彩華」
店のカウンターの中にいる大雅からの3つのめのおかえりなさい。
いつもと変わらない顔で大雅はいてくれた、それが私の詰まってた心を休めてくれる。
「ただいま、大雅」
私からのただいま、心安らいだ私からのただいま。
カウンター席に腰を降ろすと、大雅はカクテルシェーカーを手に取る。何も言わず、お
もむろに大雅はその手を進ませていく。
そして、目の前のカクテルグラスに注がれたオレンジの鮮やかさは彩華を惹きつけた。
「キレイだね、これ」
大雅との昨日ことは瞬間忘れていた。大雅の「おかえり」とこのオレンジがそうさせて
くれた。
「俺からのおごり、飲んでよ」
彩華を悲しませて怒らせてしまった分、そうグラスを彩華の前へ差し出した。オレンジ
は彩華の1番好きな色、それを分かって大雅はその色を選択した。
「ありがとう、大雅」
大雅は「飲んで」と、手をクッと上げる。彩華は少しオレンジの色合いを見やってから
口にした。
「おいしい、腕を上げたな」
視線が合うと、2人は互いに口角を上げた。
「ごめんな、昨日は悪かった」
「うぅん、私が大雅に甘えすぎなんだよ」
大雅は彩華の望むようなことを全てしてあげることが出来ない。だから、大雅は彩華か
らの想いにいつも胸の内を苦しませる。彩華はそんな大雅の心を知っている、知ってて彼
に甘えることを選んでいる。
大雅はスッとその場を離れ、店のインテリアの中にある缶ケースを開く。そこへ手を伸
ばすと、取り出した円状のココアビスケットを彩華に2枚差し出した。
「はい、どうぞ」
彩華はそれに心が洗われた。そして、大雅に優しい笑顔を向ける。
「ありがとう、いただきます」
そう言うと、彩華はビスケットを1つずつ頬張っていく。
大雅も缶ケースから取り出したココアビスケットを頬張っている。これが彩華と大雅の
2人なりの仲直りの方法だった。これまで、何回とこのビスケットが自分たちの心の中を
キレイにさせてくれたことか。
☆
大雅に告白した翌日、大雅が男性しか愛せないことを知った翌日、学校に行くのが怖か
った。
その日は終業式だけだったが、教室の前まで行ってもどうしても一歩を踏み出せずにサ
ボった。具合が急に悪くなったことにして保健室で寝てたら、玲奈が付き添いと言って一
緒にサボってくれた。
「彩華、大丈夫?」
「身体は大丈夫・・・でも、身体の中が大丈夫じゃない」
結局、昨日は一睡も出来なかった。
それはそうだ、16歳の女の子にとって好きな相手が同性愛者であるなんて衝撃的でし
かない。自分の中でどう整理をつけていいかが分からなくて彷徨うことしかできなかった。
急にそんなこと言われても、彩華が大雅を好きであることは変えられない。これからもそ
れは同じだし、これからも彼と顔を合わせる日は続く。どんな顔して会えというんだ、今
までどおりになんか出来やしない。
「ごめんね、終業式なのに私のせいで」
「何言ってるのよ、あんな堅苦しい式に出るより彩華といた方がいいに決まってるでしょ」
いい口実になったわ、と玲奈はニンマリしてみせる。
少し開いていた窓からは体育館で行われてる式の様子が微量に聞き取れた。校長の挨拶、
校歌斉唱、各賞表彰、離任式、飽きるくらいやってきたことがまた行われている。
30分くらいすると、その音がなくなった。終業式が終わり、教師も生徒も校舎に戻っ
て2学期ラストのHRに入る。ざわつく声は聞こえるが、終業式のマイクの声のように聞
き取れはしない。
だんだん、それがうるさく感じた。何も考えたくなくなって、外野の野次みたいなざわ
つきが耳障りになった。
玲奈に「寝る」と言い、彩華は布団をかぶる。そのうち、閉所にいたからか、今になっ
て来た眠気に襲われて彩華は本当に眠りについた。
目が覚めたら、玲奈の声が聞こえた。
誰と話してるんだろう、そう寝起きの回らない頭で思考する。保健室の先生かと思った
けど、次に耳にしたのは男の声だった。それも耳馴染みのある声、布団をゆっくりめくる
と幹太がそこにいた。
「彩華、起こしっちゃった?」
「うぅん、私いつのまにか寝てたんだね」
一時間ちょっと彩華は眠っていた。その間にHRは終わり、幹太は保健室に来て玲奈と
話していた。
「幹太ね、私たちの通知表とプリント持って来てくれたの」
「そうなんだ、ありがとうね」
彩華が浮かない顔をしていたため、玲奈が事を説明した。浮かない顔をしていたのは、
寝起きと落ち着きのない心情のせいだ。
「こいつ、ちゃっかり私たちの通知表とか見てるんだよ。信じられる?」
「知らねぇよ、見るようなやつに渡した先生が悪いんだろうが」
「彩華、大丈夫。こいつの通知表も無理くり見ておいたから。私たちの方が成績よかった
ら心配しないで」
玲奈と幹太のやり取りが彩華には微笑ましかった。自分と大雅は、もうこんなふうにな
れないのかと考えると無性に寂しく思えてきた。
「ごめんな、何て言っていいのか分からないんだけど・・・・・・」
幹太は真面目な顔になり、彩華に昨日の一件についてごめんと言った。
「幹太は関係ないよ、そんなふうに言わないで」
幹太は大雅の事情を知っていた。だから、彩華に対して少なからず責任を感じる部分が
あった。ただ、彩華の気持ちを知らなかった彼にそれほど自分を責める必要はない。
「大雅、昨日のことで悩んでるみたいだったよ。こういうことになったのを悔やんでた、
あいつのせいでもないんだけど」
そう、誰のせいでもない。
ただ歯車が噛み合わなかっただけ、一方通行に限定された道を歩いてるだけなんだ。
彩華は納得のしきれない心持ちをなんとか静める。
その日は教室には行かず、そのまま帰宅した。歩幅はいつもより狭かった、瞳はいつも
より開いてなかった、心はいつもより閉じていた。
家に帰って幹太から渡された通知表とプリントを見ていると、間に何かが挟まっていた。
ビニールの袋に入ってたのは手紙とミルクビスケット2枚で、それが誰からのものかはす
ぐに把握できた。
大雅はいつも学校にビスケットを持って来る、味はその日その日で変わる。ただ単に食
べたいというより、それを食べることで心情を落ち着かせることができるらしい。
小さい頃から母親が定期的に作ってくれた思い出の味で、親元を離れて寮生活をしてる
大雅はいつも親代わりにとビスケットを持っていた。彩華や玲奈や幹太もおすそわけして
もらうことはあるが、この日に限ってはそれの持つ意味合いは大きく違っていた。
彩華は手紙を読みながら、ビスケットを少しずつ口にしていく。
「彩華、昨日は本当にごめん。彩華のことは好きなんだ、それに間違いはない。俺の勝手
なことで彩華を傷つけたのは悔やんでも悔やみきれない。俺が彩華にしてあげられること
ならしてあげたい、そう思ってる。だから、これまでのように4人で集まれないかな。今
までみたく、彩華や玲奈や幹太と楽しい時間を過ごしたい」
読んでるうちに涙がたまらなく流れた。大雅の優しさが余計に自分を深いところまで遣
ってしまって。
結果を出すことは出来なかった、同時にここから彩華の長い苦悩の片想いが続くことに
なる。
☆
深夜2時すぎ、仕事を終えて自宅に帰った井倉大雅は物思いにふけっていた。
10年前のクリスマス・イヴに彩華から告白された日を思い起こして。
あの日、彩華から想いを告げられたときは正直驚いた。同時に、動揺を隠せなかった。
こうなってはいけないはずだった。思いが通じ合えるほど仲良しだった彼女に想いを寄
せられる、ということは。
せっかく出来た親友といえる、彩華と玲奈と幹太。彼らとの関係を崩してしまうことは
恐れていなければいけなかった。
この展開を予期していなければならなかった。なのに、目先の楽しい日々をうつつをぬ
かすように過ごしていたせいでこうなってしまった。
初恋は幼稚園のときだった。
同じクラスの活発な男の子で、そのときは同性に想いを寄せる自分に何の違和感もなか
った。深く考える知能もなく、それが普通のことなんだと思っていた。
小学生になると、だんだん違和感を憶えるようになってくる。
実生活でも、テレビドラマでも、漫画やアニメにおいても、男性は女性に、女性は男性
に好意を抱くのが当たり前であることに気づいた。
同性のクラスメイトを好きになっている自分が普通でないと知り、他人と違う行為をし
ている自分を塞ぎ込むようになった。好意を持ったとしても、それを誰にも言えない日々
が続く。
苦しかった、自分の恋心は絶対に報われないということが。
そして、これからの人生が怖くなった。自分は一生を棒に振る、ずっと独りきりで生き
ていく孤独感に襲われた。
中学生になると、大雅は独りになった。
思春期に差し掛かり、自分というものを出すのを止めた。周りにいる人間に、ごく一般
的な男子中学生という自分を創って見せて日々をやり過ごす。
ただ、そんなものは余計に自分を追いつめるだけでしかなかった。自分が自分でなくな
る、やがてそうなるんだと思うと精神的に落ちていく。
それを打破しようとは思わなかった、正確にいえば思う勇気がなかった。しかし、この
ままでは自分が無くなってしまうという危機感に駆られ、仲間内の中でも親身になってく
れそうな2人だけに本当の自分を打ち明けた。
彼らは分かってくれた、それでも友達でいてくれることを選んでくれた。話してよかっ
た、そう思えたのは半分ぐらいだった。それによって、彼らとの間に何かしらの壁が出来
たのも事実だった。以前の関係にはなれない、予想はしていたが実際そうなると辛かった。
でも、仕方のないことだ。 それは自分が今後も背負っていかなければならない運命。
そうやって生きていくんだ、と中学を卒業するときに自分に言い聞かせた。
高校生になったとき、初めて親友と呼べる女子に出会えた。
それまでは同性を好きである自分を隠すため、あえて異性は遠ざけていたから。女子に
は冷たい人間、そういう自分を確立させて異性関係のことを対処してきた。
仁田彩華、武澤玲奈、彼女たちはそんな自分を変えさせてくれた。幹太も含めた4人で
いる時間は、これまでにないものだった。裏になっていた井倉大雅という人間を再び表へ
と返してくれ、純粋に学校生活を過ごせる毎日を与えてくれた。
幹太には夏頃に本当の自分を打ち明けた、反応は中学のときと同じだった。それは自分
の背負った運命なんだからいいんだ、そう納得させる。
ただ、他の2人にはそれは言えなかった。彼女たちに打ち明けたら、きっと離れた関係
は元通りに戻らないだろうと思ったから。
なのに、自滅というに等しい結果で知られることになってしまった。もうダメだ、失わ
れたものは帰ってこない。
そう確信していた、決別に近い去り方をされるのだろうと。
大雅は押入れに積み重なってあった荷物からフォトアルバムを引っ張り出す。高校時代
からの彩華や玲奈や幹太との思い出の写真や品々を入れてあったアルバムから1枚の紙切
れを取り出した。
普通の学習ノートの切れはし、そこには彩華からの言葉が書かれている。
高校1年の3学期の初日、彩華は「おはよう」と以前と変わりのない様子で大雅の前に
現れた。
そして、HRの途中にそのノートの切れはしを渡された。
「ごめん、嫌いになれない」
彩華からの答えは意外だった。
嫌気を差されて離れていってしまうと思っていたのに、彼女は大雅の側にいることを選
んだ。その答えにホッと安心もした、同時にそれが彼女をどれだけ苦しめるかも多少なり
に理解していた。
お互いが傷つくと知りながら、大雅と彩華は近くに戻った。元通りにはなれないが、ま
た4人でいられる。その空間に大雅は身を委ねた、彼もその樹海に入り込んだ1人だった。
彩華と同じようにそこを抜け出せず、もがくことを続けていた。なんとかしようとは思
う、思いつつ彩華からの好意に甘えていく。ふがいない自分が嫌になる、自分が曖昧な態
度をとってるせいで彩華はいつまでもここにいてしまう。彼女をダメにしてしまってるの
は他でもない自分、そう大雅は自身を痛めつけていた。