第1話
目が覚めると、仁田彩華は東京の街の中にいた。
ありえない間隔で走る電車の音。大名行列のようにごったがえす通勤者の足音。ケンカ
でも売ってるのかと思いたくなるほど鳴り響く車のクラクション、大多数の人間には直接
の関わりはない情報だらけのテレビ番組、どれもこれもうるさくてやかましい。
戦争でも起こるのかと疑うくらいに毎日を騒ぎ立てる東京。
なのに、そこにいる人たちは死んだような目で日々を過ごしていく。
日本の中心、アジアを代表する大都市、発展途上を続けるこの場所は死んだように生き
ている。
活気づいた街並みは全てが喧騒で、瞳に映る景色は上辺だけで造られた世界にすぎない。
彩華は今日もその中で目を覚ました。きっと、自分も死んだように生きているんだろう。
起きがけの沈んだ身体にミネラルウォーターを入れてみる、頭がキンキンと痛み出す。
昨日はLENNONでウィスキーをしこたま飲んで、潰れる寸前までいって大雅が家ま
で送ってくれた。
記憶ははっきりあった、これが彩華の常習的なやりくちだから。わざと記憶は残したま
まで酔って、大雅と2人きりの時間を作る戦法。
汚いやり方なのは分かってる。たとえ、そう言われてもかまわない。
もしかしたら、大雅も自分の意図を分かってるのかもしれない。分かった上で、自分の
ことをいつも家まで送ってくれてるのかもしれない。それでもいい、ほんの少しでも大雅
の側にいられるなら。
朝になって、こうやって頭痛になってるのも毎度のことだ。でも、やらなきゃよかった
なんて思わない。自分を沈ませてでも一時の幸せを選ぶ、これってそうとうなMなのかな。
頭がキンとした、今は考え事はやめておこう。
彩華は東京にあるデパートで受付の仕事をしている。
受付の仕事を選んだ理由は、華があること。毎日刺激のある緊張感のある仕事、それが
就職活動の第一条件だった。
ただ、華があるだけに長く続けられるものではない。
四十や五十になって我堂々とデパートの受付カウンターに座ってる女なんか、これまで
見たことはない。
やがて散りゆくものだから刹那の流美に酔いしれる、そんな世界観を彩華は愛してやま
ない。
そういう意味で、彩華は女優という職業の人間を尊敬している。
10代、20代で華を咲かせては美しく艶めきを放つ、その様は眩しくてたまらない。
でも、四十や五十になっても華を咲かせ続けれるのは一握りだ。多数の女優は才色兼備と
称えられながら、個性派へシフトチェンジするか、衰退の一途を辿るか、そのどちらかに
なるだろう。
受付の女性は品があり、才があり、華がなくてはならない。
自分自身を誇示するため、磨き上げるため、彩華はこの仕事を選んだ。プライドが人一
倍高いわけではない、合コンで自分を飾るためではない。
全ては仁田彩華を輝かせ、井倉大雅へと届けるためのこと。
報われない努力、そんなことは百も千も分かってる。それでも止めはしない、自分が大
雅への愛を止めるまでは。
「ねぇ、今夜空いてる?」
午後2時半、笑顔を保たせたままで受付カウンターの中にいると、隣にいた蓮香由月が
声をかけられた。
男は25歳前後だろうか、髪はボリュームをつける程度にふんわりさせて、目は少し垂
れぎみ、フッと微笑んだ様は相手に安心感を与える効果がある。おそらく、それを武器に
して女性にこうして近づいているのだろう。
第一、こんな昼間にスーツで女に声をかけるなんて、ろくな男とは思えない。
時間帯からすると営業まわりの途中だろうか、仕事中に欲に手を出すなんて余程その仕
事に愛がないんだな。
可哀相な男だ、そんな仕事なんか続けても自分の身になりはしないのに。
「今夜ですか、少々お待ちください」
由月は周囲の店員たちにナンパだと気づかれぬよう、案内業務のマニュアルの単語だけ
を変えた接客をしていく。男に尋ねられた項目を調べるフリをして、手元では彼女のスケ
ジュール帳が広げられている。
周りを巻くその行為ですら、目の前に佇む男の気を引くための行為。
由月にとって、スケジュール帳に書いてあることなんかどうでもいい。この見た目高得
点の男に誘われた時点で彼女の中ではOKサインが出ている。彼女が周りにバレる危険性
を含ませてまで時間を取るのは自分の敷居を上げるため。
本音は前のめりになり、男の手を取って
「空いてます、ぜひ一緒にお食事でもっ!」
といったところだ。
しかし、それじゃあ味気ない。
こうやって勿体ぶることで、簡単にオチる女ではないことを相手に植えつける。
その分だけ男は由月をオトすために力を入れる、それで彼女の周到な作戦は成功だ。
本音を出して男を優勢に立たせはしない、あくまで自分が手綱を握る側だとういうこと。
「お客様、本日は予定が空いております」
受付女性としての笑顔のまま、店と客という関係性は崩さないままで由月は答える。
男は右側の口角をクッと上げる、これは脈ありだとでも思ってるんだろう。
「じゃあ、仕事終わったら電話してよ」
そう言って、男は由月の前に名刺を置く。
なんだか、手慣れた作業のように見えた。この男、きっとどこでもこんなふうにナンパ
してるんだろうな。
男は由月と「後で」とアイコンタクトを交わし、その場を去っていく。
「やった、男ゲット!」
由月は彩華を見て、彩華以外の人間に見えないように太もものあたりでガッツポーズを
した。おさえきれないように、受付女性の笑顔以上の笑顔を彼女はする。
彩華はやれやれと自分を崩さないままで由月へ笑ってみせた。
「ねぇえ、彩華、一緒に行こうよ」
「いいの、1人で行っておいで」
午後8時すぎ、デパートが閉店して更衣室で着替えてると由月からせがまれた。
内容はなんてことない、昼間の男に関してだ。
「向こうがさ、友達連れて来ていいって言ってるの。ある程度、雰囲気が出来上がるまで
でいいから来てよ」
「2人きりになりたいんでしょ、だったら最初から2人で会えばいいじゃない」
「そんなの、こっちが今日決めにかかってるのバレバレじゃん。軽い女と思われたくない
の、ねぇえ」
面倒くさい女だ、こいつは。可哀相な男と面倒な女、結ばれそうにもないな。
そんなやつらを盛り上げるほど暇してないんだから、こちとら。
「由月なら大丈夫、真正面からいったってオトせるから」
「でもさぁ、私には私の恋愛のセオリーっていうのがあるのよ。その道筋から離れすぎち
ゃうと、こうさ、しっくりこないわけよ。消化不良っていうか、わだかまりが残っちゃっ
て気持ち悪いの」
「じゃあ、行かなきゃいいじゃん、もう」
「なんでよ、それなりに良い男だったじゃん。こっちが2人なら、向こうももう1人連れ
て来てくれるんだよ。彩華も出会いのチャンスだよ、自分からみすみす逃すなんてもった
いないって」
「いいの、私は。出会いなんかいらないんだから」
そう、私には大雅がいる。それだけでいい、他の男なんていらない。
「あぁ、同級生のバーで働いてる子だっけ。でも、向こうは彩華のこと想ってないんでし
ょ。ならさ、そんな結ばれない恋をいつまでも追いかけてないで次に行かないと。そんな
ことしてたら、いつのまにかオバさんになっちゃうよ」
「ありがとう、忠告として受け取っておく」
そう言い残し、彩華はじゃあねと由月を残して帰って行った。
シャリン、カララン。LENNONの入口の扉を閉めると、この2つの音が鳴る。
シャリン、扉の上の方に掛けてある3つの鈴が扉と当たって奏でられる1つめのおかえ
りなさい。
カララン、扉の真ん中に掛けてある「WELCOME」の木製オブジェが扉と当たって
奏でられる2つめのおかえりなさい。
「おかえり、彩華」
店のカウンターの中にいる大雅からの3つのめのおかえりなさい。
このおかえりが何よりの憩いになる、1日の疲れた身体を休めてくれる。
「ただいま、大雅」
私からのただいま、心安らいだ私からのただいま。
彩華が社会人になりたての頃、1日1日があまりに透明的に過ぎていくことを大雅に嘆
いたことがある。
その日々は緊張しまくりで濃密に詰まってるんだけど、彼女の心の奥まで揺らしてくれ
るものがなかった。
学生時代は楽しかった、大雅の近くにいられる時間は充実していた。
そう愚痴ったら、大雅は彩華におかえりを言ってくれるようになった。窮屈な毎日にも
まれる彩華がただいまを言える場所を作ってくれた。
「今日は何から飲みますか?」
「そうだなぁ・・・黄色のカクテルがいい」
「了解」
そう言って、大雅はカクテルシェーカーに色を足し始める。
彩華はカクテルを頼むとき、色でオーダーする。LENNON以外の店ではそんなこと
しない、しても意味がないから。
彩華は今の気分を色で伝える、それを大雅が形にしてくれる。彼が自分からのインスピ
でどんなものを作ってくれるのかが楽しみ、2人の共同作業みたいで。
「今日の黄色、どういった気分で」
これは大雅なりの回りくどい聞き方、直訳は「今日、どういうことがあったの?」。
今日、彩華にどういう1日が起こって黄色という選択をしたのかということ。
私はそれに対して、1日の嬉しかったことや嬉しくなかったことを話す。
それを大雅はカウンター越しに聞いてくれる、自分の1日の愚痴を聞き出してくれる。
元来、女は喋りたがりで自分に起きるあれこれを誰かに聞いてもらいたくてウズウズし
てる。大雅はそれを分かって、私の話をいつも聞き出してくれている。
自分とは無縁といえる世界の話ばかりだ、彼がそれを聞いても得はさほどないと思う。
それでも彼は嫌な顔の一つもせず聞いてくれる、私のために。
「今日はね、ミスなしで終われたの」
「へぇ、やったじゃん」
今日は受付の仕事で小さなミスの1つもなかった、意外にこれは珍しい。
大概、1日に1人は理不尽なことを言う客が存在するもので、正直そんな接客やりたく
ない。
探し求めの商品で「赤くて丸くてかわいいの」とか言われても案内のしようがない。
なんだかんだ、接客はストレスが溜まるものだ。
「ホントに毎日がこう終わってくれたらどんなにいいかと思うもん」
「そんなこと言わない、ミスする日があるから今日がそんだけ嬉しいんでしょ」
「そうだけど・・・やっぱ、ミスしたくなんかないじゃんか」
「もっと上を向きなさい、下を向いてたらせっかくのかわいい顔が見えないよ」
「・・・・・・ありがとう」
大雅はいつもここに来る私を慰めてくれる。私がそれを望んでて、彼がそれを分かって
るから。
私は彼の優しさに甘えるためにいつもここに来て、元気になる薬をもらって帰っていく。
そして、大雅は彩華の言葉が終わるとカクテルをスッと差し出す。
これはいつものことだ、その日にあったことを吐き出した彩華の心をアルコールで洗う
ため。
「はい、グレープフルーツをメインにしてるけど酸っぱさはおさえてあるから」
大雅のオリジナルカクテルは透いて見えるほどの程よい黄色になっていた。
彩華はそれを半分口に入れる、大雅が自分に作ってくれた味をゆっくり味わう。
「おいしい、腕をあげたな」
「どういたしまして」
カクテルを飲み終えると、2杯目からは店のメニューにあるお酒をオーダーしていく。
ワイン、ウイスキー、日本酒、焼酎、ジン、バーボン、その日の気分で飲む。
大雅はその間に他の客と話をしたり、もちろん彩華と話をしたりする。
LENNONはカウンター席のみで、店内の端から端までをつなぐ長い20席分のカウ
ンターが特徴だ。店員は10名、18時の開店から24時までが4人、翌0時から6時ま
でを3人のバーテンダーで受け持つ。他に、たまに顔を出すオーナー兼店長、残りの2人
分は休日というシフト回しになる。
大雅は18時から24時までに入ることが多い。
彩華はあらかじめ彼のシフトを聞いておき、彼のいる日にLENNONを訪れる。
「さぁて、そろそろ帰ろうかな」
23時すぎ、彩華は帰りの支度をしながら言う。
「帰るの?」
「うん、チェックよろしく」
大雅は会計をしながら、
「あと1時間いてくれたら送ってくよ」
と彩華と目線を合わせながら言う。
「ありがと、でも毎度毎度じゃ申し訳ないし」
「そんなことないよ、彩華がそうしてほしかったら俺はそうするよ」
嬉しい言葉、大雅はこうやって彩華の気を惹くことをする。
意図的とはいえない、大雅は本気で彼女の気を惹いてるわけじゃない。気を惹く行動を
してるだけで、実際そういう気はない。
「ありがと、今日はいいよ、昨日も送ってもらってるし」
「そう・・・そういえば、昨日は大丈夫だった?」
「んっ、ちょっと起きたときに頭が痛かったかも」
その言葉に大雅は笑みを見せる。
「ホントに彩華は学習しないな、飲みすぎなきゃいいのに」
その言葉に彩華も笑みを見せる。
「だよね、なんか大雅と話してると飲みたくなっちゃうんだよね」
「じゃあ・・・俺がいない方がいいってことなのかな?」
「うぅん、違う違う、大雅が私をリラックスさせてくれるから飲むペースが上がるってこ
とだからね」
彩華は首を大きくふって、真顔になって否定した。
「そうか、ならよかった」
大雅は釣り銭を渡しながら言う。
「うん、そうだよ、当たり前じゃん」
彩華は釣り銭を受け取りながら言う。
「じゃあね、がんばって」
「じゃあ、おやすみ」
そうして、彩華はLENNONを後にする。
彩華は大雅と過ごせた時間を良く思いつつ、切なくも感じた。
あとどれぐらい、いつまで私はこれを繰り返していくんだろうと思い。
本当はここにいつまでもいられないと思ってる。
ただ、大雅の優しさに触れると身を委ねてしまう自分がいた。
☆
仁田彩華が井倉大雅と出会ったのは10年前、2人が高校1年生のとき。
初日のHRで席替えをして廊下側の1番後ろの席になった大雅、その隣になった彩華。
大雅は前の席にいた神田橋幹太と仲良くなり、彩華は前の席にいた武澤玲奈と仲良くな
り、自然とその4人のグループが出来上がっていた。
彩華は玲奈と当時流行ってた「だっちゅ〜の」を持ちギャグのように連発し、大雅と幹
太も「銀座、原宿、六本木〜」と毎日のように連発した。前日のテレビ番組の面白ネタを
持ち寄っては自分たちで実践し、変顔のオンパレードは当然、ツッコミで頭のハタきあい
も数知れずしてきた。
何でも話し合える、何でもやり合える、遠慮のいらない友人関係を築けた。
学校にいるときはいつも一緒に行動し、休み時間中でも授業中でも話す必要のないよう
な会話をしていた。
休日も4人で集まり、どこか決めて行ったり、どことも決めずにあてもなく自転車を走
らせたりもした。
素敵な青春の日々だった、その中で彩華は恋をした。
いつも彩華の隣でともにバカをしていた井倉大雅、彼のことを好きになった。
バカな話をして、バカなことをして、バカみたいに笑い合う、そんな日々がなにより愛
おしく思えた。
親友の玲奈へ打ち明けると、
「はあぁっ!」
と窓ガラスを突き破りそうなほど驚きの声をあげていた。
「なんでっ。なんで、そんなことになっちゃったの」
「だって・・・そうなっちゃったんだからしょうがないでしょ」
あまりに意外すぎる、そう反応されたために彩華もなんだか恥ずかしくなってきた。
「あんた、大雅の寒すぎるネタ、どんだけ見てきたの」
「そりゃ・・・数えきれないぐらい」
「なのに、なんで好きになるのよ」
「そんなこと言われたって・・・・・・」
玲奈は少し口を開けて首をゆっくり振る。
信じられない、あんなバカやりまくって恋情の湧く親友の心情が。
「それに、あんた、大雅の前でどんだけ女捨てたようなことしてきたの」
「そりゃ・・・数えきれないぐらい」
「でしょ、なのに、なんで好きになるのよ」
「分かんないよ、そんなのぉ・・・・・・」
彩華は困った顔を浮かべ、玲奈の心の複雑になった絡み糸をより絡ませた。
そう、人を好きになるのに理由なんかない。
彩華は井倉大雅に恋をした、そこに余計な理論なんかないし、いらない。
「ねぇ、玲奈、どうすればいいかな」
「どうすれば、って・・・そんなもん、自分で考えなさいよ」
「えぇえ、そんな言わないでよぉ、友達でしょお」
すがるように制服のシャツをつかむ彩華に
「分かったわよ、出来るかぎりの協力はするから」
と玲奈は鼻から息を一つ吐いて言った。
「ありがとぉ、好きだよ、玲奈ぁ」
「こらっ、夏場にくっつくんじゃないっ」
1年生の夏、こうして彩華は大雅への恋心を抱いた。
☆
あれから10年、今でも彩華は大雅への恋心を抱き続けている。
彼がそれを返してはくれない、それでも心は彼のことを求め続けてる。
大雅以外の人と恋をすることも可能だ、そうしようと思ったことだってある。
大学を卒業するときに玲奈から
「これで離れちゃうんだから、次の恋にいけるようにがんばってみなさい」
と説得に近い言葉を投げられて。
実際、出会いもそれなりにあった。
由月のように、客からナンパされることも稀にだがある。
先輩の主催する合コンにも呼ばれる、デパガというネームは男の食いつきは案外いい。
言葉遣いのちゃんとしている、常識のある女性というイメージがあるようだ。
その人が多いのは認めるが、ちなみに腹黒い女だっている。後輩をいびる女、陰で悪口
ざんまいの女、男を前にすると表裏の180℃変わる女、まぁいろいろ。
そんな女もいる合コンに行くと、そういう女が人気になったりするから不平等だと思う。
おそらく、彼女たちは連戦の中でいかに自分を取り繕えばいいかを把握したのだろう。
ただ、そんな中でも彩華や由月に寄って来る男も当然にいる。
デパガの受付、そのブランドで近づくバカな男たちだ。
まぁ、受付といえばデパートの華。それも魅力の一つであり、その瞳をギラつかせた男
たちとどうでもいい会話をする。
食事に行ったこともあるし、デートに行ったこともある。
でも、彩華には違った。大雅より惹かれる男はそこには1人もいなかった。
そして、彩華はまた迷ってしまう。いくらサイコロを振ったとしても、進んだのと同じ
マスだけ戻って来てしまう。
また大雅のところへ行ってしまう、途方に暮れてはそこに安息を感じてしまうのだった。
「そんでさぁ、ついつい流れに身をおまかせって感じでぇ」
「はいはい、寝たんでしょ」
「ちょっと、そんなあっさり言わないでよ」
「ごめんごめん、許して〜っちょ」
ふくれぎみな由月のおでこを、そうチョンと彩華は人差し指でつつく。
由月は結局、昨日の男と2人きりで会った。
結ばれそうにもないと思ったが、彩華の予想に反して事は進んだようだ。まぁ、どちら
も駆け引きには長けてそうだったから、「可哀相な男」や「面倒な女」という素の内を易々
とは見せないのだろう。
「そうだ、彩華に男を紹介してくれるって」
「誰が?」
「昨日の彼が」
「なんでよ」
「彩華のこと、話したから」
「なんで、私のこと話すのよ」
「受付嬢の話してるとき、隣の子もかわいかったよね、みたいに彼が言い出したから」
「それで、私のああだこうだを話したの?」
「うん、ずっと1人の人に片想いしてるっていうぐらいにだけど」
「それって、どのぐらい進行してる話?」
「んっ、もう具体的に。彼の会社の同期の人で彼女いない人にあたってくれる、って」
「えぇ、そんなの困るよ」
「大丈夫、顔も性格も問題ないって言ってたから」
「そういう問題じゃないでしょ・・・・・・」
「いいから、いいから。私の船に乗ってみなさいって」
また、ずいぶん緊張感のある船だな。
そう思いつつ、彩華は由月の話にしぶしぶ乗ってしまった。
大雅の近くにいたい、大雅の近くにいてはいけない、その両極で揺れていた。
「はじめまして、乙野智良といいます」
「あっ、はじめまして、仁田彩華といいます」
2日後、彩華は由月から言われた場所に1人で行った。
団体客が多そうなちゃんこ鍋の店が例の紹介してくれる男性との待ち合わせ場所だった。
それっぽい和風の部屋に通されると、そこにはもうスーツ姿の男がいて、彩華が部屋に
入るとすぐに立ち上がって挨拶を互いにした。
「来られるまでに時間があったんで、飲み物だけいただいてました。すいません」
「いえ、そんな・・・申し訳ありません」
「何か頼みましょう、鍋でもいきましょうよ」
「はい、そうしましょうか」
丁寧な言葉遣いだ、低姿勢なのも日頃の仕事での応対で身についたものか。
顔も悪くない、性格も誠実そう、あの可哀相な男からの紹介にしてはタイプが違うな。
裏の顔でもあるのか、それなら頷けるところだ。
「乙野さん、普段はどういったことをされてるんですか?」
「いやぁ、もっぱら外回りですよ。ウチは主にティッシュペーパーを扱ってて、トイレッ
トペーパーとかポケットティッシュとか他もあるんですけど。その営業ですね、ウチの製
品を置いてくれないかって企業やお店をいろいろ回ってます」
「へぇ、そうなんですか」
なんか地味だな、無くてはならない生活必需品に対してなんだけど。
「よかったら、今度持ってきましょうか? ティッシュなら、差し上げられますから」
「いえ、わざわざ申し訳ないですから結構です」
そのぐらい、自分で買えるって。
「仁田さん、デパートの受付なんてすごいですよね。なんていうか、こう華やかな世界っ
て感じで。僕みたいな地味な仕事とは離れすぎですよね。なんか、こうして一緒に食事し
てるのも変な感じですもん」
「いえ、そんなことは・・・・・・」
必死だな、この人。
そんなに気負わなくてもいいのに、もっとリラックスしてくれれば。
でも・・・悪い人じゃないな、それは分かる。
食事が終わるまで、2人はずっと同じペースだった。
乙野は額から汗を流しながら会話を和ませようと努力し、それを彩華は冷静に見ている。
22時を過ぎたころ、2人は店を後にして最寄り駅までの道を歩き出す。駅までは一本
道だったが、そこを歩く人はまばらだった。
そこに響いてくる音も少なく、乙野の声は周辺に広がっていた。
営業で身になったものなのだろう、彼は普通のつもりでも彩華には大きい声だと感じた。
「明日も仕事かぁ、でも今日は元気もらえたから頑張れそうです」
「元気?」
「はい、仁田さんと食事できて楽しかったです」
別に、何をしたわけじゃないのにな。
「そうですか、よかったです」
「はい、よかったら・・・また、会っていただけませんでしょうか?」
彩華は息を一つ吐いて考える。目の前の乙野ではなく、大雅を思い浮かべて。
大雅ではない男の誘いを受けていいのか、どうなのか。
「・・・・・・はい、是非お願いします」
「ホントですか? 僕でいいんですか?」
「はい」
乙野は喜びを素直に表現した。それを見て、彩華はこれでいいんだと思った。
この人は良い人だ、私のことを新しい道に引っ張ってくれるかもしれないと。
翌日、彩華はLENNONを訪れた。
今日は気持ちが落ち着かず、どうしても大雅のところへ行きたかった。
「おかえり、彩華」
扉を開けると大雅がおかえりを言ってくれた、それが何より彩華の心を和らげてくれた。
「ただいま、大雅」
昨日、乙野からの次回の誘いを受け入れたことを帰ってから後悔した。
大雅を好きな自分、大雅から抜け出さなければいけないのかと思う自分、その中で葛藤
する自分。
そのどれもに共通することは、仁田彩華が井倉大雅を好きという事実。
そこから離れようとする自分はその想いに対する裏切りをしようとしてるんじゃないか。
そう考えると、胸が痛くなる。
誰より彼を想ってるのに、どうして彼から離れなければならないんだ。
本音は自分の気持ちに素直でいたい。
ただ、それは報われない行為で、大雅のことをきっと苦しめてる。
どうすればいいのか分からなくなって、大雅に会いたくてたまらなくなった。
「どうかしたの、今日は」
「えっ、どうして?」
大雅は彩華からリクエストされたカクテルを彼女の前に差し出す。
深紅に近い色のカクテルだった、その先までは透いて見えない。
彩華は言い間違えたんだと思った、彼女のリクエストは杏色のカクテルだったから。
「なんか冴えない顔してるよ、今こういう色してる」
大雅は彩華の前にあるカクテルを指差して言った。
大雅は彩華の今日の気分がそれであると悟っていた。杏色というリクエストは、きっと
彼女のやせ我慢で発したものなのだろうと。
「お見通しか、大雅には」
彩華がフッと笑みを見せると、大雅も同じようにした。
彩華は嬉しかった、大雅が自分のことをそう読み取ってくれるのを。
「昨日の男のこと? 今日、元気ないのは」
「えっ、どうして・・・・・・」
昨日の男、大雅が言ってるのは乙野のことだった。
なんで、大雅が彼を知ってるのか、昨日会っていたのを知ってるのか、彩華は驚きを隠
せずにいる。
「どうして、そんなこと知ってるの?」
大雅はグラスを拭きながら彩華に視線をやる、言おうかどうかを少し考えて。
「・・・・・・昨日、見た。彩華がスーツ着た男と歩いてるところ」
大雅は昨日は休日で、知り合いの店に顔を出して帰ろうと歩いてたところ彩華を目撃し
た。
横には見慣れない男がいた、年はそう変わらないぐらいか。男の方は笑顔だが、彩華は
笑ってない。まだ、そう深くはない間柄のようだ。
「新しい男? 悪くなさそうに見受けられたけど」
彩華は言葉にためらう、こんな展開になるなんて思ってもなくて。
「・・・・・・由月に紹介されたの、それで昨日初めて会った」
「そう、よかったじゃん」
彩華の動揺がピタッと止まる、それ以上の感情が上に来てしまい。
「何が・・・何がいいのよ」
「んっ?」
グラスを拭く大雅の手が止まる、彩華の様子がおかしい。
「あんたのせいじゃない、全部」
彩華は顔をふせて言っていた、大雅にそれを見られたくなくて。
「大雅が私のこと見てくれないから・・・しょうがなく会ってるんじゃない。そんな簡単
に、よかったじゃんとか言わないでよ」
彩華は1000円札を置いて、足早に店を出て行った。
彩華は帰り道、滲んでくる涙をこらえながら歩いていた。周りでチカチカ目につくネオ
ンライトやイルミネーション、下手に笑ってる若い連中がムカついて仕方なかった。こん
な私を照らして何が面白いんだ、大したことでもないのにそんな笑って何が面白いんだ。
そう心内の気分を紛らしながら、なんとか自分を保たせた。
大雅は彩華を追わなかった、行っても彼女が望むことはしてやれない。そう歯を噛みし
めながら、店のインテリアの中にある缶ケースを開く。そこへ手を伸ばすと、取り出した
円状のココアビスケットを頬張った。