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その日僕はいつものとく学校から1人で帰宅していた。僕の母校は片田舎の自称進学校、
「わが校の国公立の進学率は!!」
などということを鼻を膨らませて喚くようなつまらない高校だ。厳粛な校則と、徹底した団体行動を高らかに掲げ生徒が問題を起こせば大抵が随分と前のことを持ち出してきて前のわが校はこんなにも素晴らしかった。若者の心の乱れだ、と聞くに耐えない稚拙な文章を並べる。
まぁそんなチンケな学校も僕にとってはある意味有難いものだった。成績平凡、教師には従順な僕は教師達にはある一定の信頼があった。
部活動には所属してはいなかったがまるきりに文系のなよなよした軍団に属している僕にはなんの苦痛もない。部活動に精を出す奴らはとてもいいと思う。汗を流し、あぁ足が痛いだの、腰が痛いだの、明日の部活が嫌だだの、休みがないだの、糞尿以下の戯れことを毎日毎日楽しそうに並べ立てているのを聞くと人生をとても楽しそうに消費しているなぁと思うのである。嫌ならやめれば良い。キツイなら逃げれば良い。
これが僕の考えだからだ。
こんな考えだからだ母とは相容れない。彼女とは根本的に住む世界が違うのだと思う。
肩に掛けていたリュックサックの紐がみしっと不穏な音を立てた。…教科書を詰め込みすぎたようだ。
僕は片方の肩紐を外しリュックサックの前のファスナーを開けた。そして折りたたまれているエコバックを取り出すとリュックサックの奥のファスナーの方に仕舞われている教科書を半分取り出し詰めていった。
彼女ならこんな事はするまい。
「こんなん、楽勝楽勝!!」
とかなんとかいってリュックサックを無理やり背負い、そして、壊す。計画性の欠片もない。馬鹿なのだ。
僕はファスナーを締めて、もう一度肩にリュックサックを背負った。
エコバックは右手で軽く握りある程度自由に右腕と同調させる。
サァッと風がどこからともなくやってきて僕の髪を撫でていった。
空が青い。
いつもの事だ。
雲が白い。
いつもの事だ。
川が汚い。
いつもの事だ。
公園だ。
子供がいる。
心が、心が、ざわつく。
つまらない。つまらない。刺激がない?
刺激ならある。
身悶えするような狂おしい刺激が。
勇気がないだけなのだ。
甘い甘い誘惑に乗ってしまえば僕はもう自分を押しとどめることなんて出来ないだろう。
キャッキャっと甲高い無邪気な声が聞こえる。
楽しそうだなぁ。
ちらりと視線をそちらへうつす。
3人……いや、4人。5歳くらいだろうか?幼児が公園で遊んでいる。
象の形をした薄汚れた青い滑り台の周りで集まって何かをしている。
何をしているんだろう?
風に揺れる髪。サラサラサラサラ……
真っ黒色。少し薄い黒色。茶色。焦げ茶色。髪が長い子。短い子。癖毛の子。
柔らかそうな肌。産毛が光を浴びてキラキラキラキラ……
モチモチとした肌。押せばふにゅりと沈み込みそうな頬。
あぁ……あぁ……非力な童たち。この僕の細い腕でも軽々と持ち上げらる。いやだいやだと必死の力で抵抗するだろう。その小ぶりな口の中に僕は無慈悲に白いハンカチを詰め込むのだ。薄桃色の口内の中に布を捩じ込むのだ。
幼児はまだ暴れるだろう。野生の本能だ。素晴らしい。そんな幼児を僕は教科書でぶつのだ。厚い、分厚いもの…そうだなぁ百科事典にしようか。あの分厚くて大きな思い思い本で僕は弱々しい幼児の頭を横に薙ぎ払う。
鈍い音をたてて幼児の頭はガクンと揺れるだろう。僕はそのすきにリュックサックに詰め込むのだ。小さな体を無理矢理に曲げて、押して、押して、そしてやっとの思いでファスナーを締めて走って逃げる。
人攫いの完成だ。
「ねぇ。おにぃさん、何見てるの?」
たどたどしい声に僕はハッと顔を上げた。
公園で遊んでいる子供たちの友達だろうか。同じような年頃の女の子が不思議そうに僕を見ていた。
僕はじわりと手のひらに汗をかいているのを感じた。それに、頬も暑い。僕は、また自分が妄想に夢中になっていたことに気がついた。
「いや、別に何でもないよ。」
早口に相手に口を挟ませないように吐き捨てて、僕は足早に公園を後にした。
人を攫いたいと思い出したのは今に始まったことではない。僕が確実に人攫いについての欲望を理解したのは最初は中学3年の時だった。それまでは単にものを隠したい、だとか他人に見つからずに誰かとかくれんぼしたいだとかまだ子供のおかしな欲求に過ぎなかったのだ。
でもある時僕は気がついてしまったのだ。人を攫うってなんて甘美な事なんだろうと。
その場所にあった、あるべき存在を僕が無いものにしてしまうのだ。僕にしか見えない、その時、その人は僕にしか見えない存在になるのだ。
どんなにその人が偉大な人間であろうと関係はない。僕の僕だけのものになるのだ。
たまらない。ゾクゾクする。オナニーをして射精するのよりも何倍も何百倍も興奮する。グチャグチャに女性と性行為に耽るよりも何倍も淫らで何百倍も背徳的な行為ではないか。
出来れば子供がいい。
まっさらな子供。僕を弱虫だと指を刺さないこと。
自分の考えがまとまっていない子。
それだけ満たせば出せでも良かった。かわいかろうが醜にくかろうが、どうでも良い。
別にさらってどうこうしたいわけではない。ただ攫って少しだけお話をしたい。そしてその子が大きくなった時にふと、ぼんやりと、または誰かから話を聞いてそういえばなどと思いしだしてくれればいいのである。
攫うことにより存在を掌握する。そして、その攫った人の中にこんどは僕という存在が産まれるのだ。
どんどんどんどん僕は人の中で産卵して、僕の手により分裂して人の中に生きていくのだ。
そうすればたとえ僕は死んでも、その人の中の僕はしなない。記憶とは半永久的なだからだ。なぜなら、人は自分の名前を忘れない。そうだろう?
もしかしたら僕を攫った件の女も僕と同じ考えだったのかもしれない。
だって現にこうして僕はあなたのことを思い出してしまっているのだから。
普通の人間。世間的にいうと一般常識から外れていない人間。そう、僕ならばメガネを掛けていて、大人しそうで、勉強がそこそこ出来て大人のいうことをよく聞いて、それで近所の人に笑顔で挨拶が出来たらパーフェクトだ。
たとえ、頭の中で何を考えていようと所詮それはからの中に入った卵に過ぎない。割って見なければ分からないのだ。
まぁ逆に言ってしまえばどれだけ殻が綺麗な光沢を帯び理想的な形だったとしても卵が腐っていれば雛など生まれてくることなんてないのだけれど。
僕は腐った卵何だろうか?
妄想の中で子供を詰め込んだリュックはやけに軽く感じる。教科書では軽すぎる。手に持った袋分を入れてしまおうかとも思ったがそれでは何のために袋に分けたのかわからない。ここでリュックを壊してしまっても僕にとってなんのメリットも発生しない。
閑散とした住宅街を家に向かって歩いていると普通の人間がちらほらと歩いているのが伺える。ある普通の人間は犬を連れて、ある普通の人間はランニングウェアを着てダイエットなのだろうか?坂道を早足で登ってゆく。
僕はブラブラと手を振りながら普通の人間へと擬態する。
近所に住む普通の人間がゴミを捨てにごみステーションの前にいた。
目が合った。普通の人間の普通の唇が普通の挨拶をするために動く。
「こんにちわ。」
僕もそれを真似る。口を開いて、喉に声を反射させて、最後にゆるりと唇の端を上げて、
「こんにちわ。」
パーフェクトではないか。
近所の普通の人間は学校お疲れ様といって人懐っこいそうな笑顔を浮かべた。僕はありがとうございますと受け答えして、自分の家へと足をすすめた。
なんて、なんて簡単。普通の人間のふりなどそう難しいことではないのだ。
僕のしたいことを聞けば世間の8割以上の人間が、気持ちが悪いだとか、頭がおかしいだとか糾弾するだろうが、洒落臭い。あほらしい。残念ながら僕が行動を起こす前にこの世に溢れかえる道徳に縛られた高尚な一般人様達に僕を認知することもままならないのだ。
おかしくて仕方がない。
馬鹿ばかりなのだ。学力で僕を見下す隣の席の普通の人間Aも、運動で皆の視線をあつめいつも汚い言葉をつかう普通の人間Bも皆僕以下なのだ。
むしろ君達は光栄だろう。同じクラスに、近くに、僕という存在があることが。
学校指定のローファーが砂利を踏みつけ嫌な音を立てる。靴の裏のギザギザとした隙間に引っかかったようだ。僕はコンクリートに靴の裏を擦り付ける。
ぎじぎじと音を立てて革の靴の裏が削れる感覚がある。僕は不快な気分がした。