始まり
少しだけ、昔の話をしてみようか。その日、僕は
「災難だったわねぇ。怖かったわねぇ。」
「よく無事だったな。心配したぞ。」
だとか、そんな言葉を随分といろんな人にかけられたことをうっすらと覚えている。その記憶はどこか蜃気楼のように掴みどころがなくって端を捉えたかと思うとほわほわとどこかへ溶けだしてしまう。
小学3年の頃だろうか?曖昧だ。
あの頃は、僕が小学三年の頃は小学三年の僕なりにしっかりとした自我があって何かを考え、理解し、行動していたはずなのだがこう時間がたって思い出してみるとあの時自分自身がどんな性格でどんな事を考えてどんな事をしていたかなんて到底理解出来るはずもなくそもそも小学三年の僕は存在したのだろうか?本当は幼い頃の僕なんて存在しなかったのではないだろうか?などと他人から言わせればほんとうに馬鹿げたことが最近どこか引っかかる。
筋道が多少逸れてしまったが、その僕であって僕でない小学三年の僕は学校の帰り道に誘拐されてしまったらしいのだ。
ここからは全く僕自身覚えていないので周りに聞いた話しの受け売りになるのだが、僕が攫われたのは若い女性だったようだ。随分と奇抜な格好をした人だったらしい。話をしてくれた人が皆口を揃えて、あの人の服装は理解出来ないっていうくらいには飛び抜けたセンスだったようだ。
情報を端的に紹介すると、緑色をした頭。顔じゅうにはピアス。 ズタボロのジーンズ。光りまくった革ジャン。
女の人は恐ろしい。こんな細かく何年も前のことを覚えてしまっているのだから。
そんな奇人変人に連れ去られた僕は夜になっても帰ってこず母さんは当たりを探しまくったらしい。ヒールを打ち鳴らしてわき目も振らずに僕の名前をさけびまくる母さんの姿がなんとなく想像できる。
そんな母さんの必死の捜索も虚しく僕は結局見つからなかったらしい。
家に帰ってやっと仕事から帰ってきた父さんと警察に通報しようとかなんとか揉めているうちにガチャっという玄関の扉が開く音が聞こえたらしい。
母さんはさぁっと血の気が引いたと言っていた。犯人が皆殺しに来たんじゃないかと思ったらしい…あまりにも急展開すぎるだろうと聞いた時鼻で笑ってしまったが、まぁあの性格ならそう考えても無理はない。
母さんは父さんの背中に隠れて、
「来ないで!!!」
なんて悲劇のヒロインばりの高らかな悲鳴を上げたわけだけど、屈強な男も、黒光りしたピストルも、顔を隠すためのへんてこなマスクもなくて、ただ小学三年の低能な僕がてこてこと歩いてきただけだった、というわけである。
なんという喜劇。滑稽で面白い話じゃぁないか。そう、ここで終わればこの話は大団円。
居酒屋のカウンターテーブルで20になった頃にそう言えば~なんて会話の定番になりそうな格好のネタだ。
ただ、この話はここで終わらない。
この誘拐事件。僕が知らぬ間に、いやぁ僕だけではない。誰も、僕をさらったという奇抜な女さえ知っているか知らない、僕に深い深い病気を残していった。
それは僕をずぶずぶずぶと嫌な音をたてて蝕んでいる。僕の細胞を僕の神経をいじらしく真面目に一つ一つ散らしているのだ。
抑えきれないほどの欲求。腕が震える。指がひくつく。喉がきゅうきゅうとおかしな音を立てる。
じわりと額からねとついた汗が滲み出て首の筋が鋼のように固くなる。
僕は日に日に誰かを誘拐したくなってきていた。