全力の逃走。
意識が浮上して目を開ければ、私はソファに座っていた。
朝食を食べて写本の仕事をして、休憩している間にうたた寝していたようだ。
最近眠りが浅いからだろうか。
目の下には隈が出来て、疲れもなかなか取れない気がする。
眠い目を擦ってから、腕を上げて伸びをした。
写本を早く終わらせないと。
眠気覚ましの為に、珈琲を淹れてゆっくりと飲む。
窓から外を窺えば、シトシトと雨が降っていた。
厚い雲に覆われた空に、家の中は薄暗くなっている。
窓を開ければ、雨の匂いを含んだ風が吹き込んできて、テーブルの上にあった紙が散らばった。
私はすぐに窓を閉めて、散らばった紙を掻き集める。
薄暗い部屋には私しか居ない。
ガウェインは朝食の後、すぐに出掛けてしまった。
急ぎの用事でもあったんだろうか。
まだそんなに激しく降ってはいないけど、大丈夫だろうかと心配になる。
ガウェインなら心配いらないだろうけど。
私が書き写した紙を手に持って、ぼんやりと眺める。
今までは意識的に考えないようにしてたけど。
そろそろ自身の事を、ちゃんと考えないといけないのかもしれない。何となくそう思う。
この識字率の高くない国で、文字の読み書きが出来る事は珍しい。それに算術や歴史等の知識もある。
もし平民の生まれだったら、そんな知識は全くない訳ではないけど、ほぼないだろうし。
それらを鑑みて、私は貴族か商人、もしくは騎士の家系なのかもしれない。
平民でも騎士に叙勲されると、一代限りの騎士爵になれるから。勿論、剣の腕だけじゃなく色々な知識も必要だ。
後は、料理も一通り出来るけど、そんな貴族の子女はいるんだろうか。いなさそうだよね。
とりあえず有力なのは商人か騎士の家系かな。
窓の外に視線を向けると、一台の馬車が近付いてくるのに気付き、首を傾げた。
今日誰かが来る予定でもあったんだろうか。
ガウェインは何も言っていなかったし、此処に人が訪れる事は滅多にない。
この前クロードが来たくらいだ。
少しすると、ドアをノックする音が聴こえた。
私は逡巡したが、ガウェインの知人の可能性もあるので、ドアに足を向けた。
「どちら様ですか?」
ドアの向こうにいる人に声を掛ける。
「申し訳ございませんが、道に迷ってしまいまして……町の方向を教えて頂けませんでしょうか」
中年男性の声が返ってきて、私は言葉に詰まる。
ガウェインの知人でも何でもない他人のようだ。
今、ガウェインは家に居ない。
一人の時はドアを開けるな、とガウェインに煩く注意されてる。
「すみません。私は家から出ないので、町への道を知りません」
断りの言葉を告げれば、相手は一瞬黙った。
「……そうですか。わかりました。それでは失礼致します」
特に何も言わず帰ってくれるようで、私はホッとした。
やっぱり知らない男性には警戒してしまうから。
雨音で男性の足音は聴こえないけど、もう馬車に乗っただろうと安心して、ソファへ向かう。
突然、窓が割れる甲高い音が響いて、即座に後ろを振り返った。
すると、そこには三十代くらいの筋骨隆々な男が居た。男は窓に足をかけて、家の中に入って来ようとしている。
下卑た笑いを浮かべる男を目にして、叫びそうになる口を無理矢理閉じた。
「大人しくすれば手荒な真似はしねえよ」
私は男の言葉を無視して、恐怖に竦みそうになる足を叱咤して何とか動かした。
テーブルやソファを避けて走り、隣の部屋へ向かう。ドアを開け中に入ってすぐに鍵をかけた。
木製のドアなので、あの男なら蹴破る事も可能かもしれない。
気休めにしかならないだろうが、チェストを力いっぱい押してドアの前に動かした。
これで少しは時間を稼げる筈だ。
「おい! 糞ガキ、開けろ!」
ガチャガチャとドアを開けようとする音と、男の野太い叫び声が聴こえる。
焦って辺りを見回し何か武器になりそうな物を探す。
ふと、ベットの横にある木の棒が目に映った。
ガウェインが念の為に、と武器になる物を寝室に置いてくれていたやつだ。
それを手に持ち、寝室の窓を開けて外に飛び出した。
「いたぞ! こっちだ!」
さっきの男とは違う声に驚いて振り向けば、中年男性が私の方に凄い勢いで向かってきた。
私の足じゃ、走ってもすぐに追いつかれるのは明白だ。私は木の棒を両手で握った。
出来る。私なら出来る。
自己暗示をかけるよう心の中で唱えた。
近付いてくる男目掛けて、それを渾身の力で振り回す。
「うっ!」
ガツッと鈍い音がして中年男性が倒れた。
それを確認して、私は全速力で鬱蒼とした森の中に駆けていく。
そんなに足が速い訳ではないけど、簡単に捕まるものか。抵抗もせず大人しく捕まるなんて出来る訳がない。
息切れしながらも走り続けた。
いつの間にか雨はどしゃ降りになり、雨粒が顔に叩きつけられて、前がよく見えず下を向いて走る。
濡れて張り付く髪を無造作に掻き上げた。
木の枝が当たり、顔や体に裂傷を負ってるが気にしなかった。
どうして私を捕まえようとしてるのか。
相手は何人居るのか。
もしかして、私が恐れて逃げてる相手だろうか。見つかってしまったんだろうか。
考えながらも懸命に足を動かしてると、目の前に突然男が現れた。
次いで、場違いな暢気な声が聴こえる。
「ああ、僕って運が良いな。ここで待ってて良かったよ」
その言葉に、男が木の影に隠れていたのがわかった。
無理に止まれば、勢いで前に転びそうになったが、何とか体勢を整える。
荒い息を吐きながら、目の前の男を睨むように見れば、男はただ微笑んで立っていた。
どしゃ降りの雨の中、不自然な程その男は濡れていない。
その薄気味悪さに背筋が震える。
薄茶色のウェーブした髪が細面の顔にかかり、薄い唇は弧を描いている。
灰色の瞳を真っ直ぐ私に向けたまま、男は口を開いた。
「久しぶり、僕のミリア。やっと見つけたよ」
男の顔と口調にどこか既視感を覚えて、私は何も答えられなかった。あの似顔絵の男だとすぐに気付いた。
心臓が早鐘を打って、痛む胸を手で押さえる。
男のその顔に、嫌悪と恐怖と憎悪と色々なものが混じり合って眩暈に襲われた。
頭の奥がズキズキと痛み、顔を顰める。
「……誰?」
私の声は小さく掠れていて力がない。
それでも聴こえていたらしい。男は器用に片眉を上げた。
「誰? まさか忘れたの、ミリア」
馴れ馴れしく名前を呼ぶ男を睨みつけるだけで、私は答えなかった。
頭痛を堪えて、右手に持った木の棒をきつく握り締めた。
どうにかして逃げなければ。この男は危険過ぎる。
本能が全力で警鐘を鳴らしている。
男は微笑んで首を傾げた。
「まあ、どっちでもいいけどね。僕の物には変わりないから」
男の言葉は意味がわからないし、理解したくもない。
けれど、灰色の瞳を眇めて私を見るその表情に、内心悟ってしまった。
もう逃げられない、終わりだ、と。
男が右手を上げれば、私の身体は少しも動かせなくなった。
恐怖で竦んでる訳ではなく、ただ動けない。
指先一本すら動かせず、既に自分の身体ではないように思える。
ああ、そうだ。この男は魔法使い。
稀に魔法に耐性のある人がいると聞いた事がある。
けれど、私にそんな力はない。
この魔法から逃れる術を持っていない。
もう駄目だ。絶望に目の前が真っ黒に染まった。
「少しの間だけ眠ってもらうよ。痛いだろうけど我慢してね」
男の声は優しく甘く、なのにその顔は酷薄そうな唇を歪めて、愉しそうに笑んでいた。
次の瞬間、ビリッとした痛みが全身に流れて、私は硬直したまま地面に倒れていく。
雨に濡れた草が目の前に迫る。
薄れゆく意識の中で、私はガウェインの事をひたすら考えていた。
……ガウェイン、ガウェイン──