混乱と恐怖と安堵。
暗く深い闇の中、ひっそりと黎明が近付く。
それは夢か幻か真か。
「……うぅ……っ」
身体中の痛みに呻いて、深い眠りから覚めた。
痛い。腕も脚も背中も、どこもかしこも痛くて泣きそうだ。
何があったんだろう。わからない。
何も覚えてない。頭の中が真っ白だ。どうして?
瞼は重く何故か動かない。何もない暗闇だ。
激しい恐怖に襲われ、身体を竦めた。
それでも、痛みで言う事を利かない腕を、必死で動かして目元に触れる。布の感触がした。
どうやら、私の目元には包帯らしき物が巻かれているらしい。
その事に安堵して、ほっと息を吐いた。
「起きたか」
低く深みのある男の声に驚いて、私は身体を震わせた。
誰か居るとは思わなかったから。
「……あの……」
「お前は森の中で倒れてたんだ。怪我をしてたから俺の家に連れてきた」
戸惑いながら話し掛ければ、男は今の状況を教えてくれた。
この人が私を助けてくれたらしい。それに、怪我の治療もしてくれたようだ。
「そう……なんですね。助けて頂いてありがとうございました」
目は見えないが、声が聞こえる方を向いて頭を下げた。
「それはいいが、どうしてあんな所で倒れてたんだ」
どうしてと訊かれて困ってしまう。何も覚えてないから。
「それが……覚えていなくて」
その事を言えば、男は少しの間沈黙した。
もしかしたら疑ってるのかもしれない。それは仕方ない事だとは思うが、本当に覚えてないから。
「……名前はわかるか」
私は少し考えた。考えてみて、名前すら覚えてない事に今気付いた。
自分の事なのに、何もわからない事が恐ろしかった。
過去が全て消えてしまったのだ。
「……いえ……わかりません」
「……そうか。お前の着ていた服に、ミリアと刺繍があった。多分それがお前の名前だろう」
悄然とした声で答えれば、男は私の名前を教えてくれた。
それが本当に私の名前かはわからないけど、少しだけ希望が見えた気がした。
「ミリア……」
その名前を噛み締めるように呟く。ミリア。私の名前はミリア。
「とりあえず水を飲め」
「……あ、はい。ありがとうございます」
私が思考に落ちてると、男が私の手にコップを握らせた。ひんやりとしてる。
思い出したように喉が渇いて、それを口元に持っていきゆっくりと飲んだ。腕の痛みのせいで、余計に時間が掛かってしまったけれど。
「……あの……」
一息ついてから、男の名前を呼ぼうとして、まだ聞いていない事に気付き言葉に詰まった。
「ああ、俺はガウェインだ」
それがわかったのか、男は名前を教えてくれた。ガウェインというようだ。
「ガウェインさん、私はどれくらい眠っていたんでしょうか」
「呼び捨てでいい。ここに連れてきたのは二日前だ。ずっと寝てたから腹が減ってるだろ」
そう言われ、お腹の音が盛大に鳴った。
恥ずかしさに頬が赤くなるのがわかって、咄嗟に下を向く。
「スープなら大丈夫だろ。少し待ってろ」
ガウェインが離れていく気配にほっとした。
どうやら、私は二日間も眠っていたらしい。
その間、面倒を見てくれたガウェインには感謝の気持ちでいっぱいだ。
見ず知らずの人間を態々助けて、治療までしてくれて。
この恩にどう報いればいいんだろう。
今の私には何もないから。
記憶もお金も、何も無い。
怪我をして森の中に倒れてたなんて、一体何が起きたんだろうか。
あまり良い予感はないけど、わからない方がもっと恐いから。
でも、そのうち思い出すかもしれないし、もう落ち込むのはやめよう。
「食べれるか。いや……無理だな」
ガウェインが戻って来て、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。その重さで少しだけベッドが傾いた。
ガウェインは軽々と私の上半身を起こして、背中にクッションか何かを置いてくれた。
「ミリア、口開けろ」
言われて素直に口を開けば、スプーンを唇に当てられ、すぐに温かいスープが口の中に広がった。
薄味だが旨味たっぷりで美味しい。身体の中に温かさが染み渡る。
私の目が見えないからか、ガウェインが食べさせてくれるようだ。至れり尽くせりな状況に戸惑うが、お腹が空いてる身体は正直だ。
全て食べさせて貰い、私はお礼を言った。
「ありがとうございます。美味しかったです」
「そうか。まだ怪我は治ってないから寝てろ」
ガウェインの深みのある低い声は、何だか心を落ち着かせてくれる。
ご飯を食べさせて、ベッドも貸してくれて。
それなのに迷惑してる素振りも見せないなんて、とても優しい人だと思った。
こんなに優しい人に助けて貰えたのは、運が良かったのだろう。
「はい、すみません。出来るだけ早く出て行きますので」
それでも、その優しさに甘えていい訳がない。だから私はそう言ったのだが、ガウェインは反対の言葉を口にした。
「いや。好きなだけ此処に居ていい」
「でも──」
「怪我をして記憶もない状態でどうするんだ」
正論を言われて言葉に詰まる。その通りだ。まともに動けないし、帰る場所すらわからない。いや、帰る場所があるのかもわからない状態なのだから。
「どうせここには俺しか居ない。一人増えたくらいで変わらないからな。遠慮はするな」
ガウェインのその優しさに心が揺れた。
何もわからず、怪我のせいで身体中が痛いし、本当は凄く心細くて泣き出しそうだったから。
「……ありがとう……ございます」
申し訳なくて、嬉しくて、少し声が震えた。
泣いては駄目だとわかってるのに、勝手に溢れてきて包帯に涙が染み込んでいく。
静かに涙を流す私に、ガウェインはただ、私の頭に手を置いて優しく撫でてくれた。
その手は大きくて温かかった。
暫くして、濡れた包帯を替えてから、ガウェインは私の背中にあるクッションを退かせて、ベッドに寝かせてくれた。
「俺は隣の部屋にいるからゆっくり寝ろ。何かあれば呼べ。いいな」
布団を掛けながら、私に言い聞かせる。ガウェインはかなり面倒見がいい人なんだなと思い、口角が自然と上がった。
「はい。ありがとうございます。ガウェイン」
微笑みながら名前を呼べば、また頭を撫でられた。
「お休み」
その言葉を最後に、ガウェインの気配が離れて部屋から出て行った。静かに扉の閉まる音が耳に届く。
泣いたお陰か、さっきまでの焦燥感も薄れて、私はすぐに眠りについた。
*******
部屋を出た俺は深くため息を吐いた。
二日前、森で狩りをしてる時に見つけた少女。
見た目は十七歳前後くらいか。
絹のような漆黒の髪は腰まであり、肌が白いお陰で更に痣が目立っていた。
森で見つけた時、彼女は全身傷だらけで倒れていた。至る所に痣や切り傷があり、瞼は斬られて血が流れていた。
瞼の傷はそこまで深くはなかったから、たいした傷は残らないだろうが、それでも全くなくならない訳ではない。
軽い身体を抱き上げて、家に連れて帰り治療をした。
服はぼろぼろに破れ、汚れてたので脱がせれば、華奢だと思った身体はずっと成熟していた。
勿論怪我をしてる女に欲情したりはしない。
素早く身体の汚れを綺麗に落として、薬を塗ってから服を着せた。
彼女は熱を出して魘されていた。苦しそうにしながらも、なかなか目を覚まさなかった。
二日経ち、やっと彼女が目を覚ましたかと思えば、彼女は何も覚えてなかった。自分の事すらも。
それが、本当か嘘かはわからないが、震えた声に嘘はないように思えた。
とりあえずお腹が空いてるだろうと、いつ起きてもいいようにスープを用意しておいた。
彼女のお腹の音に声を出さず笑ってしまったが、気付かれてなかったようで安心した。
頬を赤く染めた彼女に悪いから。
スープを持ってきたはいいが、目に包帯を巻いている事を失念していた。
俺が食べさせれば、素直に口を開く彼女。
赤く色付いた小さな唇を、一生懸命に開く様は可愛かった。
正直、俺がこんなに面倒見が良いなんて初めて知った。
いや、多分彼女だからだろう。
何故か守りたくなる不思議な女だ。
好きなだけ居ていいという言葉は本心だった。
そう思った自分に少し驚いたが。
もう二度と他人と深く関わるつもりはなかったから。
それでも、あの酷い怪我を誰にやられたのか、思い出すまでは此処に居た方がいい。
誰かが彼女を傷付けた事は明白だ。
危険があるうちは、俺が守ってやる。