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虎退治の男の名前を誰も知らない

作者: 鰐淵

 寒い冬の日。昼を少し過ぎた頃である。外を歩けば冷たい雨が顔を濡らし、中に入れば足の裏から痺れるように凍えていく。狭い板敷の間に火鉢を置いて、そこを大の男が二人で囲んでいるというのに全く暖まる気配がしない。ひとえに、雨のせいである。湿気を吸った板敷も原因の一つだ。ほのかに温まった先からじゅくじゅくと熱を奪い取っていく。

 しかし最大の原因は客人である。ひんやりした床に手をついて「何とぞ」と頭を下げる商人を見ていると

(寒かろう)

 と屋敷の主人は思う。

 痩せて筋が浮いた商人の手が、黒々と湿った床の上で色を失い小刻みに震える様子はとても寒々しい。さらに、今まで聞いてきた商人の事情も鑑みれば、ここまで頼み込まれて渋っている自分が悪人であるような気にもなってくる。

 家の主は、弓の上手と持て囃される剛の者であると同時に、善良な人物でもあった。必死に自分を頼る商人を見捨てることはあまりにも薄情であると思われたから、とうとう「承知いたした」と頷いた。

男の一声に、「有り難いことです」と商人はますます深く頭を下げる。

「ご安心召されよ。その虎、きっと俺が退治てくれよう」


***


 広い京においても、弓の上手と衆目の一致するところは片手で数えられるほどしかいない。その数少ない剛の者の一人が、男である。その家に商人が訪ねてきたのは、まだ朝の頃。

「とある山の虎を退治して欲しいのです」

 と、親ほど年上の商人に頭を下げられては無下に断ることも出来ず、どうやって引き取ってもらおうかと考えながら火鉢をつついていたが、商人が語り始めた事情というのがあまりにも「只ならぬ」ことであった為、男もいつしかじっと聞き入っていたのであった。


***


「私は筑紫の商人でございます。何年か前に妻に先立たれ、残された家族は娘が一人。親の欲目もあるのでしょうが、幼い頃から気立てが良く情が深い子で、私が商売で家を空けるときなどは心配するやら寂しいやらでぼろぼろと泣くものでした。それがあまりにも可哀そうなので、娘が十を少し過ぎたあたりからだったでしょうか、商売で遠出をするとき船に乗るときは、常に連れて行くようになりました。

 そしてこの年の秋も、例年のように娘を連れて新羅に商売に参りました。つつがなく終え帰路につき、船でとある山の際を下ったところで、河口に泊めさせました。水を補給しようと思ったのです。若い者を水汲みに出し、私は船端で水面を眺めておりました。ちょうど紅葉のさかりで赤く染まった山影が、美しく映っておりました。あれは、仰ぎ見るのとはまた違った風情があるもので、娘にも見せてやろうと、呼びにいこうとしたときです。身を屈めた虎が、水面に映りました。目を山に転ずれば、その頂きで大きな虎がこちらを窺っているのでした。

 大慌てで皆を呼び戻し櫂を漕がせ、必死に逃げ出そうとしたところで、虎が大きく跳びました。いま思い出してもぞっとします。虎の爛々と光る目。そしてそこに映る私の顔まで見えるような、ほんのすぐ近くまで虎が躍りかかったのです。

 しかし、神仏のご加護があったのでしょう。あと少しのところで届かず、虎は海に落ちて私どもは難を逃れました。

 急いでその場から離れながらも見ていると、虎はそのうち海から出て陸へあがり、波打ち際の平らな石の上へのぼりました。そのとき初めて気づいたことですが、虎は左の前足が食いちぎられて、そこから血が滴っていました。

『鮫にやられたのであろう』

 と私どもが囁き合っていると、岩の上に伏せた虎がその前足を海にひたしました。何をしているのだろうかと訝しんでいると、船に近いところの水面がぐっと動いて、そこから鮫が虎の方へ迫っていくのです。しかし虎は落ち着いたもので、右の前足で鮫の頭へ爪を立てるや、これを陸地へ一丈ほども放り投げ、さらに、仰向けになっている鮫へ躍りかかり、顎の下へ食らいつき、二度三度とこれを打ち振ると、肩へ担ぎ、山を一気に登って行ったのでした。

 この一部始終に

『なんと強い虎だろう。船に飛び乗られていたら、どのような銘刀であっても太刀打ちできなかっただろう。速いし、力があるし、本当にどうしようもない』

 と、若い衆などは言い合うのでした。

 それを聞くにつけても、大の男でこれほど恐ろしかったのだから、まだ幼い娘はいかばかりであっただろうかと心配になって、娘の名前を呼びましたが返事がありません。船中を探しても娘は見つからず、私は半狂乱になって山に戻れと命じましたが、誰がみすみす人喰い虎のもとへ飛び込むような真似をするでしょうか。こうして私は、命よりも大切な娘を失ってしまったのです。


 こんなことならば、可愛い娘を危険な船旅に連れて行くなどするのではなかった、屋敷の奥深くに隠しておくべきだった、と後悔してもしきれません。綺麗な着物を仕立てあげたかった、立派な殿方との御縁を用意してあげたかったと、今はもう叶わない望みだけが過っては消えていきます。

 かくなるうえは、娘の菩提を丁重に弔うことだけが私の望みです。

 そのために、伏してお願い申し上げます。どうか虎を討ってください。島に取り残された娘は、遠からずして虎に喰われてしまったに違いありません。その無念、いかばかりのものであったでしょうか。どうにかしてその恨みを晴らして極楽浄土へいかせてやりたいのです」

 そして、声を震わせながら

「何とぞ」

 と頭を下げる商人の願いを、ついに男は承知したのであった。

「ご安心召されよ。その虎、きっと俺が退治てくれよう」


***


 そして、商人と男はかの山へ来ていた。周囲を警戒する二人は、小枝が踏まれて折れる音をかすかに聞いた。何か、は人が歩くほどの速さでこちらに近づいてくる。商人を後ろにかばい、男はそっと弓に矢を番えた。しかし、現れたのは虎ではなかった。

「お父様!」

 死んだと思われていた、商人の娘であった。

 商人の喜びようは並大抵のものではない。娘をひしと抱きしめて咽び泣いている。男に礼を言おうとしたところで、彼がまだ弓を構えていたことに気付いた。

 弦を引き絞り、まさに矢を放たんとしている。そのまま、矢はびょうと風をきり、過たず的を射た。虎の眉間。木の陰に隠れていたのが、男に射抜かれたのであった。呻き声をあげる間も与えられず、地面に倒れ伏して、そのまま動かなくなった。


 商人は、目まぐるしく変わる事態に、茫然とするばかりであったが、その胸の中にいた娘がわっと泣き出して虎へ駆け寄るので正気にかえった。

 虎の亡骸に縋りながら

「なんということ。一緒になろうと約束したではございませんか。それなのに私をおいていってしまうとは、あまりに酷い」

 と言って取り乱す娘を

「なにを言っているのだ。私たちはお前を迎えに来たのだよ」

 と、肩を抱いて連れ帰ろうとするが、娘は嫌がってさらに激しく虎の背に顔を埋める。

「この方は私の夫となるべき方だったのです。引き離すと仰るのならば、いっそわたくしも殺して下さいませ」

 そういう娘の言葉が、商人にはにわかに信じがたい。

「どういうことなのか。きちんと説明しておくれ」

 ようよう娘が言うことには、この虎はもともと一人の男であったのだそうだ。

 恨みによって虎に姿を変えられやりきれない日々をおくっていたところ、そこに取り残された娘と親しくなり、人の身に戻ることが出来たら一緒になろうと約束したのであった。


***


 虎は、つまり死んでしまった男は、人の身であった頃は熊野、御嶽はもとより、白山、伯耆の大山など、修行しなかった場所はない、というほどの山伏だった。


 この山伏が舟で若狭湾を越えようとしたところ、渡しには人が雲霞のごとく押し寄せていて、舟に乗れない。

「俺様を乗せよ」

 と言うが、船頭は聞こえないふりをして漕ぎ出してしまった。

「おい、どういうことだ。戻れ」

 呼びかけても、舟にいっぱいに乗っている人のうち誰も振り返らない。すると山伏は、ぐっと歯を食いしばり、念珠をくしゃくしゃに揉み始めた。

 験力で舟を呼び戻そうというのか、馬鹿な真似をする、と次の舟を待つ野次馬たちが笑うのを気にもとめない。

 遠ざかる舟を、目が赤くなるほど睨みつけて、砂にふくらはぎまで沈むほど力を込め、手にした数珠を砕けんばかりに揉みちぎって

「戻らぬか!」

 と叫ぶ。

 しかし、舟がなおも進むので、袈裟と念珠をいっしょくたに掴むや、水際まで歩み寄って、

「仏教徒を守る神々よ、あれを引き戻せ! 引き戻さねば、俺様は仏法を捨てるぞ!」

 と、絶叫する。

 これにはさすがに野次馬たちも驚き、固唾をのんで見守っていると、そのうちに、風も無いのに舟がこちらへ戻ってきた。

「よし、よくぞ致した。さっさと引き戻すのだ」

 と、見る者を驚かせながら、やがて舟と渡しとの距離が一町ほどにまで縮まってくる。

 すると、今度は

「そのままひっくり返すべし」

 と、山伏が命じたものであるから、罪作りなことであると野次馬たちは血相を変えてこれを止めようとしたが

「構わぬから、さっさとひっくり返せ!」

 そう山伏が叫ぶやいなや、この渡し舟に乗る二十余りの人たちが全て川に落ちてしまった。


「ふん、愚か者どもめ。思い知ったか」

 阿鼻叫喚のありさまに背を向けると、山伏はそう言って立ち去ったのであった。


***


 山伏が深山幽谷で厳しい修行をつんで得た験力は、本来ならば衆生の救済のために用いられるべきものである。それなのに、このような使い方をしたことを、恨みに思う人もあった。

 獰猛で傲慢な山伏は、人の姿を奪われ虎に変えられ、とある山に閉じ込められた。もとに戻る方法は、一つだけ。その姿に惑わされぬ人に、船で運んでもらうことである。


 はじめの数年、訪れる人々に事情を話して助けを請うたが、人語を操る恐ろしげな虎の頼みなど誰も承知しない。

 もどかしくなった山伏は、次に、力ずくで舟に乗り込むようになった。しかし、人喰い虎と見紛うような巨体である。舟の人が、食い殺されまいと、弓で射て刀で切りかかるものだから、説得しようと目論んでいた虎も、困り果てて逃げ帰るしかなかった。

 百度繰り返して一度も成功せず、ただ傷跡ばかりが増えていくのに苛立ち、川で傷口を洗い流していたある日などは

「もうどうしようもない。ここにきては、爪や牙で傷つけてでも」

 などと考えもしたが、そのとき川に映った自分の顔があまりにも醜く見えたものだから

「心ばえまでは虎になるものか」

 もはや人の身に戻ることは望むまい、巡ってきた因果に逆らうまいと、それからは人に近づくこともなかった。それどころか、船を襲う鮫を退治するために海に出るとき以外は、人の目に触れぬように隠れて過ごした。


 商人がやって来て娘が取り残されたのは、それから数年後の晩秋のことだった。この娘を見つけ、食事の世話をしてやり、寒い夜は抱きかかえて寝るなどしてやっているうちに、娘は虎に怯えなくなっていった。それどころか、冬が終わる頃には虎を慕わしく思って、次に来た船に自分が事情を説明すると請け合い、人の身に戻ることが出来たら夫婦になろうと約束させた。そこに商人と男がやって来たのだ。


***


 娘が語り始めた虎は、穏やかな一冬を過ごして死んだ。その亡骸は商人の船によって筑紫にまで送られ、丁重に荼毘に付された。娘はその菩提を弔うために出家して、二度と戻ることはなかった。

 

 男の、弓の上手であるという名声はこの一件でますます高まり、高貴な方々からのお召しもあったが、どれも受けず、称賛の声にもこたえなかった。源義家や藤原秀郷、さらには源頼政に並ぶほどの達人であったのに男の名前が残っていないのは、こういうわけである。


宇治拾遺物語「虎の鰐取りたる事」「山伏舟を祈り返す事」の二次創作。

娘も弓の名人もいません。虎と山伏は無関係です。

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