足枷
渡辺の職場には足の不自由な人がいる。いつも左手に杖をつき、左足の歩行をかばって歩いている。佐藤という五十代半ばの女性だ。
佐藤は経理部の課長で、渡辺の上司だ。経理に携わって三十年、経理に配属される前は営業部に一、二年程いたが、足が悪くて外回りに向かないという理由で経理部の方に回されていた。以来長く経理の仕事に携わっている。今では課長という地位にありながら、誰よりも実際の業務というものを精通している。
佐藤は結婚していない。完全に独身である。子供はいなく、都内のマンションに居を構え、そこで小さなミニチュアプードルと共に暮らしている。趣味は活け花とギター演奏、犬の名前は綿花のような白い毛皮からコットンと名付けられている。
一方の渡辺は現在入社七年目の二十九歳、まだまだ若手と呼ばれてしかるべき年齢の男だ。二十二歳で地方の国立大学を卒業したが、就職先は都内の企業に決めていた。マスコミが就職難だと騒ぎ立てる中、周囲より先んじて就職活動を始めたことが功を奏し、見事に目標の会社に就職できていた。
渡辺の会社は海外、主に欧州から医療機器を輸入する貿易商をしている。簡単に言えば商社だ。規模の小さい会社だったが、それでも渡辺は内定を貰えたことを喜んだ。会社は小さくとも、これで俺も世界を股にかける商社マンだと思ったからだった。渡辺はこの「世界を股にかける商社マン」というステータスに憧れていた。が、入社して二年の営業見習いをした後で、突然経理部に回されることになった。口は回るが、喋りすぎるのが難点だと人事や上司からは思われたらしい。経理部から古参の人員が一人抜けるから、その穴埋めとして活きのいい若手を一人くれと求められたタイミングとも重なった。それで渡辺が経理部へと異動することになったのである。
辞令が下った当初、渡辺は腐りきっていた。スイスと日本を行き来するようなカッコいい商社マンに憧れてこの会社に入社したのに、何でよりにもよってこの俺が経理部で、都内のカビ臭いオフィスに毎日缶詰めにされて、数字とにらめっこなんかしなきゃならないんだよと、不満たらたらだったのである。
転職することも考えたが、社会人経験が二年しかない渡辺は、自身の経歴に傷が付くことを恐れ、とにかくあと一年は我慢することにしていた。がしかし、何であれ、人は一年もあれば案外慣れるものである。渡辺は経理の仕事に慣れてきていた。仕事が苦痛でなくなった。楽しさをわずかながらに感じるようになった。地方に残してきた彼女との関係も維持したかった。海外に出るようになれば、ただでさえ遠距離恋愛で苦労しているというのに、さらに面倒が増えることになる。渡辺には彼女と別れるつもりがなかった。転職は止すことにした。そうこうしている内に日々は過ぎ、五年が経った。
「渡辺君、年末調整の書類、全部揃ってる?」
佐藤が杖を突きながら渡辺の側までやって来て、そう言った。
「えっと……」渡辺が管理ファイルを開いて確認し、「二人だけ未提出ですね」と言った。
「催促かけた?」
「ええ。でもこの二人、今は出張中なんで、帰ってきてから提出してもらうことになりますね」
「そう。期限には間に合うの?」
「前日までには、なんとか」
「本当? 本当に間に合うのね?」
そう言って佐藤は念を押して確かめる。
佐藤がこうして念を押すのには理由がある。それは渡辺が時々嘘を言うことがあるからだ。渡辺はちょくちょく嘘を吐く。これまでに何度も嘘を吐き、周囲に迷惑を掛けた前科がある。営業から経理に回されたのも、実はそれが理由だ。どうせ被害を及ぼすなら顧客よりも身内に、という判断なのだ。佐藤もそのことを熟知していて、だからこそ念を押して確かめたのである。
「大丈夫ですよ。間に合いますから」
渡辺は佐藤を見上げ、笑ってそう答える。
心配性だなぁと渡辺は思う。自分が虚言癖を持っているのは自覚している。でもそれは悪気があっての事ではない。自分でも知らぬ間に、勝手に嘘が出るのである。それに今回は本当に期限に間に合う予定であり、嘘を言っているわけではない。
「分かったわ」
佐藤は杖を突き、左足を踏み込む度に軽く沈みながら、渡辺に背を向けて遠ざかっていった。杖と床がぶつかる度にカツンカツンと硬質の小さな音が鳴る。ヒョロリと痩せた佐藤の後姿を見て、渡辺は不憫なものだと思った。
佐藤の足が悪くなったのは、小さい頃に事故に遭い、その事故による怪我が原因だ。佐藤が小学四年生の時、朝の横断歩道を歩いていると、交差し合う車の一方が突然ハンドルを切り、交差点内でUターンを始めた。急に路線に進入してきた車に、対向車は驚いて慌ててハンドルを切った。対向車は電柱にぶつかり、フロント部分を深々と電柱にめり込ませて停止した。運転手はハンドルに頭をぶつけて頭の骨を折った。が、事故はそれで終わりではなかった。追突の衝撃ではずれたタイヤが猛スピードで転がり、横断歩道を渡る佐藤の左足をさらっていった。骨が折れ、アキレス腱が切れた。神経が傷つき、最悪なことにかなりの麻痺が残った。その日から佐藤の歩行には杖が必要になった。
「足が重くてね」と佐藤は飲み会の席で明るく言った。半期締めで作業が立て込み、遅くまで残って仕事していた人達で飲みに行った時のことだ。佐藤は渡辺の隣に座っていた。話題は何となく佐藤の左足に関することになった。
「痩せてる時には体のバランスを考えて、まあ無駄なつっかえ棒一本くらい、ぶら下げててもいいかな、なんて思えるんだけど……。太ってる時はねぇ。痩せたくて体重落としたくても中々落とせない時、いっそこの足切り落としちゃおうかしらなんてねぇ、そう思っちゃうのよねぇ。痩せればまたたくさん食べられるものねぇ」
と、ヒョロヒョロの体でそう語るのだった。
渡辺は佐藤を不憫に思っていた。
左の足が動かないことで、この人は一体これまでどんな我慢を強いられてきたのか。どれだけ多くのものを諦めねばならなかったのか。それは自分の想像を超え、遥かに悲惨な過去だったに違いない。
佐藤が左足の自由を失ったのが小学校四年、つまり彼女が十歳の時だ。その頃から不遇の人生が始まるのだ。青春は、誰に対しても平等に与えられているはずの青春の輝きは、彼女にはなお暗いものだったかもしれない。彼女は女性だ。足の不自由なことで着たい服が着れなかったこともあったに違いない。友達が行きたいと言った場所にも付いて行けず、一人置いてけぼりを食わされたこともあったに違いない。当時はバリアフリーなんて概念はなかった。行けない場所は現在より格段に多かったはずだ。恋愛に限って言えば、ほとんど最初から蚊帳の外にいたはずだろう。
そう考えた時、如何なる選択にも足枷を持つ佐藤に、これまで幸福な一幕というのはあったのだろうか、あり得たのだろうか。完全な幸福の一幕というものが。いや、なかったのかもしれない。
渡辺はそう思った。
佐藤は結婚さえしていない。まだ結婚が十分に普遍的であった八十年代、九十年代という時代に、佐藤は結婚さえしていないのだ。佐藤は何を思ったろう。自分の一生に意味はないと嘆いただろうか。いやそればかりか、足を引きずって歩く自分の歩行の遅さが、社会の進歩を妨げているのではないか、自分は社会にとってお荷物ではないのか。この左足が自分にとっての忌々しい足枷であるように、社会にとっては自分という存在こそ、切り落としてしまいたい足枷なのではないのか。そう考えて自身の存在の虚しさに、また社会に対する申し訳の無さに、人知れず心を痛めた夜の方が圧倒的に多かったのではなかろうか。
佐藤の杖を突くカツンカツンという音を聞く度に、渡辺はそんな同情を感じていた。
そして、だからこそ渡辺は佐藤を尊敬していた。佐藤が有能を絵に描いたような人だったからだ。業務に精通し、部下に理性的だった。しかもそれでいて、心情的な気配りも忘れることがなかった。渡辺が興味のない経理という仕事を何年も続けてこられたのも、佐藤の采配によるところが大きい。恩情もある。
しかし渡辺が佐藤に尊敬の念を抱く理由は、佐藤が上司として有能だからではない。佐藤は一人の人間として有能だった。それが理由である。
佐藤は経理部だけでなく社内全体に人望があった。仕事が早くて正確だというのは言うに及ばず、それに加えて話の分かる人だという点が、社内の人望を集めていた。佐藤の長年の成果である。
三十年か、と渡辺は思わずにはいられない。三十年、自らのハンデにも関わらず、決して腐らず自棄を起こさず、ただひたむきに仕事をし続ける……。自分にはそれができるだろうか。ほんの少し自分の要望と違った職務を命じられただけで、すぐに腐ってやる気を無くしてしまう自分に、果たしてそれができるだろうか……。彼女のように、人生を貫く重い枷もないというのに、自分にはその問いにイエスと答える自信がない……。
そう考えると渡辺は、忍耐という佐藤の力に感服してしまい、自然と尊敬の念を抱いてしまうのだった。
「ねぇ、今度はいつこっちに来られるの?」
香織は携帯電話の向こう側から聞いてきた。
「今忙しいんだよ、年末だからさ。今月はちょっと無理かもしれない」
渡辺が答える。
香織は渡辺の彼女だ。付き合い始めてもう六年になる。今年二十七歳。渡辺より二つ年下だ。
香織は仙台の病院で看護師をしている。渡辺との出会いは香織が大学一年の時だから、二人が出会って付き合い始めるまでの間に二年のブランクがあることになる。この期間、香織は林という渡辺の友人と付き合っていた。その友人林の引き合わせで、二人は知り合ったのだった。
この二年の間、二人は共通の知人を持つ友達としてだけ付き合ってきた。だがこの関係は、渡辺が社会人一年目、香織が大学三年の時に変化した。きっかけは、林の浮気が発覚したことだった。
林の浮気が分かった当初、香織は誰にも相談できずに一人で悩んでいた。相談できそうな友達は国家資格取得の勉強で忙しくしていた。香織は彼女達に迷惑を掛けたくないと思っていた。それで一人で悩むことになったのである。
だがそんな時、一年以上音沙汰のなかった懐かしい人から連絡が入った。それが渡辺だった。
この少し前、渡辺は仕事の都合で仙台に行った。要は出張である。渡辺が入社して半年が過ぎた頃のことだ。その折に、渡辺は卒業して以来会うことのなかった林と久しぶりに会うことにした。一緒に酒を飲みに行き、互いにまだ始まったばかりの社会人生活や、給料の安さ、他の友人達の噂話などに華を咲かせた。酒が進み夜も深けた頃、「そういえばお前、彼女とはどうなってるんだよ?」と、ふと思い出して切り出した渡辺に、林は「もう飽きたから、そろそろ別れようと思ってる」と意外な答えを返してきた。渡辺はてっきり、「大学卒業を待って、その後は頃合を見計らって結婚するよ」と返答があると思っていたのである。かなり前から二人の仲を知る渡辺から言えば、意外なことに感じた。
それでよくよく聞いてみれば、林の方では既に別の女の人と関係を持っていて、香織とは今はもう会っていない。名目上は付き合ってる状態でも、関係そのものは完全に破綻している。別の女というのは会社の先輩、三十代前半で未婚、肉付きが良くて騎上位の上手な大人の女性だ。遊ぶには最適な相手で、ほとんど毎週末に会ってやっている。気持ちが良くて震えるくらいに最高だ。
そういったことを林は酔って呂律が怪しくなりながら、楽しそうに話すのである。
「へぇ、いい生活してんだな。俺も会社の人とは一度だけやったことがある。四十代のおばちゃんだけどな」
渡辺は言う。
「マジか? スゲーな。でもいいよな。年増って」と林。
「ああ、ねっとりしててな」
「おお! 分かってんじゃん」
渡辺は自然と会話していた。
半年前までこんな奴ではなかった。怒りに任せて今ここでぶん殴ってやろうかと、内心激情を溢れさせてはいたが、その実渡辺の口から出た言葉は間逆の言葉だった。
林は愉快そうに笑っていた。その笑顔を見ながら渡辺は、もう一生、こいつとは会うまいと決めた。
林から自身の浮気を告白された渡辺は、香織が心配になって連絡を入れた。メールを送ったのだが、意外なことに返信は電話で来た。一人で悩んでにっちもさっちもいかなくなってた香織にとって、藁にもすがりたい気持ちだったのである。香織は電話の向こうですすり泣いた。通話は長時間続いた。夜の九時に始まった電話は、日付が変わってようやく終わった。次の日に仕事の待っている渡辺は、正直早く寝たかった。が、香織の話は止まらず、長電話が大嫌いだった渡辺は会話の中盤頃からずっとイライラしっぱなしだった。
「ごめんなさい、長々と電話しちゃって……。渡辺さんには仕事もあるのに」
電話の最後の最後になって香織は言った。よく言うよ、三時間も話しておいてと、渡辺は呆れていた。
「大丈夫。俺、明日会社休みだから。代休だよ、代休。うちの会社多いんだ、休みの日は出張ばかりだから」
「そうなんですか」
「うん。それに俺、電話そんなに嫌いじゃないから。香織ちゃんの声は、なんか癒されるしさ」
「ホントですか? 嬉しいです。……あの、また電話していいですか?」
「いいよ。もちろんだよ」
「ありがとうございます。……じゃあ、さようなら。お休みなさい」
そう言って電話は切れた。眠いんだよ、このボケが! と渡辺は心の中で叫んでいた。
始まりはこんなだったが、結局この日から三ヶ月後には、渡辺は香織と付き合うことになった。香織から電話のあった日以来、渡辺は香織の内幕を知る唯一の存在となった。それで自然と香織から頼りにされることとなり、またそのことが渡辺にとってまんざらでもなかった。嬉々として、快く香織からの相談事を受けた。メールのやり取りをするうち、たまの電話で声を交わすうちに、二人の関係は進展した。告白は香織からだった。香織に対する情が芽生え始めていた渡辺に、断わる理由はなかった。遠距離恋愛も覚悟の上だった。「メッチャ好っきやねん!」と多少おどけながらも、渡辺は香織からの好意を受け入れた。二人の交際が始まったのはこの時からだ。
「でもね」と香織は食い下がって言う。「今月はどうしてもナベさんに会いたいのよ。師走で忙しいのはよく分かってるんだけど」
「うーん、でも、そう言われてもさぁ……」
渡辺はまだ十分に有休を残していたが、今は使えるような状況ではなかった。年末というシーズン、この時期はどこも忙しいのだ。
「ねぇお願い。何とかしてよ、ね? 大事な話があるのよ」
「大事な話?」
「うん」
「……電話じゃ話せないような?」
「そう」
半休ならば取れるだろうか。だが、一日全部は無理だろう。
「ちょっと上司に掛け合ってみるよ」
「うん、分かった。ありがとう。じゃあ、お休み」
それで電話は切れた。
大事な話か、と渡辺は思った。何だろうと考えたが、単純に結婚の話だろうと思えた。
渡辺も香織も、もういい歳だ。結婚する気がないなら別れてほしい、そんな台詞が飛び出す展開も、あり得るんじゃないかと渡辺は想像した。
一年前くらいからだろう、香織が結婚のことを口にし出したのは。香織はもう二十七だ。焦りが出てくる頃なのも十分に承知している。結婚を望めるような相手がいるのなら、なおさらだ。
結婚か、と渡辺は思った。思ってみればもう六年も香織とは付き合っている。これまでは一人暮らしの気軽さが惜しくてついつい先延ばしにしてきたが、それももう限界なのかもしれない。香織は結婚相手として悪い人間ではない。真面目だし、思慮も深い。遠距離恋愛で六年も続いただけあって、辛抱強くもある。今は経理だが、また営業部に戻されて外国を飛び回るようなことになっても大丈夫だろう。金使いも荒くない。そう考えてみれば、自分にはこれ以上望むべくもないピッタリの相手だ。結婚は人生の墓場と言うが、香織のためならここで墓場に入るのも、悪い選択ではないかもしれない。話の展開によってはプロポーズに踏み切ってもいい。手放すには惜しい女だ。
渡辺にはそう思えた。
次の日、渡辺は会社に行って佐藤を休憩室に呼び出し、休暇の相談を持ちかけてみた。
「今月中に半日でいいんで、休みがほしいんです」
そう言うと佐藤は最初こそ渋い顔をしたが、渡辺がきちんと事情を説明すると、「それなら半日なんてケチなこと言わず、一日しっかり休みなさい」と、背中を押すような発言をしてくれた。それから「男なら、決めるところはしっかり決めて、彼女を安心させてあげるのよ」と、悪戯っぽく笑って言った。仕事のことは心配するなとも言った。こういうところが人望を集める由縁なのだろうと、渡辺は思った。
それから二週間ちょっとが過ぎて、香織と会う約束の日がやって来た。渡辺は「はやて」に乗って仙台に向かった。
香織は駅で待っていた。改札口で落ち合い、そこからさらに車に乗って移動した。向かった先は香織のマンションだ。
マンションに着き部屋の中に入ると、香織はすぐにキッチンに立った。しばらくして渡辺の前にはうっすらと湯気を立ち上らせる紅茶が出された。香織の前にも同じものが置かれた。これで、全ての準備が整ったことになる。
「あのね」と香織は言った。
「うん」と渡辺は返事した。
しかし、その先は続かず、「あのね」と香織はもう一度言った。それでも話は始まらなかった。二人でかなり長く沈黙した。が、不意に香織は俯き、涙を流し始めた。
「ごめんね。ごめんなさい」
香織は顔を伏せ、引きつるように泣いた。
一月程前、私は仕事の帰りに同僚達と飲みに行った。最初は私を含めた三人だけで飲んでいたが、途中からその内の一人が彼氏を呼び出し、四人で飲むことになった。たくさんお酒を飲み、とても酔っていた。私はその夜、その同僚の彼氏と寝た。泥酔していたこともあって、強引に迫ってくるあの人の力に抗えなかった。あなたには黙っていようと思ったけど、もう私一人では抱えきることができなくなった。辛くて苦しくて、もうあなたに打ち明けずにはいられなかった。どうか私を許してほしい。
「ごめんなさい」と香織はまた謝った。「お願い。許して。許して」そう言って泣き続けた。
フンっと渡辺は鼻で笑った。
「浮気で始まった関係だ。浮気で終わるのは、当然なんだろうな」
渡辺は確実に聞こえるくらいの音量で呟いた。立ち上がって香織を見下ろした。香織と目が合った。
「林がな、遊ぶには丁度いい女だぞっていうから試してみたんだ。同じ穴のムジナにならないかって、あいつ、馬鹿みたいに笑って言うからな。まぁ、案外長続きしたな」
その言葉を聞いて、香織はさらに激しく泣き出した。
「ご苦労さん、今まで楽しかったよ、どーも。でも、ここまでだな。さよならだ」
渡辺は部屋を出て行った。玄関の戸が閉まるまで香織の泣き声は聞こえていたが、完全に無視した。
渡辺はただ無性に悲しかった。悲しくて悲しくて堪らなかった。
香織が傷ついたことも、その香織の傷をさらに深く広げようとしてしまう自分の悪癖に対しても。
渡辺はタクシーを呼び寄せ、車に乗り込んだ。
「仙台駅までお願いします」
「かしこまりました」
ドアが自動的に閉まり、タクシーは静かに走り出した。車輪を回して。
車輪か、と渡辺は思った。
タクシーには足がない。車輪があるだけだ、足はない。だから足枷もない。足がなければ、躓くことも転ぶこともせずに済む。傷つくことも傷つけることも、またない。
佐藤は足を引きずって歩く。それは目に見える足枷だ。だが自分はどうだ? 自分の虚言癖も、やはり足枷ではないのか? 自分は佐藤に憐れみを向けているが、自分こそ本当は憐れまれるべき人間ではないのか? 真に救いがたい不具を持つのは、社会の敵は、自分の方なのではないのか?
タクシーは走り続ける。
「お客さん、東京から来た人でしょ? こちらには何しにいらしたんです?」
タクシーの運転手が聞いてきた。
「出張です。上司がね、自殺したんですよ。足が悪くてヒョコヒョコ歩く陰気な婆さんだったんですが、仕事も遅くてですね。皆から嫌われてたんです。それで、まあ色々と追い込まれたらしくて、自殺。迷惑ったらないですよ、全く。引継ぎも何も全部こっちで処理しなければならないんですから。で、今日はその引き継いだ取引先に訪問ってなわけなんです」
「ああ……。それはまた……」
その時ピピッ、ガガッと無線の入る音がした。重い声が静かな車中に響いた。