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《屍(し)》後編

「いなかった? また、いなくなったのか」

 信じられない。

 斎藤が土方の不在を突いて、報告がてら総司の様子を伺いに来てくれた。浮かない表情だ。総司はこれから語られるだろう不首尾を悟った。

 容赦なく土方が総司の体はおろか、顔もさんざんに殴り蹴ったから、目の上や頬や髪の生え際など、顔のあちこちが青く腫れ上がっていた。これでは、表を歩ける顔ではない。多少冷やしたぐらいでは、効き目はなかったようだ。土方のように冴えるような美しさはないが、愛嬌ある総司の顔が台無しになっている。

 総司の文を携えて寺に赴いた斎藤によれば、紅蘭はおろか姉妹がそこにいた形跡すら消え失せているらしい。

「寺の住職も、なにやら強い暗示をかけられた様子でぼんやりしていて、ちぐはぐな対応だったぜ」

「暗示、って」

「知らねえよ。泰助がそう言っていた。あれは陰陽師の娘だから、そういうこともあるかなって」

 最初は、土方に寝返った斎藤が嘘を言っているのか、と総司は強く疑った。総司には、紅蘭が庇護を拒否する理由が分からない。新選組最強のわたしが、これほど守ろうとしているのに。助けようとしているのに。ほのかな憎しみさえ感じる。

「また河原に戻ったのか」

 総司はひとりごちた。

「いや、泰助と河原も見に行ったんだ」

 斎藤が総司のつぶやきを掬う。一家が住んでいた小屋すらもなかった、という。

「泰助は『河原の業巫』のことを知っていたから、俺はついて行っただけなんだが。それらしき場所には、打ち毀された跡だけ。近くの河原者に聞いても、一家の行方はさっぱり知れない」

 騒ぎになってしまったから、陰陽師は紅蘭を率いて身を隠したのだろうか。

「紅蘭は病なんだ。医者に診せなければ。労咳なんだ。長く放置しておけない」

 あの、無責任な親には任せられない。総司はよろよろと立ち上がった。

「どこへ行く」

「もちろん、紅蘭を探しに。斎藤さんにはお手数をおかけしましたが、やはり自分で行かなければ」

「謹慎中の今、副長室を出たらおそらく極刑だぞ。俺も、これ以上は協力しねえよ。できねえな。副長のあの怒りよう、初めて見た。俺は、副長を孤独でかわいそうな人だと思ったことはあったが、怖くなったのは初めてだ」

「分かっています」

 総司は年下の斎藤にも、平隊士にも敬意を払い、常に丁寧なことばを使った。

 隊より、紅蘭を選ぶ。そんな選択、まったく莫迦げている。あり得ない。総司も、自分自身を嘲笑しているぐらいだ。

 けれど、放っておけない。助けたい。紅蘭を手に入れたい。自分を救ってくれるのは、紅蘭しかいない。

「恋、か。見境のない恋。とことん救われねえな、お前さんは。剣を振れば相当強いが、師匠の近藤局長には勝てない。局長の、第一の信頼を得たくても、土方副長を押しのけることができない。心は娘に向かったが、その娘は身分もない河原の憑坐」

 斎藤は、総司を見て囁いた。憐れんでいるのか、蔑んでいるのか、声には抑揚がなかった。

「止めてください。そんなこと、分かっています。どんなに働いても、頭打ちだということは。でも、それでいいんです。わたしは捨て駒です。わたしには、紅蘭さえいてくれれば」

 いつでも否定してきた。自分は誰かの隣に控えていればいい。自分が進むべき道は、近藤さんか土方さんが示してくれる。それを待てばいい。そう思えば、なんとも気楽な立場だ。

 だが、紅蘭に出逢ってしまった。

 あの娘はわたしを何者かも知らないというのに、受け入れてくれた。知ってからも、まったく変わらない。ただ、わたしを抱いてくれ、見返りを受け取らないだけだ。

「沖田さん、だからそれは堂々巡りだっての」

 すっかり元気を失った総司の萎れように見かねた斎藤が、少々無理に励まそうとしたとき、障子の向こうに人影が映った。

「内緒話はそこまでだ。男ふたりの密談なんぞ、滑稽なだけだ」

 声が降りかかり、はっとすれば柱に土方歳三が寄りかかっていた。やけに色白の肌の涼やかな面に、不気味な笑顔をたたえている。こういう不遜な顔をしているときは、たいていなにか企んでいる。総司は一気に緊張を走らせた。

「あとは、俺が引き受けた。総司の件は斎藤、追って沙汰する」

 どこまで話を聞かれたのだろうか。斎藤も気まずいふうで、唇を噛んだ。

「斎藤さん。励ましてくださって、ありがとうございました」

 総司は頭を下げた。斎藤さんを巻き込んだのは、自分だ。自分はともかく、斎藤さんは守らねばならない。この人ほどの使い手はまずいない。新選組にとって、なくてはならない。自分が士道不覚悟で粛清されたあと、代わりになれるのは斎藤をおいて、ほかにはいない。

「励ましてなんかいねえよ。差し入れを持ってきただけだ。見舞いだ、ほら」

 曖昧に返事をした斎藤は、今さらながらに懐から大福の包みを総司に投げ、副長室を後にした。大福は斎藤の体温で温まっていた。

「運のいいやつだな、総司は。しばらく内輪揉めはお預けだ」

 隣村の餓鬼大将との喧嘩に負けた、いかにもそんなふうな、つまらなさそうな顔で、土方は吐き捨てた。

「お前を処分したら、伊東一派との均衡が崩れる。思慮深い近藤さんのお情けに、大いに感謝するんだな。十日間の謹慎。たった十日だ。あれだけの騒ぎを起こしたにしては、寛大だろう。河原の女については、とことん調べてやる。うちの看板隊士を誑かすとは、許しがたいな。まあ、女のことはお前から話してくれてもいいんだぜ」

 どうだ、と言わんばかりに土方は恩着せがましく言い放った。

「あれだけの騒ぎって。そんな言い方は、心外ですね。わたしは騒ぎの前に去ったから、騒ぎを知りません。第一、あの人のことは残念ながら、わたしも詳しく知りませんので」

 相手が土方だと、つい自分の地が出てしまう。この人だけは、副長だなんて敬えない。かつての『石田村の歳』と『宗次郎(そうじろう)』に戻ってしまう。悪い癖だと思いつつも総司は、口を尖らせた。その辺りは、土方もよく分かっている。

「反省してんのか。今なら、局長が部屋にいる。早く、近藤さんに謝って来い」


 十日も外に出られないとは。稽古は続けても、体がなまるかもしれない。杞憂を胸に、総司はそろそろと廊下進んで局長室を訪れた。

 総司が逃げないようにと、土方が柱の陰からこちらの様子を監視しているのが確認できた。走れば振りきれる自信はあるが、これ以上騒動を起こしたくないし、今斬首されては困る。紅蘭の行方が気になる。

総司はよろけた。心身共に疲れていた。

「歳は、お前にきついことを言っただろうが、あれは建前よ。隊士たちの手前、批判の矢面に俺が立つ、と。河原には見物人が押し寄せるし、夜明けまで大騒動だったからな。そうだ、謝罪ついでに小さい坊主のところにも行ってやれ。それぐらいの外出許可は俺が出そう……と思ったが、その顔ではなあ。腫れが引いたら、行きなさい。まずは、文でも送るといい。悪いと思っているなら、お前なりの誠意を見せておけ」

「はい」

 痛いほどに近藤のことばが沁みる。殴られた傷の奥が疼いた。紅蘭のことなど一切忘れ、先日話があった会津の娘をもらおうか。それが、総司には最善のように思えた。むくむくと頭をもたげる想像に、総司は乗ろうとしたが。

「それと、覚えているか。先日の嫁の件」

 心を見透かされたのかと、総司はひやりとした。

「はい、もちろん。会津の」

「そうそう、それだ。お前の提案通り、斎藤に話を勧めたよ。斎藤も京にはそれなりの女はいるが、身元の確かな娘と家を持たせておかないとな。総司も斎藤を見習え。あいつのほうが歳下だったが、しっかりしているな。総司は、俺たちがよってたかって甘やかし過ぎたかもしれん。で、河原の娘は、諦めがついたのか」

 やさしく接しつつも、近藤は痛いところを的確に突いてくる。なのに、当の本人は気がついていない。総司は少しだけ眉を顰めた。

「いえ、ちっとも。わたしは紅蘭が好きです。どんなに引き離されても、諦めません」

 一瞬だけ、近藤は飛び出るほどに目を丸くした。だが、そこはさすがに一軍の将。すぐになにもなかったように顔を引き締め直したが、近藤は言い返せないまま、総司は鮮やかに局長室を出て行った。

「……俺たちは、まるで総司を見ていなかったようだな。いや、子ども扱いし過ぎたのかもしれん。紅蘭、という娘。どれ、会ってやるか。歳が反対しても、な」

 廊下に消えた総司の気配に向かって、近藤は小さくつぶやいた。



 三日後。

 紅蘭のことは焦るが、逃げるつもりはない。健に謝ることぐらい、ひとりでできるのに。総司は後ろを振り向いた。

 二十年近くの付き合いでどうにも見慣れしまったが、悔しいほど鮮やかな美しい顔がある。ようやく顔の腫れが引いてきて見られるようになったとはいえ、総司の顔とは比べものにならないほど整っている。

 新選組の本陣とは道を隔てた向こう側の香堂に、土方がついてきた。歩く隊規。まるで、総司の保護者のように。

「近藤さんは許しても、俺は総司のひとり歩きを許さねえ」

 さすがに土方は、副長の手足と化している隊の監察を駆使し、紅蘭の素性を洗い出していただけでなく、行方までも知っている素振りだった。だが総司には、新情報をひとことも漏らさない。泰助を使って巻き返しを図りたいが、土方の目をかすめることができず、依頼の文すら出せていない。斎藤にも頼めない。土方の前に、惨敗の総司。

「副長って、意外と暇な職なんですね」

「ほらよ、ぐだぐだ言わねえで、とっとと歩け。今日この時間に行くと伝えてあるんだろ」

 確かに、健少年宛てに文は出した。店の者の代筆だったが返信もあった。きっと店の軒先では、健が総司の来訪を待っているに違いない。甘い期待を寄せていた。

 だが、現実はどうだ。

 店はひっそりとしていて、活気がない。もともと渋い商いだから、人だかりができたり、行列なんていうものとは縁がない。だがそれでも、毎日違うよい香りが焚かれ、大通りにまでくゆらせていた。今日はそれもない。

「知らない店のように、静まりかえっているな。もう店じまいか」

 土方も異変に首を傾げた。

「すみません、お邪魔します。新選組の沖田です。健くんはいますか」

 奥まで届くように、声を張り上げて言ったつもりだったが、返事はない。

「新選組の、沖田ですが」

 構わず一本調子で叫ぶ総司の袖を、土方がついと引っぱった。

「おい。品が、きれいさっぱり消えているぜ」

 土方は手当たり次第に近くの香箪笥の引き出しを開け、中を確かめていた。

「勝手に改めてないでくださいよ。ここは人の店ですよ」

「町におかしな動きがあれば調べるのは、新選組に課せられた隊務だろ」

 店、とはいっても商い先は大口のお寺さんがほとんどだから、毎回納める量も日にちもほとんど決まっている。店先に品がなくてもあまり不審ではないのだが、箪笥や棚には売りものの香がひとつもない。

「あれ、ここに飾ってあった自慢の蘭奢待はどこへ。白檀の大きな原木もない」

 とても高価だということは知っていたが、香に興味のない総司にとっては眺めるだけだった品々。その、貴重な香が、影もない。

「命は助かりそうだったが、主人になにかあったか」

 土方が店の奥に上がりかけたそのとき、先日対応に出た店の者が飛んできた。

「これは、土方さまに沖田さま。お待たせして、申し訳ありまへん」

「売り物が、なにもない。どうなっているんだ」

 怒ったときのいつもの癖で、土方は額に青筋を浮かべて威圧を加えた。

「へえ、それが」

 店先では落ち着かないので、総司と土方は客間に通してもらった。

「河原では、大変お世話になりました。うちの主人は、まだ混沌としておりますが、少しずつ回復しはってます」

 店の行く末を危ぶんだ従業員が、店の品を持ち去って次々に消えたという。

「店の金を河原で落とされはったさかい、いくら老舗でも店が立ち行かなくなると思った店の人間がなぁ、あっという間やった。奥さまは子どもを連れて、実家に帰ると言うてはる。まったく、お恥ずかしい話で恐縮どす」

「健もかい」

「へえ。はじめは旦那はんの目が覚めたらゆう話やったけど、もう待てんて言わはって、そろそろ身支度も終えて、店を出るはずで」

「お前はどうするんだ」

「わしは父の代から、ここに勤めております。今さらどこにもあてはあらへん。屋号を守れなかったことが悔しゅうて悔しゅうて。あ、噂をすれば、や。健はん、沖田さまやで」

 健は地味な麻の着物を着せられていた。春も浅い今の時季にしてはまだ寒いのではないか、総司が心配して口を開きかけたとき、握り締めていた健の拳が飛んできて、目の前に雪のような白くて小さい粒が降った。

「わっ」

 顔を背けたが、遅かった。雪粒が目や口に入ってしまった。粒は固くて、辛い。

「塩?」

 隣に座る土方を見れば、こちらも豊かな黒髪の上に塩が積もっている。

「帰れ! この、役立たずが。お父を守る言わはったんは、嘘やったなんて」

 健は怒りをあらわにした。自分の父を助けてくれるように懇願した男が騒動を起こして、父は死ぬところだったのだ。父がまさか、河原の娘目当てで出かけたことなど、知らされていないだろう。無理もない。

「済まなかった、健。これから、できるだけの力になるよ。河原に幽閉されている人たちも一緒に、助けたかったんだ。許しておくれ」

「もう信じられへん。早く出て行っておくれやす。店が穢れる」

 ともすれば、総司に向かって湯呑みや盆を投げつけようとする健を、店の者はどうにかなだめて、奥に下がらせた。

「すんまへん。まだまだ子どもで。朝になったら、旦那さまが気を失って帰ってきた。事実しか知らんもので。河原でなにがあったか、よく分かっておらへんのどす」

「いや、いいんだ。黙っておこう。それより、店のことだが」

 土方は今後の店の運営について、新選組が援助すると立案してしばらく話し込んでいたが、総司の耳には土方の声が僧侶の唱える読経のようにしか聞こえず、さっぱり入ってこなかった。

 じっと身を固くしていると、白い頭の土方に急に腕を引っ張られた。いつの間にか、話を終えたらしい。

「帰るぞ、白髪だらけの沖田総司さんよ」

「そういう土方さんこそ。お清めの塩で真っ白ですよ、頭」

5へ続きます

全10章構成、毎週水曜日更新予定です

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