《惨(さん)》前編
「やっと逢えた」
形のいい頭、背筋の伸びた姿勢。紅蘭はぼんやりと川面を眺めていた。総司は背後から紅蘭の体を抱きしめた。娘っぽい匂いが総司の感覚をくすぐる。
「ああ、いつかのお兄さん」
「ええ。覚えていてくれましたか」
総司の腕の中で、紅蘭は身じろぎした。
「顔はね。名前は聞いたような気がしたけど、忘れた」
「沖田です。沖田総司。新選組の」
少々嫌がる紅蘭を組み伏せて、総司は紅蘭の上にのしかかった。
「さあ、忘れました。そんな名前だったかしら」
「つれないんですね。わたし、あなたをずっと探していたのに」
「大坂に行っていたから。出稼ぎで」
「大坂まで」
「今回は帰って来たけど、そのまま流れてゆくこともあるし。また会えるなんて運がいいわ、お兄さん。今、京には上客がたくさんいるってことでしょ。ま、やけに羽振りのええお兄さんにしてみれば、運がなかったのかもね。財を全部吸い取られるわよ、母に」
「紅蘭、わたしに世話されてみないか。いいものを食べて、よく寝て、学び、病を治す。もちろん、妹さんも一緒に引き取るよ。こんな場所では病が篤くなるのも時間の問題だ」
京にきてから、局長や幹部はそれぞれ贔屓を作ったり、女を囲ったりしたが、総司には縁がなかった。ひとりの娘にこれだけ思い入れをしたのは、はじめてのことだ。総司自身も戸惑っているが、紅蘭だけは棄てておけない。
「世話、ねえ」
紅蘭はぞんざいにことばを投げた。胸の間からあの葉を取り出し、噛む。白い胸乳が覗けてしまい、総司は顔を赤らめた。右胸の、木の葉のような形の赤い痣まで丸見えだ。総司の切り出した話には興味がない様子で、思わず腹が立った。
「もっとこうしたいとか、将来こうなりたいとか思ったり、考えたことはないのかい、きみは。恵まれた容姿を持ちながら、金を巻き上げることしか頭にないのか」
「病だもの。夢なんて、見ているだけ時間の無駄。お兄さんには、あるの?」
病の熱で火照った、やわらかい脚を絡めてくる紅蘭に翻弄されそうになりながら、総司は生真面目に答える。
「ある。もっと強くなりたい。いい働きをして、道場のお荷物だったわたしの面倒を、ずっと見てくださった局長に、恩返しがしたい。その上で、より強い剣客とたくさん戦えれば、言うことがない。いい加減覚えておくれ、お兄さんじゃない。沖田総司だ」
「ふうん。たいそうな夢ね」
「そうだ。大切な夢だ」
「でも、今の沖田はんは強くなることよりも、呪縛を解くよりも、私と肌を合わせていたい。そうでしょう」
紅蘭の着物を剥ぐと、あまり清潔そうではない体からは、やや饐えた臭いがした。先日は宣託の準備で、川に入って身を清めていたのだろう。総司は欲情と戦ったが、紅蘭の体には勝てなかった。
「仕掛けは、あるはずなんだが」
その日、土方は総司の部屋に断りもなく入って箱を改めたが、結局なんの細工も見つからなかった。
総司と泰助が結託するなど、おかしい。
巡察時の行動も、いよいよ不審さが増している。上京したばかりのときは、人を斬るのを怖れていたはずの総司が、血を見るたびに容赦ない太刀筋になっている。浅い傷になるだけの脚や腕は狙わない。ほとんど、急所の突きを狙ってくる。
やはり、あの刀が原因なのか。
「芹沢の刀が」
土方はつぶやいた。副長たる自分が、虚妄めいたものを信じるわけにいかない。あの場に居合わせた自分がもっとしっかりしなければ、揺らいでいる総司を支えることはできない。総司を人斬りの鬼にしないよう、見張らなければならない。末期の芹沢は、人を斬りまくっていた。不逞の浪士だけでなく、町人やただの女も。
「だが、思い通りにならないと、腹が立つ」
菓子箱を破りに破り、土方は文机の上に置いて返したが、総司からの反応はなかった。符号はほかにあったのかと、土方は歯噛みをした。
総司はまめに河原に訪れ、紅蘭に差し入れをするようになった。新しい着物。滋養ある食べ物。美しく甘い菓子。易しい手習いの本。けれど、紅蘭はいつもの襤褸切れのような同じ着物を身につけており、総司が与えたものに袖を通したことはないようだ。母が取り上げるのか、紅蘭が拒否しているのか、どちらともつかない。渡せば、なくなる。いたちごっこだ。
今日は、むっつりする紅蘭を半ば強引に連れ、木屋町にある医者に行った。
「白露のことが心配」
「いいから。すぐ帰るから」
紅蘭の気持ちも分からないではないが、少しは自分のことも心配するべきだと総司は思った。紅蘭は己を省みようとしない。無欲過ぎる。だから総司も依怙地になって、紅蘭を捨てておけないのかもしれない。
訊ねたのは、南部精一医師の庵。
会津藩下に置かれている新選組の医者も兼ねており、隊士たちへの定期的な回診も行っていた。
新選組は、なにしろ男ばかりの暮らし。本陣内は、医者により指導が入るまで、荒れ放題に荒れていた。綺麗好きで万事細かい土方も、自分の部屋は念入りに掃除するが、とてもすべてを掃いては回れない。共用部の不潔さには、見て見ぬ振りをしていた。
それに、食べ物もよくなかった。いい給金をもらっている隊士の多くは、舌が肥えている。本陣の質素な賄いを喜んで食べる者はいない。自然と食べ残しが増える。片付けもしない。上洛した当時はろくに収入がなくて、着るもの食べるものに苦労したというのに、皮肉なことだ。
南部の言い分は、散乱する残飯を豚に食べさせつつ片づけさせ、これを太らせ、まるまると肥えたら潰して食すこと。豚は栄養価が高く、体力回復にはうってつけらしい。さすがに、豚の解体は本陣ではできないので、南部の弟子たちに頼んだ。数日に一度、木屋町に豚が送られ、火を通せばすぐに食べられる状態の肉が運ばれてくる。
総司は獣肉を食べたことがなかった。京で数回、猪や兎肉を見たが、拒絶した。魚や卵すら、己が食すとなると気味が悪い。加熱するときに豚が発する獣臭さにも耐え切れず、膳に出されても食べているふりばかりで残すから、いまだに口にしたことがない。豚の肉には、あの土方も閉口していた。
一方、局長の近藤は豚肉を喜んだ。いち早く食べようと、肉の色が変わる前に鍋から上げようとして、土方に幾度となく『腹を壊す』と警告されている。元来、新しいもの好きであり、京で美味に親しんで肥えた舌は止まることを知らなかった。いっぱしの剣術家だというのに、近藤の腹には贅肉が乗りはじめている。
清潔と滋養を心がけるようになってから、隊士たちの体調がみるみるうちに良化した。いくら医者嫌いでも、南部の手腕を認めるしかない。隊士たちも南部先生ならばと、こぞって診察を受けた。
土方の実家で作っている迷信じみた石田散薬より、南部の調合した薬がよく効くと噂され、土方は憤慨していたが、合理的な医学の前には黙るしかない。
総司にも、巷の名医と言って真っ先に浮かぶのはこの人物だった。どうにもだるくて仕方がないとき、回診の際に南部にそれとなく相談したら、あなたの気鬱はすべてを心にかかえているせいだ、腹に仕舞わないで大声で叫んで吐き出してみなさい、と指摘された。嘘だろう、そんな簡単なことで、総司は半信半疑で心の内を声にして叫んだ。莫迦野郎、と。南部先生に対して莫迦とはなんだと、近藤や土方がすっ飛んできたが、総司も南部も笑っている。叫んだことで気力がすっきり回復し、落ち着いた総司は南部を尊敬した。南部が『こういうわけでして』と説明すると、慌て者のふたりはようやく安堵した。医者というと、無愛想で堅苦しい印象しかなかったが、南部はいつも穏やかで親身だった。
しかし、河原に住まう娘風情が診てもらえる医者ではない。京でも屈指の名医だ。
対応に出てきた、渋る南部の弟子たちを何人も説得して、ようやく紅蘭の診察を勝ち得た。わざと腰の刀をちらつかせて、自分は『新選組の沖田』であることを、少々悪用して強く出てしまった。さすがの南部は急な願いにもかかわらず、いやな顔ひとつせず、むしろにこやかに総司と紅蘭を迎え入れ、多忙だろうに時間をかけて紅蘭を診てくれた。
いったん患者の紅蘭を下がらせたあと、総司は医者から彼女の病状を伺うべく向かい合った。南部は、渋い顔で言い澱んだ。しばらく、ことばを選んでいたが、やがてはっきりと宣告した。
「容態は、非常に悪いね。あの痩せよう。喀血がはじまっていると言うし、とにかく体が弱っている。労咳の後期だ。今まで、一度も医者に診せたことはないのかい」
「ええ。実は、ごく最近知り合ったばかりで」
深いため息をつく南部。総司は、手のひらに浮かんだ汗を握り締めた。
「沖田くん。あの娘を好いているのなら、暖かくして、絶対に無理をさせないこと。きちんと食べさせて、体力をつける。体を清潔に保ち、よく陽に当てるように。でないと、病に体を乗っ取られるぞ」
「はい」
もちろんだ。最初は紅蘭に恨まれたとしても、目の届くところから逃がさない。憑坐の真似事なんて、絶対にさせない。
南部の説明は続く。
「房事も控えるように。若いから自覚はないかもしれないが、あれはとても体力を使う」
「……承知しました」
「薬を出しておくよ。また、いつでもいいから連れて来なさい。きみは忙しい身だろうが、必ず、近いうちに」
総司は決意した。
紅蘭と、白露も引き取ろう。本陣の近くに家を借りて、住まわせて静養させる。河原の父母とは力づくでも別れさせる。あんなの、親でもなんでもない。
南部との重苦しい面談が終わって外に出てみると、紅蘭は所在なげに佇んでいた。長い脚を広げて、ぼんやりと空を眺めて。紅蘭は学や教養を身につける暇がなかったから、たまに呆けような弛緩した態度をとる。とても美しい外見なのに、実にもったいない。病のせいだけはない、育ちなのだ。以降は、自分がよく躾けなければと誓い直し、総司は紅蘭に駆け寄った。
「お待たせ、紅蘭」
努めて、総司が明るい声をかけると、紅蘭は野うさぎのようにぴくりと反応した。
「ひどく悪いって言われただけでしょ」
自分の体のことなのに、紅蘭は興味がなさそうだった。
「なぜ医者に診せてこなかったのかと、わたしがひどく叱られてしまったよ。きみは恐ろしくないのかい、このままでは死ぬよ。まあ、過去を責めてもはじまらない。今後、しっかり治していこうね。はい、薬」
総司は、紅蘭のために出してもらった薬を掲げた。
「怖くないもの。死なんて、怖くない。河原ではよく死人が出るし、鴨川を流れている死体もしょっちゅう見かけるわ。残される、白露だけが憐れなだけ」
「わたしが話をつける。だから、もう河原には戻らないでおくれ。お願いだ」
いくら哀願しても、紅蘭は首を横に振り、総司の願いを承諾しない。薬も受け取ろうとしない。
「陰陽師の父母が、育ての親だということは分かった。けれど、もう充分に恩は尽くしただろう。紅蘭は死病なんだよ。あの親は病を治そうとするどころか、無理を押して働かせるだけじゃないか。現に、白露は売られかけている」
「もう、違う生き方なんてできない。私は、河原の業巫。私がいなくなったら、白露がこの仕事をさせられる。あの子は健康な体だもの。河原にいるより、島原や祇園に売られていったほうがまだましだわ、きっと。芸を身につけて体を磨けば、もしかしたらいい旦那がつくかもしれないし」
「きみは充分に働いた。もう休め。それでいいじゃないか。妙な後ろめたさはいらないよ」
「あの親に、恩義なんて感じないけど。そう言うあなただって、私を玩具にしたいだけじゃないの。面倒を見ると言っておいて、家に閉じ込めて。自分の呪いを解くために、私を利用したいだけでしょ」
痛いところをぐさりと刺された。
「紅蘭、待ちなさい」
呼び止めるのもきかず、紅蘭はさっさと河原の方向に歩いてゆく。
「帰さない、紅蘭。そんな簡単なことで、きみを引き止めているのではないよ。まずは体を休めて。話はそれからだ」
「だめよ。白露が、白露が」
人目がある往来だろうと構うものか。総司は紅蘭の体を強くかき抱いた。
「紅蘭は、わたしと一緒にいなさい。白露なら、わたしがなんとかする。だいじょうぶ。紅蘭、薬を飲ませてあげよう」
このままでは、無断外泊になる。罪に問われるだろうが、今は紅蘭を離したくない。瞼に土方の顔がちらついたものの、すぐに打ち消した。紅蘭をかかえたまま、総司は町に隠れた。
「この、総司! どこで、なにをしていたっ」
外泊した総司は翌朝、だいぶ日が高くなってから、ようやく帰陣した。非番だったとはいえ、無断の外出は目付け役である副長・土方を怒らせるのに充分な出来事だ。土方は美しい顔を歪ませ、血を上らせているが、総司は殴られた目を腫らせていた。
「言いたくありません」
総司の生意気な態度が、土方をますます怒らせた。紅蘭のことはまだ知られたくないし、説明できない。手に入れているようで、全然思うようにならないのだ。
「幹部が、隊規を破っていいと思ってんのか。下の者に示しがつかねえぜ」
「どのような処罰でも受け入れます」
極刑、つまり死には値しないことは分かっている。今年の正月、島原に数日間いつづけた幹部が三人いたが、いずれも謹慎で終わったばかりだ。厳罰を与えることはできないだろうと総司は踏み、行動に及んだ。紅蘭の身は、外泊先の宿に預けてある。我ながら、狡猾になったものだと総司は心の中で小さく笑った。
根負けしたように、土方は肩を落とした。
「……今夕、隊士の切腹がある。介錯をしろ。それまで、部屋から一歩も出るな。夜は、市中の巡察にしてやる」
「はい」
姉妹を住まわせるための家探しなどで、外を走りたいところだが、昼間は部屋でおとなしく今後の計画を立てることにした。
土方は、総司が出て行った先の襖を、恨めしげにきつく睨んだ。
……総司が変わってしまった。
あの、のめりこみようからして、おそらくは女だろう。昔の自分にも覚えがある。
女にまつわる不始末などで、総司を滅ぼしたくない。総司は新選組の要。ましてや、隊内の動きが胡散臭い。分裂しようとしている一派がある。脱走は切腹、隊規にはそう定めてあるが、よからぬ抜け道を作られてまんまと出し抜かれることを土方は恐れていた。
総司を失うわけにはいかない。隊の拮抗が崩れる。総司の剣の強さは必要だ。土方は頭を掻いた。近ごろの自分は、隊のことばかり考えている。どうしてもっと、総司本人のためにという思考が働かないのだろうか。
よく知らない花街のことは、仲介者が必要だろうと総司は思った。
紅蘭を救うには、白露も救わねばならない。総司は自分の部屋の押入れを改めた。
まずは、金だ。
がさがさと、雪崩を打つように給金や褒賞金が次々に出てくる。もっぱら新選組の本陣住まい、掃除の衣食住は揃っている。たまに、買い食いするほどしか、総司は金を使わない。もらった当時の、包みのまま封を切ってもいない金もあった。袋の中に、いくら入っているのかも分からない。どう使えばいいか困ってしまい、ずっと放置していた。自分の遊びの下手さを如実に示している、証拠の品だった。京に上ってから一年ほどは、姉の家や多摩の知人に京名物を送っていたが、だんだん億劫になって今では文を交わす程度になってしまった。
しかし、売られる手筈の整った白露を買い戻すには、いったいいくらぐらいかかるのだろうか。しろうとの総司には、想像もつかない。
こんなときに知恵を貸してくれる味方、といっても誰も思いつかない。
あるだけの金を持ち、見世を訪れて『娘を買い戻したいのだが』と直訴しても、笑われるだけだろう。花街のしきたりに則った手続きが必要なはずだ。
すでに数人の女を身請けして、自分のものとしている近藤局長ならば知っているかもしれないが『女を落籍させるのに、いくらかかりましたか。また、その手段とは如何』などと、単刀直入に聞くのは憚られた。恥ずかしい。そうなると総司の頭には、京の裏道に長けた泰助しか思い浮かばない。彼に間に入ってもらって、白露の身売りをなかったものにしてもらおう。もし、金が足りなければ、給金を前借りするしかない。
さて、次の問題は。
用意するべき、家。
それほど大きくなくていい。紅蘭の部屋。白露の部屋。わたしの部屋。それに、下働きの者の控えの間。大切なのは、陽当たりがよくて、手入れがされている物件。条件に見合う家がすぐに見つかれば、すぐに押さえたい。西本願寺に近いことももちろんだが、不動堂村の新本陣からも距離のない場所に求めなければならない。
着物。調度。使用人。揃えるべきものは山ほどある。
ふだんはつれない紅蘭も、これだけわたしが彼女のことを考えていることを知れば考えを改めるだろう。ああ、驚く顔が早く見たい。全身全霊でわたしを受け入れる紅蘭が見たい。紅蘭は笑いかけてくれるだろうか。
総司は紅蘭の病も忘れて、他愛ない空想を飛ばした。
惨の後編に続きます