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《逃(に)》前編

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 本陣。

 新選組隊士の一日は、夜間の巡察を担った者以外は、夜明けとともに剣術の朝稽古からはじまる。

 幹部の総司とて、例外ではない。平隊士に稽古をつけたり、時には道場の掃除も率先して行う。

「おはようございます」

「おはようございます、沖田先生」

「……おはよう」

 剣術指南役の総司は、歩くたびに隊士たちから丁寧な挨拶をされる。ほんの数年前までは道場の居候だったこの身が。少し、くすぐったい。それに、ほんとうは至極眠いのに、いつまでも不機嫌顔をしていられないから、不便だった。いつも誰かに見られている。気が抜けない。

「今日もいい天気だね」

「はいっ。気合いが入ります」

 総司の笑顔につられて、話しかけられた隊士も笑顔がこぼれる。井戸端にたどり着くまでに、いくつもの若々しい笑顔と出会えた。寒さは体にしみ入るが、いい朝になりそうだ。

「ふう」

 春は浅い。まだ冷たい水で顔を洗い終えた総司は、横から手拭いを差し出してくれた隊士と視線がぶつかった。顔は知っているが、すぐに名前が出てこない。確か、武州で近藤さんが見つけてきた男。総司よりも歳上だったはずだ。

「ありがとう」

「あの、いえ。そんな、もったいないおことばを」

 去ろうとした総司に、その隊士が聞いてくる。

「今朝の稽古は、どなたですか」

 つかさず、周りに立っていた隊士も、総司の返答に注目した。

「ん? 今朝は、わたしだよ」

 その答えを出したときの隊士たちの落胆ぶり。肩を落とす者、顔をひきつらせる者、その場を立ち去る者。聞かなかったふりをする者。

 総司は強い。

 だが、強い者が教え方も上手いとは限らない。総司は自分と同等の力量を、格下の者にまで要求してしまうゆえに、どうしても厳しく、荒くなりがちだった。

「そうですか、沖田先生ですか。よろしく、お願いします」

 消え入りそうな声で、隊士は逃げた。分かっている。容赦ない総司の稽古があると知り、落胆したのだ。誰しも楽をしたい。つらい稽古など、しなくていいならしたくないのが、人の本性だ。かつて、近藤局長が開いていた江戸の道場に、内弟子兼使用人として居候していた総司。生きるには、剣を磨くしかなかった。近藤はやさしいが、もし道場を追い払われたら、死ねと言われるのと一緒だ。総司はいつも瀬戸際に立たされた思いで精進した。

 新選組の規律は厳しいが、隊士たちには自分のような必死さにいまいち欠けている。町で斬り合いに至っても、土方の編み出した集団戦に持ち込めば、経験上まず負けないことを知っている。ゆえに、覚悟が足りなくなる。本来、戦いとは一対一で行われるはずなのに。総司は声を張り上げた。

「すぐに、稽古に入る。遅れた者は、士道不覚悟とする!」


「まだまだ! もっと深く打ち込んで来いっ」

「わたしが上役だからって、遠慮するな」

「隙のない形もいいが、攻めなければ負けるぞ」

「攻めろ、気迫で押すんだ。気組が足りない」

 総司は竹刀よりも、木刀を好んで稽古をつけた。重みや動きが刀に近い。それだけの理由で。竹刀はいかにも軽い。実戦には不向きだ。

 もっぱら総司は『普段の気立てはやさしいのに、刀を持つとまるで別人に変貌する』と噂されている。

 及び腰の隊士を、おだててなだめて褒めてその気にさせる技術を、総司は身につけていない。土方には下手な遣り口だ、もっと方法を考えろと莫迦にされるが、総司は自分の稽古を変えなかった。

 今日も、総司にしたたかに打たれた平隊士がいた。よく見れば、先ほど井戸端で手拭いを差し出してくれた隊士だ。弱くはないが、踏み込みに覚悟が足りない。これでは、いくら稽古しても上達しないだろう。いつまで経っても総司が名前を覚えられないのも、覇気がなく、印象が薄いからだ。

隊士は、床に倒れた弾みに口の中を切ったらしく、唇から血を溢れさせていた。紅い血がひとしずく、ふたしずく、垂れてゆく。

 ぽたぽた、ぽたぽた。

 床に血が広がる。

 総司は動揺した。背中にうすら寒く、重いものを感じた。

 流れる血。紅い血。あいつらがやってくる。魂を喰らうために。

『ぐひひひ。血だ。できれば、若くて美しい女の魂のほうがいいなあ。最近は、男ばっかりだぞ。芹沢は、女の魂もよく喰わしてくれだぜ』

 幻聴だ。空耳だ。総司は否定した。相手をしてはならない。

『河原で会った陰陽師の娘なんか、最高に美しい魂の持ち主だった。あれを、闇斬丸で斬れよ。魂を抉り出せ』

 莫迦言うな。紅蘭を欲しいのは、わたしだ。

『どうせあの病だ、長生きはできない。なに、少しばかり早めに魂を取り出したって、どうってことないだろう』

 それ以上、言ってみろ。お前を斬ってやる。

『斬れるものなら斬ってみろ。新選組には俺さまが憑いているから、ここまでのし上がれたんだ。俺がいなくなったら、転落するだけさ。ぐぎぎぎ』

「誰か、こいつを外に出せ。手当てをしなさい。少し早いが、これで朝の稽古を終える」

 一方的に総司は宣告し、さっさと片づけをはじめた。心の乱れを悟られなくない。気を紛らわすついでに、平隊士に混じって掃除をしようと雑巾を手にしたが。

「先生は朝餉の時間まで、どうぞお休みください!」

「汗を先に拭ってください!」

 たちまち隊士に取り囲まれ、雑巾を奪われた。

 勝手なものだ。弱腰の稽古で、わたしを苛つかせておきながら、今度は媚びて機嫌を取るとは。

「いや、早く片づけたいんだ。血で、道場が汚れる」

 血を。床に落ちた血を早く。匂いが体にしみそうだ。頭が割れそうに痛い。このまま、おかしくなりそうだ。

やめてくれ。清々しい朝から。

「ですが」

「いいから」

 押し問答になったところへ、声がかかった。

「隊士を困らせるな、総司よ。局長が呼んでいるから、ここはこいつらに任せて、早く行け」

 土方に睨まれ、総司はいくらか平静を取り戻した。

「は、はい」

「お前は新選組の幹部なんだぜ。下らないことで言い争いをするな。見苦しい」

 すれ違いざまに、つかさず小言を耳打ちされる。総司は口を曲げたまま、返事はしなかった。いくら土方さんでも、他人に分かるものか。


「おはようございます、局長」

 近藤局長は、本陣の近くに構えている妾宅、休息所から出勤してきたばかりの様子。小姓に淹れさせた茶を飲んでいるところだったらしい。

 茶のよい香りと、湯気が部屋にふんわりと漂っていた。殺伐とした道場と隣接しているのに、まるで異なった空間のようだ。

「おう。おはようさん。ようやく来たか。総司もひとつ飲め」

「いえ、わたしは」

 形ばかり辞退したが、総司の前にも茶が出された。稽古で喉が乾いていたから、熱いとはいえ飲み物はありがたい。しかも、局長室の茶は極上の玉露。総司はこれを遠慮なくいただいた。甘党の近藤が茶菓子まで用意しようとするのを、朝餉もまだだからと総司は必死になって押し留めた。

「どうだ、気骨ある奴はいるか」

 ごくりと茶を飲み干す総司に向かって、近藤は笑顔で問うた。この顔を見ていると、心が洗われる。血で動揺していたことや、土方に厭味を言われたことなどが、取るに足らない小さいことに思えてくる。総司は胸を張った。

「近ごろの隊士は、ぬるいですよ。しかし、腐っても新選組。それなりに使える者は多いですが、もう一歩二歩、前に進もうとしない。自分で自分の限界の壁を作ってしまって、乗り越えようとしない。いいものを持っているのに、惜しい。非常に残念です」

 総司は普段感じている、ありのままを答えた。

「相変わらず厳しいな、総司は。お前と同じ境地まで辿り着ける奴なんざ、そうはいねえぞ」

「ですが」

「ひとりひとりをよく見ろ。褒めて伸びる奴、課題を与えれば伸びる奴、いろいろいるはずだ。全員を把握するのは大変だが、荒稽古で上から怒鳴るだけではなく、個々をもっとよく見ろ。人事は押したり、引いたり、な」

「はあ」

 自分は、全力で剣術を教えている。間違った教授はしていない。手加減は卑怯な甘えだ。それなのに、なぜ自分が非難されるのか、総司は少々不満に思った。ずけずけと土方に言われるよりは、まだましだが。

「納得いかねえ顔つきだな。ま、簡単に済む問題じゃねえ。仲間ともよく相談して、稽古をすることだ。今朝、呼び出したのは稽古の話ではない」

 近藤の口元が、本題を切り出したくてうずうずしている。さらにいやな雲行きだ。総司は退室しようかと、襖のほうに視線を送った。面倒なことを言い出すに違いない。

「あの、局長」

「総司の朝の仕事は他の隊士に割り振るよう、(とし)……副長に言ってある。まずは、よく聞け」

 どうやら、すでに先手を取られており、逃げられないらしい。近藤も暇な身の上ではない。貴重な時間を割いて、総司に語りかけているのは明白。素面のまま、ふたりだけで話をするのは、ほんとうに久しぶりだった。なにやら気恥ずかしく、照れる。総司は座り直し、姿勢を正した。

「総司。お前、見合いしろ」

 思いもよらないひとことだった。一瞬、総司の頭の中は、霞で真っ白になった。

「会津藩の娘さんだ。相手の名前はまだ明かせないが、国元ではお姫さま扱いをされている箱入りの、美しい娘さんらしいぜ。髪が長くて、色が白くて」

「待ってください、局長。話を勝手に進めないでください。わたしがいつ、見合いを承諾しましたか」

「誰の許可もいらねえよ。俺が決めたことだ。お前の姉さんには、総司のことを一任されているからな。こんな良縁めったにないぜ。江戸に置いているツネがいなかったら、俺が受けたいぐらいだぜ」

 局長は江戸に妻子を残して、新選組を束ねている。それなりに、というか各所でお盛んに遊んでいるから、孤独ではないのだが。

「ですが」

「なんだ総司、乗ってこないな。お、まさか、晩生のお前にも、とうとう好きな女ができたか。紹介されてねえな、どこの女だ。言ってみろ」

 にやけた近藤に指摘され、総司の頭には紅蘭の顔が浮かんだが、あの娘は河原の憑坐。総司の愛玩物程度にはなるかもしれないが、しょせん恋の相手ではない。総司は脳裏に浮かんだ紅蘭の姿を否定した。

「いいえ、そんな人はいませんが、嫁ならわたしよりも、まずは土方さんの世話をしてくださいよ。長く独り身なんですから。あの人のほうが年長ですし、身分ある娘さんなら、好みのうるさい土方さんの興味も惹くでしょう。それに、結婚でもすれば、少しは角が取れて丸くなるかもしれない。全隊士が喜びますよ」

 やれやれ、といった感じで近藤は莨に手を伸ばした。

「俺だって、そりゃあ言ったさ。京に出てきてから、何十回とな。あの顔と器量なら、正直お前よりも引く手数多だ。だが、歳はなんと切り返してきたと思う。あいつ、真顔で『俺は、新選組と夫婦になっているようなものだから』だぜ。隊の経営に熱心なのはいいが、どうしてああなっちまったんだろうなあ。多摩にいたころはああじゃなかった。もっと明るくて楽しいやつだったのに。歳のことは諦めたぜ。こうなったら、お前に心を砕く」

 ふう、と吹かれた莨の煙がゆらゆらと立ちのぼる。

 ……隊と、夫婦。

 なるほど、土方さんらしいや。総司は苦笑した。近藤さんを守るために、鬼の仮面をつけて新選組を切り盛りしているとは、絶対に言わないだろう。土方歳三という男はそういう性格だ。

「わたしも、身を固めるつもりはまだありません。それに、堅苦しい良家の箱入りよりも、できれば江戸の娘がいいですね。はきはきしていて。余所の女はいけねえ。江戸に帰ってから、自分の足で探しますよ。そんなわけで」

 総司は腰を浮かせて退出しようとした。

「おい、話が途中だ。そんなわけって、どんなわけだ。この縁談、断れねえんだよ。総司のためにこっちから頭を下げてまわって、やっと紹介してもらったんだ。総司、俺の顔に泥を塗るつもりか」

斎藤(さいとう)さんがいるじゃないですか。あの人なら、この話を受けますよ」

 いたずらっぽい笑顔を作り、総司は困った縁談話をこの場にはいない斎藤一(はじめ)の身になすりつけ、さっさと局長の部屋をあとにした。常々会津贔屓の斎藤ならば、喜ぶと思う。

 配慮はありがたいが、嫁なんて、冗談じゃない。自分を型にはめてどうする。日々、誰よりも危険な隊務を、いつ死んでもおかしくない隊務をこなしているのに。この身のために、泣く人間なんて増やしたくない。


 総司はその脚で、河原に出た。

 河原の小屋までは意外に近かった。本陣を出て、東山の景色を正面に眺めながら、ひらすら鴨川に向かって進むだけ。

 硬そうだった桜の蕾も、少しずつ先が白く色づき、丸く膨らんできている。春の気配は感じるが、吹く風がまだ冷たい。今年は、京に来て五度目の春だが、ろくに花見をしたこともなかった。取り立てて神仏に信仰もない総司は、名だたる神社仏閣巡りすらしていなかった。

 河原は相変わらず荒々として、うら寂れている。余計に寒く感じた。この小屋が今すぐ川に流されたとしても、弔う者もろくにいないだろう。

 紅蘭の姿はなかった。

 あの少女の目に、自分の背にはなにが乗っているのか詳しく見てもらい、教えて欲しかった。できれば、それを取り除く方法を。物の怪が棲んでいる刀を見せれば、分かってもらえるだろうか。

 陰陽師の小屋を覗こうかとも思ったが、無宿人が武家姿の総司の姿をじろじろと舐め回すように見ていたこともあり、総司の自尊心が思い留まった。ここは、総司に似つかわしい場所ではない。

 今朝は、茶を飲んだきり。

 腹が空いたと、急に思った。


後編に続きます。

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