《逸(いち)》後編
「労咳なの」
すべてが終わったあとに、娘は血を吐いた。総司は目を瞠る。土手の下草に、まぶしいほどの鮮血が広がった。口元を、袖で雑に拭く。総司が斬ってきた浪士たちの血よりも、いちだんと濃く紅い血だった。
労咳、か。
先ほどの、乾いた咳はやはりそうか。
以前、隊の中にも同じ病の者がいた。診断が下ってすぐに、副長の土方が該当隊士を円満に除名した。充分過ぎるほどの大金を渡し、新選組内部の機密は黙らせたらしい。
「構いやしないさ。わたしだって、今夜にでも消えるかもしれない、儚い命」
総司はこの娘に、俄然興味がわいた。美しさはもちろん、媚びた遊びに慣れているようで、実は生娘だったのだ。
目の前の娘が欲しくなった。これは、楽しめそうだ。河原に住んでいる労咳の娘なんて、少し金を弾めば売ってくれるだろう。着飾って家に置けば、目の保養になる。総司にしては珍しく、打算が働いた。いつも闇刀に縛られていては、気が詰まる。気晴らしに、しばらくこの娘で遊ぼう。
「お家はどこ。親はいるの」
幼な子をあやすように、総司は猫なで声を作った。
「ほんとうにお兄さん、河原のことは、なにも知らないのね。ま、いいけど。こっちよ、ついてきて」
立ち上がった娘は、総司を促した。着物からまっすぐに伸びた細い足が、妙になまめかしい。
どうにか風雨をしのげる程度の小屋に、総司は案内された。建っているのが不思議なほどに傾いている。寒さは耐えがたいだろう。思わず背筋がぞくぞくと冷えた。
小屋の中には、家財なのかよく分からない品が左右に山積みされていた。木片、石、襤褸……。蒲団代わりに使っているのか、藁が大量にある。室内はまるで厩のようで、生活感がかけらもない。
甘ったるい香りが鼻をつんざく。相当きついが、どこか淫靡だ。小屋の薄汚さと慣れない匂いに、総司はためらった。戸惑って思わず袖で顔を覆う総司に、娘はほほ笑んだ。
「驚いた? お兄さんは、こんなの見たことがないでしょ。河原の貧しい暮らしって、どこもこんなものよ」
そう言いながら、娘は無造作に藁の上から、ただの布切れのような薄物をつかんだ。
「待っていて。あっちの部屋に、母がいるから」
娘は、小屋の上から吊された布の向こう側に消えた。人の家にしては奇妙すぎる空間に、総司は所在なげにたたずむ。やがて、娘とその母親らしき人影が現れた。憐れなほど痩せている娘とは対照的に、母親はずんぐりと肥えていた。新選組本陣の庭で飼っている、食用の豚のような体つきだった。しかも、母と言いつつ、娘にはまるで似ていない。
「あんたが、私に会いたいって?」
張りがなくて、しわがれた声。じろじろと無遠慮に総司を見ては値踏みをする。
「え、ええ。この娘さんを、わたしにいただけないかと。きちんと食べさせますし、本人が希望するならば、読み書きや芸事も習わせましょう」
「紅蘭をかい」
娘の名前を初めて知った。こうらん、というのか。
「はい」
人を見下すような態度の母親にも、総司は生真面目に答えた。
そうだ。
将来がある娘を、こんな小屋に住まわせていいはずがない。もっと食べさせて、薬を与えて。教養を身につけて。わたしだったら、もっといい環境を与えられる自信がある。口からのでまかせだったが、なかなかいいことを言ったと、総司は自分のことばを肯定し、酔った。
「あんた、京の人間じゃないね。なにも知らない」
無遠慮に、母親は総司を嘲り笑った。莫迦にされている。
「ええ。ですが、この娘が欲しい」
「紅蘭が欲しいだと? 河原の娘だよ」
紅蘭の母親は、ますます怪訝そうに眉をしかめる。
「母さま、私。さっき、この人と結ばれたの」
「結ばれたァ」
奇妙な裏声で母親は答えた。
「そう。河原でね。なんとなく、この人とならそうなってもいいかなって、ね。お兄さん」
紅蘭は総司に同意を求めてきた。
「はい。今後も、深く付き合いたく」
「やめな。どんなに金を積まれたって、紅蘭は一晩だってやれないよ。大事な商売道具だからね」
「そこをなんとか」
商売道具?
総司はそのことばにつっかかるものを感じたが、財布ごと紅蘭の母親にひねり渡した。十両近く入っているはずの中身を確かめた母親は、にんまりと下卑た頬を緩ませたが、承諾はしなかった。
「紅蘭の、仕事の客ではないようだね。本気かい。労咳だよ、この娘は。ま、いい。よく考えておくから、今日のところは忙しい。特別に、紅蘭の舞でも見て、帰っておくれ。さあ紅蘭、客が待っているよ」
母親は中身を小銭まですっかり抜き取り、財布だけを総司に投げて返した。
するり。
娘、紅蘭は身につけていた麻の着物を、その場に脱ぎ捨てて堂々と裸になると、薄物に袖を通した。総司の目を気にして恥ずかしがる様子は、まったくない。むしろ、総司のほうが目の遣り場に困った。
「この幕の陰から見るといいわ」
薄物を身に纏ったとはいえ、紅蘭はほとんど裸同然の姿だった。先ほど河原で総司が愛撫した双の乳房も、右胸の上に小さな痣があることまではっきりと分かるほど、形が透けている。
「紅蘭、待って。さっきはどうして、わたしに抱かれたの。逃げようと思えば逃げられただろうに」
無理強いはしなかったつもりだ。そうだ、最初から紅蘭に先手を打たれていた。話しかけてきたのは紅蘭。総司を招いたのも、紅蘭。総司は、紅蘭の見かけに気を取られていた。
「よく思い出して、お兄さん。私が、あなたを選んだのよ。抱かれたつもりはないわ。一応、憑坐の真似事している娘だから、身を慎めと言われてきたんだけど、もういいでしょう。あんなに血を吐くようになったら、もう長くは保たないわ」
「憑坐?」
「ええ。ほら、突き当たりの暗がりに、冴えない風采の男がいるでしょ。烏帽子に水干姿の。あれが、私の父。陰陽師、蘆屋道鏡。誰も、その名では呼ばないけれど。破れ陰陽師とか、河原の陰陽師、なんて言われているわ。私は、占いの手伝いをしているのよ」
「陰陽師。占い……」
さすがは京の都。いにしえからの風習が根強く残っているらしい。陰陽師の前には、数人の客が座って託宣の順番を待っている。どの客も、それなりに小金は持っていそうな、小奇麗で身分もあると思しき男ばかりだ。
紅蘭は蠱惑的にほほ笑んだ。幼いかと思えば、ずいぶんおとなっぽい表情も使い分けられるらしい。単純な総司は、翻弄されるばかりだ。
「それに、私のことを、ずいぶんと子どもだと思っているでしょ。こう見えて私、紅蘭は十七歳よ。労咳にかかってから、成長が止まったきりだけど」
十七。
この暮らしを続けながら、あどけなさを守ってきたとは。総司は素直に驚いた。体の成長が止まってしまったことと、関係があるかもしれない。
「紅蘭、また会える? わたしは、沖田総司。新選組の沖田総司」
総司の質問には答えず、紅蘭は冷ややかに言う。
「小屋には、あまり長居しないほうがいいわ。母に食い潰されるわよ。母は『考えておく』なんて、期待を持たせるようなことを言ったけれど、きっともう忘れているわ。さっきは、河原を徘徊していたお兄さんがあまりにもかわいそうに見えたから、慰めてあげたつもりだけど。なにかに憑かれているのね。きちんとした、都の祈祷師や陰陽師に相談したほうがいいわ。さようなら、お兄さん」
紅蘭は見抜いていた。総司が負っている契約を。
「あの物の怪が見えるのか。退治できる方法を、知らないか。お願いだ、紅蘭」
小さく首を左右に振っただけで、紅蘭は質問には答えなかった。
総司の手に先ほどの葉を数枚渡し、くるりと背を返した紅蘭はさっと歩きはじめ、客の前に立った。早くも、興奮した客の獣めいた歓声が起きる。父の陰陽師が紅蘭に向かって短く咒を唱えると、紅蘭は弾けたように狂い踊り出した。術にかかったのだろうか。かかったふりだろうか。総司には判断つきかねた。惜しげもなく若い乙女の肌を見せながら、紅蘭は客を煽る。
甘い香りも相まって、なにやらいかがわしい気持ちになる。観察するように見ていたはずの総司も、ひどく息が切れ、動悸が激しくなったばかりか、尻のあたりがむず痒くなった。
身を乗り出しそうになる客を諌めるのは、紅蘭の母親の役目だ。
「憑坐の娘は、労咳。この世の穢れを一身に受けている、業巫。触れてはなりませぬ。御身に、穢れがうつってもよいのですか!」
そう強く制されては、客は諦めて手を引っ込めるしかない。死病である労咳になりたい者など、いない。しかし、紅蘭の舞には、魂が持って行かれたかのように、眼が離せないでいる。どこからともなく、紅蘭に触れようとする手がまた伸びる。改めて母親の叱責が飛ぶ。そんなやりとりが数回続いた。
紅蘭は笑わない。汗が床に落ちる。時折、苦しそうに咳き込むが踊ることはやめない。舞の途中、薄物の袖で唇に浮く血を拭って、客を上手に誤魔化す。
相当、つらいはずだ。痩せた体でこんなことを続けていたのでは、いくら滋養あるものを食べても治らないだろう。総司は紅蘭を助けようとしたが、父の陰陽師が銅鑼を鳴らしたのを合図に、紅蘭はつと脚を止めたと同時に、その場にがくんと崩れ落ちた。
「出た! 宣託が、下りましたぞ」
紅蘭の体は、母親が引きずって、父の陰陽師が座っている背後まで運ばれた。総司が垣間見している場所とは反対方向だ。紅蘭がなにかつぶやくのを、陰陽師が聞き取る。陰陽師を介し、客のひとりひとりに宣託が告げられてゆく。やがて、陰陽師の近くには人の頭が群がって、紅蘭の姿が見えなくなった。
無事なのだろうか。せめて、安否だけでも確かめたい。
「姉さまはだいじょうぶよ、いつものことだもの」
舞台に気を取られていた総司は、背後から人が近づいていたのにもかかわらず、注意が疎かになっていた。
声の主を見れば、十にも満たない少女。
「姉さま?」
「紅蘭は、私の姉。ああやって、倒れるのは見せかけ。大げさに倒れれば倒れるだけ、お布施が増えるんですって。河原の陰陽師を信じて寄進すれば、どんな願いでも叶うのよ」
「あれが演出? 何度も喀血していたじゃないか」
総司は子ども相手にもかかわらず、むきになって答えた。
「血は仕方ないもの。父も母も、とことん姉さまを働かせて、楽に儲けることしか考えていないから」
少女は睫毛の長い黒々とした目を、床に敷かれた莚に向けて、息を飲み込んだ。もちもちとした白い頬が対照的だが、さすがに全体の雰囲気は紅蘭によく似ている。美しく成長しそうな片鱗を、目に唇に肌に、すでにちらちらと覗かせている。なるほど、妹か。
「もう行ったほうがいいわ。宣託のあとは、父も母も興奮気味で、お客さんも殺気立っているし。さ、早く」
総司は少女によって、小屋の外に追い出された。紅蘭に未練があったが、今日のところは退却した。
紅蘭のすべてが欲しい。
体だけではない。紅蘭になら、あの物の怪を退魔できるかもしれない。呪われたこの身を解き放ってくれるかもしれない。
続きます。
今後は毎週、水曜か木曜に更新する予定です。