《終(じゅう)》
総司は家を引き払い、もとの本陣暮らしに戻った。休息所は、紅蘭との日々の記憶が濃密過ぎた。小さな骨壺の中に収まった紅蘭。墓は決めてあるのに、納骨する勇気がまだ出ない。
意外な人物が、本陣の総司を訪れてきた。
「健じゃないか」
「えへへ。店を開く日が決まって、戻ってきたんや」
照れながらも、健はまっすぐに総司の目を見て話しかけてきた。
香堂の復活には、約束通り土方が動いた。新選組の武力を行使せずに、寄生先の西本願寺を動かした。表向きには寺の後ろ盾を得た、という形をとって営業再開に漕ぎつけたのだ。
「沖田はんには、助けられた。つい、河原の鬼に惑わされそうになったとき、引き上げてくれはったんは、沖田はんや。おおきに、おっちゃん」
年端のゆかない健を誘惑したのは、河原の鬼……かつての白露だった。総司は、はにかんでごまかした。聞けば、香堂の旦那も起き上がれるほどに回復したらしい。健も巻き込んでしまったが、ただの坊っちゃん育ちから、だいぶ成長した。身辺が落ち着いたら、きっと旦那の見舞いに行こう。きちんと謝ろう。
残るは、白露の身の振り方と、己の心の始末。
不思議なことに白露は今、紅蘭のことや河原での生活一切を忘れてしまっている。陰陽師の呪縛が解けたということだろうか。それはそれで喜ばしいのだが、困った面もある。
「総司はん、総司はん」
おこうに預けてある白露は、どういうわけか総司を行く末を誓った人だと、すっかり強く思い込んでいた。最後に、紅蘭が白露に暗示をかけたのだろうと思う。白露はまるで自分自身のことを覚えていなかった。河原で生きてきたことをすっかり忘れている、紅蘭という姉がいたこともさえも。
近藤局長の妾宅に赴けば、いつも総司の身の回りをあれこれと、小さな手で甲斐甲斐しく世話をしてくれる。全幅の信頼を預けてくれる姿は、素直にほほ笑ましく嬉しいが、白露は自分のものに収めるのではなく、遠く離れた良家に嫁に入れたいと総司は考えている。たまに、紅蘭の面影が重なって苦しくなるが、行き先が不透明な自分には関わらないほうがいいだろう。白露を実の母親のもとに返すことも考えたが、騒々しくて危険な京はもうたくさんだと思った。負の循環を断ち切りたい。
悩んだ末に、白露を多摩に住む親戚の家に送ることにした。あの、のんびりとした人情あたたかな土地で白露を育てれば、さらに美しく健やかな精神になるだろう。万が一、父親である泰助が京に戻ってくるようなことがあれば、そう伝えよう。必ずや、認めさせてやる。
三月二十日。
伊東側についた隊士が、新選組を出て行った。『先に崩御された帝の陵墓を守る』という仕事を得たそうな。『独立ではなく、分離して薩長の動きを探る』ことを建前に、堂々と本陣を抜け出た。伊東に腰巾着していた隊士たちは当然従うだろうと思ったが、あの、誰にも組しなさそうな斎藤一も、新選組を去ったのには驚いた。
白露救出の件では斎藤に世話になったが、総司は香堂再開班に組み込まれ、斎藤とはすれ違ってしまい、礼を述べるどころか、ひとことも話す機会がなかった。袂を別ったとはいえ、それとこれとは違う。本人まで届くかどうか分からないが、とにかく文でも出しておくか。
「行ってしまいましたね」
総司は土方と香堂の手伝いをしている。まだ人手が集まっていないのだ。土方は眉をひそめた。
「それはいったい、どこのどいつのことだ。俺は知らん。万事、深追いは禁物だ」
「なるほど。淡白な土方さんらしいや。去るものは追わず、ですね」
「味方と思っていた敵が、明日には味方に戻るかもしれないぜ。まったく先が読めない時代に入った。狐の化かし合いだ。だが、俺は今このときに生まれてよかったと思っている。死ぬまで、自分を試せるからな」
「ふふ、土方さんらしい物言いですね」
「それより、墓はどうした」
総司はことばに詰まった。
紅蘭の死を挟み、土方とは昔のような関係を保てないだろうと覚悟していたが、土方はいやにやさしかった。
紅蘭を火葬した煙を茫然と見上げて萎れていた、あの日。
総司に、土方は語った。
「小屋に乗り込んだとき。あの娘、総司のことを言ったら、強張っていた表情がたちまち笑顔になってな。お前の女だと分かっていても、あんないい笑顔をされると、心にくるものがあったぜ」
嘘だろう、自分を励ます方便だろうと、総司は鼻にかけてすぐには信じなかったが、土方の熱っぽい弁は終わらなかった。
「紅蘭のほうも、総司を確かに想っていたんだ。だが、紅蘭の体がそれを許さなかった。陰陽師の暗示もあったし、あの肉体は河原で朽ち果てるものだと、諦めていたようだ。惜しむなら、娘には希望がなかった。労咳の発作もひどかったから総司、お前が紅蘭の生を終わらせたこと、娘は感謝さえしていると思うぜ」
そんな同情めいたことばはいらない、余計に惨めになる。自分は一時の怒りに任せ、大切な女を斬った莫迦な男だ。総司は土方の手を振り払ったが、自分の双の目からは涙が滴り落ちていた。
「彼女の生を奪ったことに、変わりはありません。わたしがみじめになりますから、どうかもう放っておいてください」
「ちゃんと墓を立ててやろう。短かったが生きた証しを、沖田総司に愛されたんだっていうしるしをな、遺してやれよ」
かく言う俺たちだって、いつまで暢気にこうしていられるか分からないんだぜ、土方は自嘲気味に笑った。土方は、新選組を引っ掻き回し、近藤局長に屈辱を与えた伊東たちを決して許さないだろう。近藤も土方もことばを濁しているが、おそらく斎藤は近藤派の間者として送り込まれているのだ。そのときが来たら、新選組に戻ってくるだろう。再び、戦いになる日がある。
土方に促されて、ようやく決心がついた。
香堂に通う合間、総司は光縁寺に紅蘭の墓を建てた。旧屯所時代から世話になっている壬生の光縁寺は、既に何人もの隊士が眠っている。総司はその墓所の、奥まったところに控えめな小さな墓石を拵えた。ほんとうならば、江戸にある沖田家の墓に入れてやりたいが、それはできない。
「わたしもいつか、この隣に」
時代は回天を告げている。おそらく叶わぬ願いだとは知りつつも、総司は手を合わせずにはいられなかった。
『慶応三年四月二十六日 沖田氏縁者』
墓にはそう刻ませた。正式に認められた仲ではない。未練もあるが、これが総司にできる精一杯だった。
新選組だ、なんだのと、都大路を日々偉そうに徘徊している割に、総司個人は非力だった。実に情けない。もっと力がほしい。
ふっと、息を吸って笑った瞬間、総司は急にごほごほと咳き込んだ。喉の奥で、なにかが詰まっているような違和感を覚えた。
体調がすぐれない。薄々はそう感じていたが、無理をしてここまで騙し続けていた。伊東派の分離騒動や香堂の再開など、紅蘭の件でさんざん休暇漬けになっていた自分だけが、さらに休むわけにはいかなかった。
咳をこらえようとすればするほど、つらさが増す。涙目になる。どうすればいい。我慢しきれず、とうとう吐いてしまった。このところ、心労続きで食欲がなかった。戻したものは臓腑の液だろうと高をくくったが、手のひらにべっとりついているのはまさしく、鮮やかな血。
「血……か」
まさか。これは。
総司の動悸が激しくなる。体すべてが心の臓になったように、鼓動が響いている。
緊迫した顔で口をおさえ、ぎろりと慎重に辺りを見回す。手のひらからこぼれて地面に落ちた血の塊を、近くの土を蹴り上げて急いで隠した。そばに誰もいないことをよく確認してから、総司は光縁寺を離れた。
なにかの間違いだろう、これは。息苦しさに耐えながら、人通りの少ない小路を選んで突き進んだが、途中、唇からごほごほと、また血があふれ出た。息苦しい。総司はもう一度、血を吐いた。
『ぐひひひ。あの娘の美しい魂を喰らっておけば、お前の寿命も延びたものを。娘は自分の命を投げ出して、お前を生かそうとしたのだぞ。つまらない意地を張るからだ。ああ、もったいない』
まさか。
『まあいい。しばらくこれからも楽しめそうだな、沖田よ。人の魂をもっと喰わせろ。お前も喰らえ』
物の怪の声は芹沢のものに、自分の声までもが重なりはじめていた。
冗談だろう。
紅蘭のいない、この世に未練はない。けれど、なにもかも半端だ。
強い相手に巡り会いたい。近藤さんの力になりたい。存在が揺らいでいる新選組を、支えなければ。白露の成長の様子も、把握したいのに。
幼いころから、よく熱を出して寝込んだし、麻疹にも罹って生死をさまよった。体は強くないほうだという自覚はあったが、なんと皮肉な報い。
総司は鴨川の土手を転げ落ちた。無意識のうちに、河原にたどり着いていた。ここでこうして寝転んでいれば、いつかは紅蘭が迎えに来てくれるだろうか。
咳が止まらない。
血の匂いを消すために薄荷を噛み、そっと目を閉じた。彼女もよくこうしていた。今になってみて初めて分かる。そうか、薄荷は心を穏やかにさせるだけではなく、匂い消しの意味もあったのか。医者に通って不養生を叱られて、病状の進退に一喜一憂するよりも、安らぐかもしれない。
……むしろ、運がいい。総司は笑った。
紅蘭と同じ病に罹ったなんて、幸いだ。死ぬなら戦場で、と思い込んでいたが、紅蘭との短い逢瀬を噛み締めながら孤独に死んでいくのが、沖田総司らしい最期かもしれない。さんざん人を斬り、魂を狩り続けた自分には、立派な武士の最期など許されないのだ。物の怪の言うなりになって生きるしかないならば、病に倒れたって惜しくない。
白露は、多摩に向かわせた。別れ際には目を真っ赤にして泣きじゃくっていたが、多摩の人々のあたたかさに触れれば、暗示にかかった心も開くだろう。総司のことなども、すぐに忘れてしまうに違いない。
近藤さんには、土方さんがいる。伊東派に寝返ったように見せかけて、実は密偵として潜り込んでいる斎藤さんも、力強い支持者だ。
香堂も再開し、使用人も揃ってきた。わたしが手伝うことなど、もうほとんどない。むしろ、邪魔だ。都では評判の悪い新選組の隊士が、店におおっぴらに出入りしていたら、客が寄りつかない。
人を斬ったところで、空しいだけだ。刀を抜くだけで、紅蘭の肉の重みが腕に蘇り、己を萎縮させた。
なんだ、この世に思い残すことなんか、あんまりないじゃないか。執着がない自分を、総司は知った。
また一枚、新しい薄荷を出して噛む。紅蘭を偲びながら、少し眠ろうか。
初夏の匂いに包まれた鴨川の流れは緩やかに、風はどこまでも穏やかに吹いていた。
(了)
読了ありがとうございました。紅蘭と総司のお話はこれにておしまいです。




