《苦(く)》
家にいてもすることがないので総司は現場復帰も果たしたが、隊士たちの評判はがた落ちだった。稽古はいたって乱雑、巡察に出れば闇斬丸で血の海を作る。
静かにひとりで起き出し、ひとりで蒲団を畳み、本陣へ向かう。
朝焼けが京の町を包んでいて、あたたかい。桜はすっかり花を落とし、葉を勢いよく伸ばしている。今年も、花見に行けなかった。紅蘭と見に行こう、行こうと思いつつ、八重桜も終わり、無駄に日々を費やしてしまった。この身に、来年の春はあるだろうか。
本陣までは、とろとろと歩いてもすぐに着く。このあと朝稽古をし、朝餉をとりがてら自分の隊務がどうなっているか、確認してみよう。総司は今日の予定をぼんやり考えながら、俯きがちに歩いていた。
いつもの空気と違う、そう感じたのは道場に入るほんの直前だった。明らかに隊士の数が少ない。自分の与り知らぬところで大捕物があったのだろうか。いや、新選組の表看板たる沖田総司を除いて出動など、あり得ないはずだ。総司は慢心していた。
「沖田さんか」
背後から声がかかった。これは、斎藤一のものだ。先日の禍根があるとはいえ、隊の幹部としては、なにもなかった振りをしなければならない。それぐらいは土方に諭されるまでもなく、剣術莫迦の総司もわきまえている。総司は自然な笑顔を作って振り向いた。
「さいとう、さ……」
驚いた、なんていうものではない。斎藤の腕の中には、眠っているのか気絶しているのか分からないが、ぐったりとした白露がいた。
「鴨川の河原にいないと思ったら、こんなところにいたのか」
「どういうことなんだ、いったい。なぜ、斎藤さんが白露を」
斎藤は顔を顰めた。総司が声を強めたが、白露の起き出しそうな気配はない。
「聞かされていないのか。夜明け前、にわかに召集がかかってな。副長が隊士を二十人ほど束ねて、河原に行ったんだ。例の陰陽師が見つかったと。全員、黒づくめの衣装に着替えて、覆面をかぶってだな」
「なに。陰陽師が、性懲りもなくまた河原に?」
「そうさ。先頭の、土方副長がいきり立って小屋に突っ込んで……空が白みかけるころだ。浪士相手ならともかく、新選組が無抵抗の河原者を急襲したなんて知られたら、具合が悪いからな、あっという間だ。俺はこいつを渡されて本陣に戻るように指示されたから、ことの次第を最後まで見ていない。知りたかったら、自分で行って見てみることだ。こいつは、お前の部屋に寝かせておくが、いいよな」
やられた。
土方さんに出し抜かれた。事前に、なんの相談もなかった。
総司がぐずぐず悩んでいる間に、土方は着々と調べを進めて陰陽師の居場所を突き止めていた。白露が保護されたということは、紅蘭も河原にいたに違いない。
動揺を見られたくないが、この際そんな甘いことを言っている暇はない。
「白露を、お願いします。この子は、わたしの大切な娘になる子どもです」
斎藤はなにも言わずに頷いた。総司は目で感謝する。
走った。
東山の端から、次第に陽が高く高く昇ってゆく。辺りはすっかり朝の光に包まれている。今日も、夏の気配がするような一日になるだろう。
額にうっすらと汗をかいてきたころ、総司は河原に到着した。
紅蘭は無事だろうか。
彼女の顔をよく見知っている土方が乗り込んでいる。巻き込まれていないはずだが、陰陽師はどうなっただろうか。
「あっ」
以前、陰陽師が使っていた小屋よりも、やや下流の河原に人だかりがあった。総司は人垣を押しのけて進んだ。その先には新選組隊士と思しき人壁があった。
「通してくれ、わたしだ。土方副長はどこにいる」
土方に忠実な監察のひとり、大男の島田の姿を見つけた。
「これは、どういうことですか」
「沖田さん」
総司は手近にいた、島田に詰め寄った。総司もわりに長身の部類だが、上背も横幅もある島田に並ぶと、子どものようだった。
「副長から出動命令が出まして」
「それは、斎藤さんから聞きました。河原では、どうなったんですか。新選組は、なにを」
相変わらず、粗末な小屋が並んでいる河原の風景に変わりはない。先日のように派手に打ち毀したりはしなかったらしいが、焦るあまり、総司はうまくことばが出てこない。
「首尾よく進みましたよ」
島田は石の上に敷かれた目の前の莚を指差した。
「潜伏していた陰陽師を片づけました。こいつら、都を騒がせていた俘囚の輩でしょう。手負いの浪士のように、はむかってくることもなく、実に楽な仕事でした。しかし、新選組が手を下したと世間には知られたくないので、そのあたりをよく含んでおいてください」
よく見ると、莚はふたつ、こんもりと盛り上がっている。ためらうことなく、総司はそれを取り払って隠れていた部分を陽の下に晒した。
目を見開いて驚いているかのような表情の、陰陽師。それと、自分が斬られたことにまだ気がついていない眠気に満ちた顔の妻。ふたりとも急所をひと突きされていた。陰陽師の受けた傷は、土方のものだろう。土方は、敵を必ず仕留めたいとき、いつも首筋を斬る。
『ああ、魂がない。ふたつとも抜け出て、飛んでいったあとだ。遅かったな。体からは、血も抜け切っている。骸だけか、つまらん』
総司の心に巣食った物の怪が残念そうに喋った。やめろ、うるさい。
島田が抑え調子で総司の耳に囁く。
「これ、沖田さんの仇でしょう。ほかの隊士には、なにがなんだかさっぱり分からなかった出動だったと思いますが。ふたつの死体は、傷みも少ないですし、本陣に持ち帰って新入隊士の試し斬り用に使うそうです」
「ひどい」
「副長の指示ですから。実戦には生身を斬って知ることだ、といつも言っているじゃありませんか」
紅蘭を惑わす源とはいえ、命を断つだけでなく、まだ利用しようというのか。どうせ斬るならば、自分で始末をつけたものを。
「土方副長は」
つい、責めても仕方ない島田を問いつめる口調になってしまう。
「姉妹らしき娘を助けに、奥へ。突入したとき、妹のほうは気を失っていまして、すぐに救助できましたが、姉らしきほうが抵抗して。小屋の中か、陰にいるはずですが、ここからはちょっと見えません。驚くほど美形でしたね、あれが沖田さんの女ですか。いやはや、執着するのも無理はない」
総司は陰陽師らにゆっくりと莚をかけ直し、河原の大きな石を誤って踏まないように、飛び跳ねながら小屋に辿り着いた。血の匂いが濃厚に籠もっている。嗅ぎたくない匂いだ。己の人斬りが、物の怪が目覚めそうだ。物の怪に支配されそうだ。総司は自分の袖で、鼻と口を押さえた。
「紅蘭。こうらん」
返事はない。最悪の事態を想像してしまい、身震いが走る。紅蘭まで斬られてはいないか。土方は激昂すると、喧嘩っ早くなる。紅蘭。紅蘭。わたしの紅蘭。いとしい紅蘭。
総司の体の中を、激しい怒りが渦巻く。
わたしの言うとおり、安全な家にいればこんなことにはならなかったのに。陰陽師も、無駄に死ななくて済んだかもしれなかったのに。わたしは悪くない、紅蘭が軽率なのだ。
ふと、小屋の裏手から話し声がした。若い女の笑い声がする。まさか、紅蘭が? 総司は弾かれたように急いだ。
小屋の裏は、すぐ川に面していた。朝陽を浴びた水の流れが、きらきらと輝いている。眩しい。
総司の前にふたり、立っている。
案の定、若い女は紅蘭だった。彼女がよく使っている薄荷の香りが漂う。ああ無事だったのかと、少しほっとしたが、はじめて聞いた紅蘭の笑い声に、総司は軽く衝撃を受けた。想像していた以上に高らかで、澄んだ声だ。
もうひとりは逆光になっていて、誰なのかよく分からない。
まさか河原の陰陽師か、いや、あいつは死んだ。だが、あれも一応陰陽師だ、妙な術を使って生き返ったのかもしれない。父親のような、長い付き合いの陰陽師になら、時折笑いかけることもあっただろう。総司は無意識のうちに、歯を食いしばって刀に手をかけていた。これ以上、紅蘭を裏の世界に巻き込むことは許さない。何度でも死んでもらう。
しかし、楽しそうな紅蘭の笑顔。
総司が決して引き出せなかった紅蘭の笑みが、すぐそばにある。
『……許せない。わたし以外の者が、紅蘭に、ほほ笑みかけてもらえるなんて』
わたしの中の猟奇が、つぶやいた。
『もっと血を見たい、どんどん血を流せ、他人にも苦しみを与えろ。自分が潰れてしまう前に、他を傷つけろ。引き裂け、魂を取り出すのだ。ぐひひひ』
物の怪が言うがままに、体が動いた。
標的は紅蘭の話し相手である、黒い影。この際、斬り込む標的は、なんでもいい。魂を抉れ。
「覚悟!」
素早く刀を抜いた総司は、得意の三段突きを繰り出す。
喉と。胸と。腹に。
肉を貫いたという、確固たる手応えが総司にはあった。
血が舞う。総司は避けなかった。髪に、頬に、着物に、血は降り注いだ。
斬った相手が、どうと倒れる。
これで、紅蘭の笑顔はわたしだけのものになった。総司が高らかに勝利を笑おうとしたとき、目に入ってきた光景は真逆のものだった。
倒れているのは、陰陽師の身でも、幻影でもない。
……紅蘭だった。
「紅蘭? なぜ、紅蘭が倒れている」
手に持っていた刀を放り投げ、総司は慌てて紅蘭を抱きかかえたが、紅蘭の体には見事なまでに総司の三段突きが決まっている。
「総司さ……」
「喋るな! 血が、体の血が流れるから」
「どうせ、病で、長くないから。白露を、お願い。あなたのものに、してほしいなんて、高望みしない。どうか、人並みに」
「紅蘭っ」
「短い間、だったけど、ありがとう。ほんとうは、もっと一緒に、いたかった。でも、私は、河原での生き方を、変えられなかった。どうかせめて、私の魂を、総司はんに棲む物の怪に与えてください。しばらくはそれで、魂を求めてしまう衝動をおさえられるはずです」
「やめてくれ。そんなの、別れのことばみたいじゃないか。陰陽師は消えた。暗示は、もう解けた。きみはこれから、わたしと生きるんだ、ずっと。わたしが紅蘭の魂を喰ったら、きみはいなくなってしまう」
「あなたの、心に、住めるなら。食べて、ください」
さらに、紅蘭はなにか言おうとしたが、喉の傷口からごほごほと血があふれて、続けて喋れなかった。腕も脚も、血を失ってどんどん冷えてゆく。早く医者に診せなければ、総司は半狂乱になりながら紅蘭をかかえて、立ち上がろうとした。
「無駄だ、総司。娘を無理に動かすな。静かに最期を看取ってやれ」
声の主。それは、予期した通り土方歳三で。総司が斬りかかったのは、土方だった。
土方は後ろに下がって総司の突きを避けた。反対に、紅蘭は突きの軌道に飛び込んできた。土方と紅蘭の立ち位置が交替した。ゆえに紅蘭は総司の兇刃に倒れた。
「なにをぼんやりしている。返事してやれ。白露は任せろ、と。必ず大切にする、と」
総司がうろたえている間に、紅蘭の顔はますます白くなり、死人そのものになりつつある。
「紅蘭、紅蘭」
総司は呼びかけた。初めて愛したいと思った女なのに。
「莫迦やろう、早く言え! 今なら、まだ聞こえる。白露は任せろ、安心していいぞ」
冗談じゃない。土方さんは気迷ったのか。紅蘭が死ぬなんて、あってはならない。しかも、わたしの剣で。狩りたくない、いつも手の届くところに置いておきたいのに。
「総司っ」
今しがた、頼りにしている弟分に斬られそうになった、という怒りを抑え続けてきたが、土方はどうにもはっきりしない総司の背中を強く蹴り上げた。
「なにするんですか、土方さん」
「紅蘭の心残りは白露だ。この娘を好いているなら、ひとことかけて安心させてやれ。それともお前は、騙されてきたほかの旦那衆と同じように、紅蘭のうわべの美しさが目的だったのか」
「違う、わたしは」
紅蘭のすべてがほしい、病すら共に背負い込む覚悟だった。なのに助けるどころか、紅蘭は自分の振るった剣のせいで、次第に冷たくなっている。どんな皮肉だ、これは。
「陰陽師にかけられた暗示のせいで、わたしに笑みをくれなかった。わたしに、心を預け切ってくれなかった」
土方はだらりと力なく垂れる紅蘭の右手を握った。
「さて、そいつはどうかな……紅蘭。白露のことは、俺たちに任せろ。河原での生活が長いとはいえ、まだ子どもだ。立ち直る機会はいくらでもある。きっちり躾けて、嫁に出す。いいな」
問いかけもむなしく、すぐに返事はない。聞こえなかったのか、総司と土方が思いはじめたとき、紅蘭はかすかに口を動かした。
「やめろ紅蘭、余計な力を」
「黙ってろ、総司。聞こえねえだろ」
聞こえる。紅蘭の望みが。
「白露は、総司さんの、もとに」
かすかな息の下、紅蘭は総司に白露を託した。一所懸命、目を開こうと瞼に力を入れているようだが、限界が来たらしい。少し照れたほほ笑みを浮かべると、だらりと総司に身を預けてきた。
「紅蘭? 白露なら、心配要らないよ。わたしの娘にすると言った気持ちに、変わりはないよ。紅蘭?」
紅蘭の手を持っていた土方が、突き放すかのように立ち上がった。
「遅いぜ。終わったな」
なんだと。
終わった、だと? 人ごとのようにさらりと言いのけた土方に対し、憎しみが生まれた総司は激しく土方を睨みつけた。
「そう怖い目をするな。総司は気の済むまで、ここに残るがいい。いったん、俺は帰る。河原で新選組の隊士を目立せたくない。騒ぎの整理、という名目で何人か置いてゆく」
「あなたが率いてきたんじゃありませんか。紅蘭の命を返してください。土方さんが勝手に河原へ攻め入らなければ、こんな結末にはならなかった。なぜ、襲撃のことをわたしにはひとことも、知らせてくれなかったのですか」
「お前のためによかれと思って動いたんだが、すべては終わったことだ。それに、最終的に娘を斬ったのは総司、お前だろう。諦めろ」
総司の腕の中にいる紅蘭は、夢のように美しくて。命を散らしたとは思えない存在感だった。ああ、わたしは全身全霊、紅蘭に恋していたんだ。諦められるものか。
「こうらん」
いっそのこと、ここで自分も腹を切って死のうか、総司は思いつめたが、本陣で眠る白露のことを考えると、そうもできなかった。なにより、この身は近藤局長に捧げた。京に上るとき、どんなに悲しいことが起こっても、乗り越えると誓ったのだ。
「紅蘭、こうらん」
ただ、今だけは泣くことを許してほしい。済まなかった、紅蘭。ひとりよがりだったかもしれないが、わたしなりに、ほんとうに愛していたんだ、紅蘭。
美しい、なないろの光が、しばらく総司の体にまとわりついていたが、やがて朝の陽の中に溶けて消えた。紅蘭の魂を、総司は喰らおうとしなかった。
読了ありがとうございました。
次章で最終回です。




