《捌(はち)》前編
不眠を取り戻すかのように、総司は二日間眠り続けた。夢も見なかったが、不意に空腹を覚え、むくりと起き出した。
「食事をください」
紅蘭紅蘭、第一声はそれだと賭けていた土方は、内心苦笑した。
「まずは厠にでも行って来い。その間に用意しておくからよ」
久しぶりに脚を使って歩く。隊士たちは稽古や巡察、そのほか気ままに非番を過ごしているからか、本陣内は静かだ。厠まで往復する間、総司は誰ともすれ違わなかった。新選組の筆頭剣士が、幽鬼のように廊下をふらふらと歩く姿はできれば見られたくないから、ちょうどよい。
土方が手ずから握ったという、大きな握り飯をふたつ平らげると、健康な総司の若い体は正直で、むくむくと生きる欲が膨らんできた。
「あの、わたしの隊務はどうなっていますか」
課された仕事が済んだら、紅蘭のもとに飛んで行きたい。今すぐにでも。わたしの言うことを聞かない生意気な唇を、やわらかく塞いでやりたい。
「当面、出動はなし。敵対する浪士とはいえ、やたらと殺されたら迷惑だからな。新選組は殺人集団ではない、都を守る組織なんだぜ。総司の隊は、全快するまで斎藤に預かってもらう。お前はしばらく道場で、隊士の稽古に専念しろ。外出は、俺と一緒のときのみ、認める」
「ええっ、そんな」
「娘は、家に呼べばいいだろう。この近くで、まあそれなりの小綺麗な家に見当をつけておいたから、あとで行って見ようぜ」
「は、家?」
「晩生のお前さんに任せていると、いつになったら娘を引き取れるか分かったもんじゃねえからな。行動は迅速に行う。兵を動かすのと一緒だ。第一、総司の手もとに自由な金はほとんどないだろう」
あれほど紅蘭に反対していた土方が、総司のために家を? しかも、金のことを知っている? にわかには信じがたい総司だった。
「しかし、紅蘭は朝が来ると、妙な暗示がかかっているせいで、いつも河原に戻ってしまいます。共にいたいと願いつつも正直、同居の自信がありません」
「何度でも試してみろ。熱意で押し倒せ。暗示を破るにはどうしたらいいか、よく考えるんだ。南部先生には相談したか? 体を診せるだけではなく、心の相談もしてみろ。お前が根性を据えて、長い目で見守ってやることだ。一度や二度逃げられたぐらいでくよくよして、なんだ。好きだ好きだ言う割には、そんな程度だったのか。これだから、経験の少ない男は」
冗談めかして笑ったが、土方は総司を気遣っていた。
「まったく、厄介な女に惚れ込んだものだな。今のお前なら、吉原の花魁だって島原の太夫だって、大店の町娘だって、公家のお姫さんですら手に入るのに。あの娘は策士だ。少し打ち合わせただけで、こっちの話に乗ってきやがった。覚えているだろう、娘を使ってお前を神社におびき寄せたときのことだ。頭はいい。切れる。俺が娘に誘われたとか、あることないことをとっさにでっちあげたが、まったく動じないで話を合わせてきた。病じゃなかったら、男だったら、新選組の隊士に欲しい人材だ」
「わたしには、紅蘭との深い縁があったのでしょう。まずは、彼女の病をどうにかしないと」
「夜の相手を強要するなよ」
「わ、分かっています、それぐらい。でも、誘ってくるのは、どちらかというと紅蘭で」
「はいはい、おのろけは終了だ。茶ァ飲んだら、家を見に行くぜ。とっとと着替えて来い」
家は、近藤局長の妾宅のちょうど三軒先にあった。
「小者の泰助がよ、目星をつけておいてくれたんだ。あいつ、途中までは総司に心底同情していたようだな。お前に言われた通り、俺の思惑とは別に、ずっと家を探していたらしい。副長に逆らうとは、小者のくせにいい度胸だぜ」
ここだ、と土方は勝手に門をくぐり、家の中に入って行った。
小さな家だ。総司が泰助に依頼した間取りとほぼ同じ。部屋は三間。ささやかな中庭に陽が差し込んでいて、意外と部屋の中は明るい。
「中はお前の希望通りらしいが、狭すぎやしないか。新選組きっての使い手のくせに、襲撃でもされたら」
「だいじょうぶですよ。むしろ狭いほうが理想です。刺客は、いっぺんに飛びかかって来られませんし。一対一なら、紅蘭や白露を守りながらでも、負けませんよ」
「ならば、いいが」
「年長の土方さんよりも先に、家族を作ることになってしまい、申し訳ありませんが」
「気にするな。俺は、俺だ。それより、俺なりに娘の正体を考えてみたんだが、聞いてくれるか。本陣では口にしづらい筋の話だ」
やや畏まった土方の姿勢に、総司は緊張を走らせた。
総司が静かに頷いたのを見てから、土方は低くよく通る声で話をはじめた。
「妹っていう子ども……白露、とか言ったな。あれは、紅蘭の子じゃねえのか。父親は、胡散臭い陰陽師」
土方は真顔だった。
「白露が? まさか」
「だがな、総司や泰助の話を照らし合わせて考えるに、俺の頭はそこに辿り着いた」
とんでもない暴論を聞かされて、ふだんの総司には珍しく怒りをあらわにした。
「土方さんの当て推量でしょう。白露が紅蘭の子どもなんて、あるものか」
「確証はない。俺は、白露という子を見たことがないからな。だが、よく似ているんだろ」
「それは、姉妹ですから」
「母子、じゃねえのか。だから紅蘭は、河原を離れられない。陰陽師への愛はなくても、子の父親なら多少の情はあるんだろう。紅蘭が働けば、白露は守れる。だが、白露が売られることになって、急いで太い金蔓が必要となった。それが、お前だった」
土方のかざしている論理だと、白露を救えた今、蔓は要らなくなったことになる。
「いや、紅蘭は十七。白露が八つだとしても、まったく歳が合いません。無理です」
「ほんとうの歳は、定かではないだろう。あの娘、見た目は幼い少女じゃないか。十七にすら見えない、年齢不詳だ。病にかかったときにはもう、河原の陰陽師と一緒だったんだろ。産後の肥立ちが悪くて労咳になった、という推測はどうだ」
「あなたはどうしても、白露を紅蘭の子に仕立てたいようですね。紅蘭は、生娘でしたよ」
「そう考えるのが自然だ」
土方は腕を組んで、総司を真正面から見据えている。いったいどこから、自信があふれてくるのだろうか。羨ましくもある。
「……こういうのはどうですか。ごく普通の家から攫われた紅蘭は、仕事を強いられた挙げ句、病にかかった。働けなくなる前に、自分に似た白露をどこかから連れてきた。自分の身代わりに立てるために」
「よく似ている人間なんて、そうはいないぜ。紅蘭と白露には血縁がある。これは動かせない。ただ、総司の論なら、紅蘭は自分のほんとうの家か、近い親戚を知っていることになる。白露はそこの家からわざわざ連れてきた。娘は、白露がひどい仕打ちを受けることを知っていて、攫ってきたというのか。破綻しているな。まあ、泰助に紅蘭の出自を調べさせているから、次第になにか分かってくるかもしれないが」
言い争いになると、土方には勝てない。総司は奥歯を強く噛んで耐えた。ため息をついて諦めた。もともと、ものごとを深く考えるのは不得手だ。
「ここで話していても、埒が明きませんね。家の下見はもう結構ですから、河原に行って紅蘭に直接訊いてみましょう」
「おう、もっともだ。だが、総司は残れ。倒れたばかりだ」
土方は自分のほかに、島田など見た目もいかつい屈強の隊士を数人用意し、夜の河原に乗り込んだ。陰陽師の父母はもちろん、紅蘭も抵抗したらしいが、隊士の力に及ぶべくもない。新設された小屋は再び毀され、紅蘭と白露は総司の家へと運ばれた。
姉妹を引き取ったあと、土方は紅蘭をすぐに尋問するのかと総司は内心はらはらしていたが、土方は至って温厚だった。
「しばらくは家にいろ。稽古は昼から出ればいい。娘は医者にしっかり診せること。総司は出かけて家を留守にするときは、近藤さんのところのおこうさんに声をかける。姉妹が家に慣れるまでは、おこうさんが預かってくれるから。お前がぐうたらおねんねしていたとき、近藤さんには了解を得てある。だが、くれぐれも病をうつされるなよ。いいな」
「は、はい。ありがとうございます」
こんなにやさしく取り扱われては、素直に頭を下げるしかない。もっとも、少し見下され過ぎている気もしたが総司は黙った。紅蘭の出自は、いずれゆっくりと聞けばいい。今は、傍にいたい。
最初は戸惑っていた紅蘭姉妹も、総司の誠意にようやく心を開いたようだった。紅蘭は病とはいえ、総司の世話をしたがったし、幼い白露も気を遣って、近藤の訪れがない夜には三軒向こうの家に泊まりに行った。実は近藤、最近いい人が増えて、醒ヶ井の家にはあまり帰らないらしい。妾どうしの争いも熾烈だ。
「わたしの思いが、ようやく通じたみたいですね」
紅蘭の細い指が総司のそれに絡まる。
南部医師にも尋ねてみたが、やはり紅蘭は河原の陰陽師に暗示をかけられて、心を操作されているらしい。陰陽道の術なのか、そのあたりの詳しいことは分からないが、呪縛が解けるまで根気よくじっと見守るしかない。紅蘭が心を開けるように、総司は気長に寄り添っていたいと思った。
病状のほうは、よくない。むしろ、悪い。養生はしない、薬も飲まない、仕事はきつい。悪化しなかったほうが不思議だろう。総司も思わず頷いてしまった。
「総司はんには、白露を。と何遍も言ったのに」
「白露では幼過ぎる」
「あの子でも、総司はんの相手は充分できますよ」
「白露はわたしの養女にして、嫁がせます。紅蘭、あなたは近藤さんが身元を引き受けてくださる予定です。紅蘭では仰々しいね。近藤こう、では語呂もよくないし、おこうさんとかぶってしまう。らん、はどうですか。おらん、お蘭。華やかで、あなたに似合いですね」
『らん』では、『乱れ』に通じるかもしれないという不安もよぎったが、ひらめきを大切にしないと。と、猜疑心をつっぱねた。
「私は、河原の娘。陰陽師の憑坐。お武家はんの養女だなんて、無理です。それに、あんな立派なお侍はんの子、なんて」
「あの河原で生まれたわけではないだろう。もとはれっきとした家柄の出。そうだろう」
偶然、会話の流れが紅蘭の過去に傾いた。聞き苦しいが、はっきりさせておくのも将来の紅蘭のためだ。だが、紅蘭は話を冷ややかにはぐらかす。
「覚えてない。小さいときの話なんて」
「白露と一緒に攫われたのかい」
「分からない。気がついたら、白露がいた。顔がよく似ているし、陰陽師の父母がこれはお前の妹だと言うから、それを信じた」
「同じ家から、別々に攫われてきたのかい」
「……さあ。でも、お金に困って娘を売るなんて話、京にもよくあるから、私も白露も売られたのかも」
身の上話を続けるうちに、紅蘭の頬が青白くなっていった。心残りだが、これ以上話を続けるのは止めよう。『白露は妹ではなく、きみが生んだ子か』などと、聞ける様子ではない。土方ならば、もっと上手な聞き出しかたを知っているのかもしれないが、総司には手管不足だ。紅蘭を苦しめたくない。
総司は話を切り上げ、紅蘭と蒲団に入った。頭を撫でてやる。封印されている紅蘭の笑顔は一度も見たことがないけれど、焦らない。今はただ、わたしの胸で休んでくれれば。たまに総司を誘うような仕草をするから、総司はそれを止めるように制した。
「体に響く」
「いや。こうしていたいの」
「ここは河原じゃない。わたしに媚びなくてもいいのだよ。もうだいじょうぶなんだ」
「不安なの。つながりたいの、総司はん。お願い」
これだけ求められて、棄てておけるほど悟りは開いていない。罪悪感にまみれながらも、総司は紅蘭の体に跨がった。痩せているのに、なんと艶かしい体をしているのか。裸にされることを少しも厭わず、衣の下の若い肌は輝いている。これだけ男に馴れているんだ。やはり、生娘ではなかったんだな。口惜しく、憎らしい。総司の欲情が、強く沸き上がった。
心地よい疲労に包まれて総司は少し、寝ていた。ふと眠りから覚めてみれば、胸に抱いていた紅蘭がいない。隣の部屋から、いやな咳が聞こえる。
「紅蘭っ」
やはり、紅蘭は喀血していた。手拭いを鮮血で染め、涙で潤んだ目をこちらに向けてきた。
「申し訳ありません、起こしてしまって」
「構わないさ。それより、だいじょうぶかい」
「はい。だいぶ」
紅蘭は強がるが、良くなったようには、まったく見えない。日に日に食は細ってやせ衰え、衰弱してゆくばかりだ。
「貸して」
総司は紅蘭が持っていた手拭いを取り上げ、血にまみれた顎や首筋の血を丁寧に拭った。「もったいないことを、総司はんが」
どうってことないさ、総司は言い返そうとしたが、内心では紅蘭の血に怯えている。
『血だ。女の血だ。喉に手を突っ込んで、魂を抜き取れ』
あいつの声だ。血に触れた物の怪が踊り狂っている。
「あの物の怪の声が聞こえます、総司はん」
「いい、構うな。わたしはだいじょうぶです。蒲団に戻りなさい。庭で頭を冷やすよ。竹刀でも振ってくるから」
「だめです。こう見えても、私は陰陽師の憑坐。視えます。総司さんの肩に乗る、黒いあれが視えます。物の怪に飲み込まれた、人の顔? もとは、人だった……?」
「視るな、視ないでくれ。ただの物の怪だ。京に棲みつく魑魅魍魎だっ」
『否定するな。俺は、新選組筆頭局長、芹沢鴨。こいつに、斬られたんだ』
「芹沢さん、やめてください! 違う、これは物の怪。芹沢さんなんかじゃない」
『ぐひひひ。美しい娘が目を瞠っているぞ。三年前の、秋の雨夜、騙し討ちされた俺は死ぬ間際、こいつに愛刀を譲った。俺にかけられた呪いごとな』
「闇斬丸は、妖刀。芹沢さんは、死に人だ」
総司はうろたえた。
「焼くのです、刀を。火をつけて、呪いごと。火には浄化の力もあります」
託宣を言い放つ巫女のように、紅蘭は凛々しかった。
闇斬丸は、いい刀だ。総司の小遣いや、給金程度ではとても買えない。たぶん、城ひとつぶんほどの価値があるだろう。だから、瀕死の芹沢に譲渡を持ちかけられて、断れなかった。形見を持つのも、せめてもの弔いになるだろうと思った。
総司にだって、素晴らしい刀が持ちたいという欲があった。近藤は虎徹、土方には兼定がある。事実、闇斬丸を佩いた総司の活躍は目覚しかった。闇斬丸が騒擾を生み、人の魂を欲していると気がつくまでは。
総司は庭に出て、火を熾した。焚き火の中に、総司は闇斬丸を、ぽいと無造作にくべた。
縁側に立っている紅蘭は、火に向かって咒を唱えている。
煙がまっすぐと立ち上る。風がない。次第に、肉が焼けるようないやな匂いがしてきた。総司は、鼻をおさえながら薄荷を噛んだ。
「熱い。熱い!」
火から離れているのに、体が焼けるようにひりひりと熱い。事実、総司は焼けていた。
「消してくれ、火を。紅蘭、だめだこれ以上……ううっ」
急いで袖をまくると、総司の腕にはつい今しがたついた火傷の跡が、じわじわと広がってきている。裸足のまま総司に駆け寄った紅蘭は、焚き火に水をかけた。闇斬丸は柄が少し焼けただけで、刀身は無傷だった。
すべて、遅かった。
総司は、すでに刀と一体化してしまっていた。闇斬丸が消えるときは、総司も終わるときなのだ。
「いいよ。受け容れるしかないみたいだね。紅蘭、ありがとう」
「力になれるようなことを言っておいて、なにもできないなんて。総司はん、かんにん」
「夜風が体に障るといけない。部屋に戻ろう。火傷の手当てもしたいし」
せめてものなぐさめにと、紅蘭は総司に体を投げ出した。総司は拒否したが、紅蘭の魅力には勝てなかった。
こんな調子で交わっていたら、意外と早くに子ができてしまうかもしれない。だが、今の紅蘭の体力では、出産などという大仕事にはきっと耐えられない。なるべく穏やかに過ごさねば。反省した総司は、気晴らしの目を外に向けた。
「そろそろ、紅蘭も新しい生活に馴染んできたようですし、隊務に戻らせてください。わたしひとりだけ特別扱いでは、肩身が狭いですよ」
総司は近藤に相談した。なにせ自分自身、昼間の短い稽古時間だけでは、心と体に引っかかったもやもやを発散できない。稽古と隊務をこなせば早々に疲れて、夜も紅蘭に挑まずに寝られるかもしれない。
「そうだな。おこうも、姉妹を見てくれているし、実のところ、我々も総司には復帰してもらいたいのだ」
伊東甲子太郎一派の動きがいよいよ不穏なのだという。志を同じくする者として入隊を勧めたのだが、伊東の思惑は新選組の外にあるらしい。盛んに薩長や土佐などの危険な分子と交流を深めている。これを、見張りたい。近藤ははっきりと言った。
「ここだけの話だ」
とある人物を伊東の傍に送り込む予定だから、総司には本来の新選組を支えてほしい、と。『とある人物』が誰かは最後まで教えてくれなかった。
「そのうち、お前にも分かる。絶対に、知っている顔をするなよ。まあ、ごく普通にしていればいい」
近藤は意味ありげに笑った。総司が企みを知ったところで、頭脳的な役には立たないことは自分でもよく分かっている。力が必要になったときは、局長か副長の声がかかるだろう。それを待てばいい。紅蘭と隊務、このふたつでおそらく総司は多忙になるはずだから、これ以上面倒な秘密をかかえたくはない、と頷いた。
毎週水曜更新予定です。8章も長いので、3分割して連載します。




