《碌(ろく)》後編
困ったのは、健の扱いだ。
老舗香堂の跡取りを、胡散くさい小屋に置いておくわけにはいかない。しかも、白露にいかがわしいことをしていたのか、されていたのか、問い質さなければならない。
紅蘭に未練があったが、総司は小屋が見えない場所まで待避した。健を小脇にかかえていた泰助が言う。
「こいつ、さっきから腹の虫がぐるぐる鳴いとります」
「腹の?」
時計を見れば、午をやや過ぎたころ。三人は、大きく『めし』と描かれている飯屋の暖簾をくぐった。昼餉時なので、席はほとんど埋まっていた。奥の小上がりに案内されたあと、適当に泰助が注文する。
「好きなだけ食べなさい」
総司に言われたものの、健は父親の件を引きずっているようで、膳がきてもなかなか箸に手を伸ばそうとしない。
総司は健に構わず食べる。紅蘭失踪の騒ぎで、朝餉を食べ損なっていたのだ。
泰助も、手酌で呑みはじめている。
美味しそうな食べ物の香りと湯気が、空腹の健の鼻を右から左から、痛いほどに刺激する。目からも手が出そうな勢いだった。健は膳から顔を逸らして抗ったが、食欲にはとうとう勝てなかった。
「いただきます」
躾がいい健はきちんと、しかしぼそぼそと小さな声で断りを入れたかと思ったら、焼き魚と煮物で、一気にご飯を茶碗三杯平らげた。さらに、香の物でもう一杯。見事な食べっぷりに総司は感心した。
この空腹さには異様なものがあるが、総司にも遠い子ども時代に、ひもじいことが多々あったことをうっすらと思い出した。江戸の近藤道場にいたころは居候の身。いつも遠慮していた。育ち盛りだったのに、煮干しを齧って我慢していた。そのせいか、背はひょろりと伸びたものの、身に肉がつかなかった。
「しばらく、なにも食べていなかったみたいだね。二日? いや、三日ぐらいかな」
「二日や」
健は総司の問いに素直に答えた。
腹が満たされたので、余裕が出てきたのか、観念したのか、昼飯でうっかり買収された気分なのか。
「母親のお里は、この近くなのかい」
「ふん。家出したんや。河原で起きたことを、誰も教えてくれへん。どうしてお父がああなったんか、みんなだんまりなんや。悔しくて」
「それで、調べてみようと、飛び出したんか。物騒な場所に、無謀な奴やな」
「河原には出たが、なんも分からんかった。今朝、白露と言わはる、さっきのかわいらしい子に逢うて、その、誘われて、小屋に入って」
「坊主のくせに、白露の幼い色香に迷ったんか。この、ませ餓鬼め」
「違う。小屋の中から、うちで扱うとる香が聞こえたんや。うちの鼻はよく利くで。これは絶対間違うてない。お父に繋がる手がかりがあるのかと、垣間見たんや。そしたら」
健は箸を止めて、顔を真っ赤にさせた。
「白露は、健になにをしたの。説明できるかい」
「……着物を脱がされて、そんで、白い手が、うちの体を触ってきて、なにやら気持ちようて……あとのことは、よう覚えとらん」
父親は姉に、息子は妹に、それぞれ惑わされたようだ。
「白露とは、今日初めて逢ったんだね」
うん、と頷いてから、健は五杯目を湯漬けにした。
「健は母親のところに帰りなさい。泰助、わたしはもう一度小屋に戻って、紅蘭を説得するから、健を送り届けてくれ」
「沖田はん、真正面からぶつかっても、無駄やおへんか。白露はともかく、紅蘭には強い暗示がかけられているように思いますけど」
泰助は不思議なことを言った。
「暗示?」
「へえ。紅蘭も、もとを正せば普通の娘。せやけど、なにがあっても河原の陰陽師のところに帰れ、と。術や咒、と言うてもよろしい。相手は、腐っても陰陽師や」
「なるほど」
暗示、か。自分にかけられた、闇斬丸の呪いのようなものか。
泰助の推測が正しければ、紅蘭だけを説得しても駄目だ。先に、陰陽師と姉妹の母親を片づけなければならない。夫婦の顔を思い浮かべながら、一癖どころか、二癖も三癖もありそうで、総司はうんざりした。
「せっかく今日は、夕刻の巡察まで身が空いているんだ。悪あがきでもするよ」
健の母親は、四条河原町近くの実家にいるそうだ。実家は、旅籠を営んでいるらしい。健の折り目正しさや、母は老舗の香堂に嫁入りしているあたりから推測するに、きちんとした家だろう。
「じゃあ、またね健。近いうち、必ず会いに行くから、くれぐれも河原には近づかないでおくれよ。あの小屋には鬼が棲んでいる。きみは、香堂の跡取りなんだから、迷ってはいけない」
飯屋を出ると、三人は二手に岐れた。
自分で言っておきながら、なのだが、確かにあの小屋には鬼が潜んでいる。しかも複数。人間の形をした化け物に、総司の剣は使えない。
さあ、どうする。
道を戻りながら考えた。
自分の代わりに白露をもらってくれないか、と紅蘭は提案していなかったか。
どういうつもりなんだ。
自然と、総司の脚が早まる。
早熟そうだが、白露では紅蘭の代わりにはなれない。いくら姿形が似ているからって、乗り替えることなどできるものか。白露は、わたしが父親代わりになって、将来はしかるべき家に嫁に出すと、もう決めている。わたしが二十六、白露が八つ。無理な組み合わせではない。そこまで誠意を話せば頑なな紅蘭も、心を動かすに違いないのだ。紅蘭の笑顔が見たい。嬉し涙が見たい。
「娘には会わせないよ。というか、娘が会いたくないと、はっきり言ってるからね。無理強いは困るんだよ、まったく。紅蘭の生娘を奪って、あれの旦那にでもなったつもりだろうが、私ら流れ者は上から指図されるのが、いちばん嫌いなのさ」
対応に出てきたのは、紅蘭の母親だった。少し見ないうちに、また太ったのではないか。動作がすこぶる緩慢だ。
「冗談じゃない。わたしは、紅蘭と白露のためを思って」
「それが傲りなのさ。そっちはよかれと思っていても、こっちにはありがた迷惑。あやふやな文字をひとつ覚えるより、男が喜ぶ踊りを身につけたほうが、よっぽど食っていける。それよりあんた、白露を買い戻したんだってね。紅蘭の歓心を買おうっていう魂胆かい。田舎侍の成金め。見え透いていて、浅ましいね。余計なことをしないでほしいよ。うちではまた、白露を食べさせなきゃいけなくなる。あの子は育ち盛りに入ってきたから、よく食べて困ってるんだ」
容赦なかった。だが、総司も怯まない。
「紅蘭が若いうちはまだいい。男に媚びて商売もできるだろう。だが、年老いたときはどうすればいい? 死を待つだけか」
母は不敵に笑った。一瞬、物の怪の嘲笑する声が総司の頭をよぎった。
「攫うのさ。若い娘を。そして、自分の体に刻んだすべての記憶を、攫ってきた娘に流し込むのさ。河原者はそうやって、地を這って生きるしかない」
紅蘭姉妹と母親の、似ていない理由がよく解った。総司は、鬼女の面を被った化け物と対峙しているような錯覚に陥る。
「河原に堕ちた者はいつまでも河原者、ということか。他人の人生をなんだと思っているんだ。莫迦にしている」
「くどい。紅蘭も白露も、大それた夢や高望みは持っていない。自分の定めに従って生きている。横から変なことを吹き込まないでくれないか」
「いや、違う! 暗示だ。ふたりが河原から逃げないように、おかしな暗示をかけているだろう」
「証拠はない」
「自白させてやる。本陣まで、来なさい」
新選組の本陣には、いろいろと用意がある。いささか任務の範疇を越えるが、無垢な娘を攫って商売に利用していた罪で、断罪できないだろうか。不逞の浪士と組んでなにか企んでいたとなれば、すぐにも連れ出せるのに、そんな気配はない。総司は地団駄を踏んだ。
けれど『新選組』の名は利いたようで、陰陽師の妻は幾分怯えていた。紅蘭という切り札があるものの、ふらふらと目が泳いでいる。
「紅蘭は、偽の宣託で旦那衆から多額の金を巻き上げた。白露は、町の少年を誑かしていた。市中を騒がせた罪に当たる。姉妹は若い。罪を問われるのは、その親たちだろうね」
手のひらの汗を握り締めながら、総司は低い声でゆっくりとことばを連ねたが、小屋の奥から紅蘭が出てきた。相変わらず、抱きつきたくなるほど美しい。
「それは無理でしょう」
その可憐な唇からは総司の意に反して、総司を非難する声が漏れた。
「私たちは、日々の生計を立てているだけ。沖田はんだって、毎日のように人を斬って、お金をいただいているのでしょう。私たち、人を騙すけれど、殺しはしないわ。『悪』というなら、むしろそちらのお仕事ではなくて」
ここは私が、という風に紅蘭は母親の肩をやさしく叩いた。総司よりも、母をかばうとは。
「ごめんなさい、沖田はん。私にはこの暮らししかないの。私のことを少しでも思ってくださるのなら、どうか白露を連れていって。あの子は、身を清算してくれたあなたに恩義を感じている」
「やめてくれ。紅蘭、言っていることの意味が分からない。きみは攫われて、河原に連れて来られたんだよ。その綺麗な顔のことだ、以前はきっと、いい家柄の娘さんだったに違いない」
「知らない昔のことは、どうでもいい。白露を」
どんなに心を込めて説得しても、紅蘭は首を横に振るばかり。
やがて空は夕暮れを告げる。巡察の時間になる。今日という今日は、しっかり隊務をこなさねばならない。しかし、この紅蘭の様子では、今夜にでも客を集めて、あのいかがわしい踊りを再開するだろう。総司は苛立った。
どうすれば、紅蘭の暗示が解けるだろうか。普通の娘に戻してやりたい。河原に連れて来られる以前の、ありふれた娘に。
悔いてもはじまらないが、これが、物の怪に取り憑かれて多くの命を奪ってきた報いなのか。天罰だ。総司は愕然とした。悲しいが、自分ひとりの知恵と力ではどうすることもできなかった。
総司には、あわれな紅蘭を思い切り抱き締めることしかできない。
「きみを守るのは、わたしだ。一緒になろう。病でも構わない」
紅蘭は棒立ちするだけで、総司には抗いもしないが、これといって応えもしない。まさに、人形のようだった。




