《碌(ろく)》前編
「なんだって、いなくなっただと」
報告しづらい情けない事実だった。しかし、便宜を図ってくれた近藤になにも言わないわけにはいかない。
総司は紅蘭に乞われるがまま、体を合わせたあと深い眠りに襲われ、その後のことはさっぱり覚えていなかった。なにか、爽やかな香りを胸いっぱいに嗅いだような気はするけれど、定かではない。
「昨晩はあのあと、本陣で歳と呑みながら話していたんだが、俺の養女にすればいいと、歳に指摘されてな。そうか、その手があったか、と浮かれていたんだが」
紅蘭のことを大反対していた土方も、そこまで考えてくれたのか、と総司は頭の下がる想いだった。
「いなくなっただって、あの娘のやつ」
話し合いに土方も乱入し、話を引っ掻き回した。
「まったく、新選組一の使い手・沖田総司に囲われて、なんの不満があるんだっての。もう諦めろ、目を醒ませ。あの娘とお前はしょせん、現世ではつながっていなかっただけのことさ」
総司は否定した。
「いいえ。わたしには、紅蘭を守るべき義務があります。紅蘭は重い病です。彼女を守れるのは、わたししかいない」
よくよく調べてみると、見世からは白露もいなくなっていることが判明した。自由の身になった白露を、紅蘭が早朝に連れ出したものらしい。
「やられたな。金と妹だけ引き出されて、あとは消えた」
この際、総司にとって金は問題ではない。労咳の喀血は起きていないだろうか。それに、白露は。
「許さねえぜ、あの娘。総司の気持ちをへし折りやがって」
もっともいきり立っていたのは、土方だった。なぜか、被害の当事者の総司がなだめる役に回る。
「まあまあ。どうせ、親と隠れていた北白川か、もとの河原でしょう。行き先は知れていますから」
「泰助を使っていいぞ。あいつは鼻が効く。娘を取っ捕まえて、存分に灸を据えろ」
「紅蘭は労咳ですよ、土方さん」
「うるせえ。新選組を、総司を蔑ろにしたやつには、きつい仕置きを。俺が行ってやってもいいんだが、生憎とこれから所用があってな」
「総司。お前の隊は、夕方の巡察だ。それまでには戻ってこい」
近藤が目配せをした。
「はいっ」
私用ばかりで動き回ってしまって申し訳ないと思いつつも、総司は近藤と土方に手を合わせて拝む真似をして、部屋を後にした。
総司には直感がある。紅蘭が逃げた先はおそらく、河原だろう。途中、泰助の隠れ家に寄り、寝ていたこれを叩き起こして鴨川に向かう。総司と同じく、泰助も働きづめのはずだが許さない。
「人遣い、荒かったんどすな。沖田はん」
「恋ゆえだ」
堂々と総司が答えると、泰助はふて腐れたように俯いて歩いた。今日は暖かい春の陽気を通り越し、まるで初夏のように暑い。額に流れる汗を拭きながら、総司は河原を目指す。
「昨晩は、白露が囚われていた見世に、きちんと金を届けたんだろうね」
「そりゃもう。暗いし、重くてよう運べんので、隊士の方にも手伝ってもろうて。ほら、白露はんの証文は預こうてます」
泰助が懐から出した文にざっと目を通す、総司。
年季は十年とあるが、白露はまだ十にも満たない少女。まずは、ただで下働きをさせられただろう。そのあとに禿として見習いに入って修行を積み、やがて売出し前の新造となる。白露は紅蘭に似て器量がいいから、ほかの娘よりはいくらか大切にされるだろう。しかし、客を取れるようになってから年季を数えても、自由の身になれるのは短く見積もって二十年。気が遠くなるような先の話だ。
総司は証文をびりびりと破いては、ふっと息で吹き飛ばしつつ、道端に捨てた。この紙切れ一枚が、三百両の価値なんて呆れる。自分の姉が聞いたら、なんと言うだろうか。
以前、紅蘭がいかがわしい宣託の手伝いをしていた小屋は毀されたままだが、そのすぐ隣に新しい菰で包まれた小屋があった。ふたりはぎくりとして脚を止める。中からは、甘いような、痺れるような、妙な香りが漏れていた。
「あやしいな」
「へえ」
河原の陰陽師は、催淫効果のある香を使い、紅蘭を踊らせて客を惹きつけていた。総司の脳裏に予感が走る。姉妹がこんな場所にいて、幸せになれるはずがない。
用心のために、総司は刀に手をかけた。泰助を先鋒にさせて小屋に声をかける。
「ごめんやす。ここに住んどるのは、どちらさんでっしゃろか」
中には複数の人の蠢く気配がした。思わず身構えたが、出てきたのは子どもだった。はじめは、小屋の内部が薄暗くてよく分からなかったが、次第に目が慣れてくると、これは総司がよく知っている子どもだということが明らかになった。
「や。健か」
総司の目の前には、本陣向かいにある香堂の健少年が立っていた。いかにも、たった今着物を着ましたというような、めちゃくちゃな帯の回し方だ。
「お、おっちゃんか。新選組の、沖田なのか」
「どうしてこんなところに。ここは、健のような坊ちゃんが出入りするような場所ではないぞ」
「せやけど」
健の息からは、清々しい薄荷の香りがする。なんとも、この場には不似合いなほど、さわやかな香り。まさか。身震いがする、と思ったら健の背後からもうひとり、少女が出てきた。うしろから、健の肩に手を乗せている。
「……白露か」
これまでに、妹の白露とは話らしい話をしたことがなかった。総司は戸惑った。
「沖田はんか。その節は、ありがとさんどした」
「どうやって、ここまで来た? ここが、新しい隠れ家なのかい? 健とは、どこで知り合った? 紅蘭はいるのか?」
白露は妖艶に、ほほ笑んだ。この齢にして、すでにぞくぞくするような色香を秘めている。白露も、己が秘めている魔力をよく知っている様子だ。口元からこぼれる媚びに、総司はたじろいだ。
「そんなん、一気に訊かれても。せっかちやなあ、沖田はんは。そうや。沖田はんにも、ええことしてあげまひょ、さ、奥へ。話はゆっくりと、ね」
じっとりと汗ばんであたたかい白露の幼い手のひらに、総司は引き込まれた。いけない。この姉妹は、こういう生き方しか知らないのだ。怒ってはならない、決して。むしろ、悲しむべきなのだ。
「いや、わたしには紅蘭しかいない。紅蘭を裏切るようなことできない」
総司は高らかに宣言した。
「真に私のことを思うなら、私の代わりに白露を囲ってやってください、沖田はん」
小屋のずっと奥から這い出てきたのは、紅蘭だった。
「紅蘭、なにを」
「この子は、私と顔は似ているけれど、体は違う。健康で、若いわ。私は河原から出られない」
「どうしてそんなことを言うのか、あっ」
総司と紅蘭が押し問答をしているうちに、健が逃げようとした。
「おっと、坊主。そうはいきまへんで。お前は証人や」
待っていましたとばかりに、泰助が健をつかまえて横抱きにする。手足をばたばたさせるものの、健はそれ以上、身動きが取れなくなった。
「とにかく、詳しい話は余所で聞こうか。紅蘭」
「いや。沖田はんには、白露をあげるから。私はここに残る」
「『沖田はん』じゃない。呼び名は『総司』だと言っただろう。何度言ったら分かる」
「かんにん、沖田はん。腰の刀、早く焼いてくださいね」
「紅蘭!」
なにが足りないのか。なにが不満なのか。本来、賢い性質のはずなのに、紅蘭は小屋から動かなかった。この様子では、何度力ずくで奪っても、またここに戻ってきてしまうだろう。総司は気力が萎えてしまった。まずは、健をどうにかしなければならない。夕方までは非番とはいえ、少年を守るのも、隊務のひとつだろう。
総司はじっと紅蘭を見据えたまま、完敗気分を味わった。
「また来る」
紅蘭も、唇を噛んだまま総司から目を逸らさなかった。重さに耐え切れず、先に視線を外したのは、総司だった。




