《悟(ご)》後編
「簡単に引っかかったな。総司。男として、少々軽過ぎるぜ」
聞き慣れた声。やがてその姿が光の中から現れる。
「ひ、じかた、さん」
「悪いが、お前はずっと俺の手のひらの中で、くるくると踊っていただけだ」
驚いて、総司は紅蘭を見る。美しい顔には揺れもない。冷ややかな視線は夜の空を漂っていた。
「騙したのか、紅蘭」
総司は責める口調で訊いたが、紅蘭は答えない。
「いや、その娘は俺に協力しただけだ」
自分の体から、血の気が引いてゆく。
「沖田はん、すんまへん」
口には謝罪のことばを浮かべているが、反省しているような素振りではない。
土方の背後から、ひょいと泰助が出てきた。
「泰助、か」
「へへ、土方の旦那に逆らうことはできまへんかった。ほんまにすんまへんなあ、沖田はんの純情を踏みにじってしもうて」
なんだって。泰助が、裏切ったのか。いささか頼りないが、わたしの心に打たれて手足になってくれたと信じていた泰助が。甘かった、のか。
「育ちはあれだが、話の分かるいい娘だな。見映えもいいし、なかなかの玉だ」
下卑た言い方をされて、総司はむかっとした。
「紅蘭は、わたしが見つけて女にしたんだ。蔑むのはやめてください」
「相当な惚れようだな。だが、総司が恋焦がれるほど、娘はお前に惚れていないから、実に悲しいなあ。体は重なったかもしれねえが、心はちっとも交わってねえんだからよ」
触れられたくない部分を、無遠慮に指摘されてしまった。総司は、ぎりりと胸を抉り取られたような痛みを覚えた。踏み込んでほしくなかったのに。
「それ以上言ったら、いくら土方さんでも容赦しませんよ」
「おうよ、望むところだ。この娘はな、陰陽師の親と北白川に隠れていたのを監察が取っ捕まえたんだが、俺の前に出ると、あっさり俺を誘惑してきたんだぜ」
総司はかかえていた紅蘭を放しそうになった。その手口は、総司のときとまったく一緒ではないか。
「嘘だろう、紅蘭?」
紅蘭は答えずに、土方が続ける。
「あの日はあいにく、冷たい雨が降っていた。それと、総司の女じゃなかったら、俺も乗っかるところだったな。都広しといえど、これだけの美形にはめったに会えないぜ。お前の思っているような純粋無垢な娘とは、程遠いよ。総司が初めてなんてわけない。そう思わせるように、なにか細工していたんだ。お前は騙されている」
「嘘だ! 紅蘭を嘘で穢さないでください。さ、行こう紅蘭」
「行かせねえよ。今回の罠は、娘もぐるだ。家を用意してあるって話も、泰助のでっち上げだ。総司についていく気はさらさらないらしいぜ、なあ娘」
悲しい目で、総司は紅蘭を見た。
黙ったままの紅蘭に、変わった様子はない。青白く映る頬が灯りに照らされて、思わず眩暈しそうなぐらいに光っている。
「かんにん、沖田はん。短い命だもの、どう使おうと勝手にしておいて……っつ」
紅蘭は自分の細い腕を口許に持っていったのと、ほぼ同時に咳き込み、したたかに鮮血を吐いた。叫ぶように声を発したのがいけなかったらしい。喉から迸った生暖かい血が、総司の袖や胸も汚したから、土方と泰助は思わず後退りした。
「労咳か。よりによって」
「こりゃひどい」
総司は構わずに紅蘭の背をさすり、喀血に苦しむ紅蘭を宥めた。息が荒い。このまま儚くなってしまうのではないかと、総司は手のひらに脂汗を浮かべた。引き離される。すべては終わったのか。総司は天の闇を仰いだ。
『ぐひひひ』
物の怪が笑っている。
『もっと血を流せ。魂を喰わせろ』
腰の闇斬丸が物の怪に共鳴して、かたかた震えている。抜けと、突けと。冗談じゃない。総司は必死に抗った。
やめろ。散れ。
『そこに屈んでいる、死にそうな若い女の魂を喰わせろ。俺さまの寿命が、千年は延びるだろう』
ずっと闇に沈んでいた物の怪の顔が、初めてはっきりと見えた。知っている顔だ。総司がもっとも思い出したくない顔だった。総司が殺した芹沢鴨のそれだった。すうっと、全身の血の気が引いた。総司の体は硬直するが、腕だけは勝手に刀に伸びようとしている。
「歳。総司をいじめるのは、それぐらいにしておけよ」
もうひとつ、提灯が増えた。総司が目を凝らすと、鳥居をくぐってきたのは、近藤だった。近藤の声に、芹沢の顔をした物の怪は悔しそうに口を歪めて霧散した。
「総司の選んだ女だろう。放っておけ」
「しかし近藤さん、この娘は総司にふさわしくない。河原で体を商売にしてきた女だぜ。しかも労咳とくりゃあ、即刻斬り捨てるべきだ」
「紅蘭は、体を売っていません。憑坐を務めていただけです」
「いかさま陰陽師の、な。ほとんど同じことだ」
問い詰めるかのような厳しい目で、土方は総司を睨んだ。
近藤は総司の肩に手を置いた。懐から新しい手拭いを取り出して総司に渡した。
「娘さんを紹介してくれ、総司。どうだ、喋れるか」
予想もしないことばをかけられて、総司は近藤の顔を覗き込んだ。近藤は、紅蘭を知りたいと言っている。反対されるだろうと思っていたのに。
「は、はい。紅蘭、新選組局長の、近藤勇さんだ」
「そんな堅苦しい肩書きを並べるのは、やめてくれ。私は近藤勇、総司の兄……親代わりといったほうがいいかな。剣の師でもある」
紅蘭は近藤の手拭いで唇の血を拭くと、ゆっくりと頷いた。どうやら少し気分が落ち着いたらしい。咳き込んで涙を流した目で、まっすぐに近藤を見る。失礼に当たるのではないかと、総司が心配したほどに。
「紅蘭です。陰陽師である、父の手伝いをしています」
「そうか。いい目をしているな」
そう言って、近藤は紅蘭の頭をふわりと撫でた。子どもをあやすようなやさしい仕草。幼いころの総司も大好きだった、大きな手のぬくもりを紅蘭が今、手にしている。
「近藤さん、病が」
病の紅蘭に触れた近藤の身を案じ、土方が口を挟んだ。
「いい。歳は黙っていろ。紅蘭さん、ずいぶん苦労してきたんだな。これからは総司がきみを守る。紅蘭さん、きみも総司を救ってくれ。だが、今夜はもう休みなさい。そうだな、いくらなんでも本陣には連れて行けないから、私の家で。総司、醒ヶ井に案内しろ。ちょっと狭いが、離れが空いている。泰助、総司を手伝いなさい」
醒ヶ井には近藤の休息所があり、おこう(・・・)という妾が住んでいる。近藤はほぼ毎日、醒ヶ井から出勤しているのだ。
「甘やかしていいのかよ」
土方が吠えるが、もう遅い。
「総司が選んだんだ、いいじゃないか。総司もおとなだ、任せようぜ。ただ、病は治すと約束してもらわねば困るが、な。総司は、とびきり大切な私の同志だ。明日は朝稽古を休んで、ゆっくりと本陣に来い。日が高くなってからでいいぞ」
涙が出そうだったから、総司は唇をぎゅっと噛んでいた。ひとつでもことばを発したら、途端に泣き声に変わりそうだ。
「総司、歳を恨むなよ。俺が歳の立場だったら、きっと同じ仕打ちをしたはずだ。副長ってお役目は、そういうものだ。大切な弟分が労咳の娘を好いていたら、普通引き離すだろうよ。ましてや、両親ともに労咳で失っている歳にしてみりゃ、全身全霊をかけて反対するだろう。なあ、歳?」
「俺は、私情で動いたわけじゃねえぞ。あくまで副長としてだな、隊士の私生活の管理を」
「融通の利かないところも、心配性の歳らしいぜ。さあ、帰ろう。ここは冷える」
近藤は土方の肩を強めに叩き、本陣に向けて脚を進めるよう促した。
「でもよ近藤さん。なんで、俺の企みが分かったんだい」
口惜しそうに土方は尋ねた。がはは、大きな口を開けて近藤は笑う。
「泰助が豚の柵を壊しているところを偶然、目にしたんだ。ずいぶんと人目を忍んでいたが、そのあとはこっそりと歳の部屋に逃げ込んだよな。で、歳とこっそり外出。あまりにも挙動不審だったから、これはなにかあるなと、つい見張ってしまったぞ。局長を罷免になったら、監察にでもなるかな」
再び、近藤は愉快そうに笑った。心に響く、快活な笑いだ。引き込まれて思わず笑顔になった総司も、改めて紅蘭に問う。
「紅蘭、無理強いはしないから、答えを出してくれ。わたしについてきてくれるかい」
からくり人形のように、紅蘭は大きく目を見開いてから、静かに頷いた。
「ありがとう。紅蘭」
「へえ、沖田はん」
「これからは『総司』でいいんだ、紅蘭」
「……はい。総司はん」
自分に都合のいい夢を見ているようだった。
月の冴えた夜の都大路を、総司はふわふわと弾むように歩く。行き交う人はおろか、犬や猫すらいない。
背中には紅蘭を負っている。どうやら眠っているようで、小さく漏れる息が規則的に総司の首筋に心地よく触れる。紅蘭の生きているしるしを感じていると、春先の冷えもどこかに飛んでいきそうだ。
一足先に本陣に帰った近藤から、休息所には早くも文が届いていた。総司は近藤の妾、おこうの手により、あたたかいもてなしを受けた。近藤の配慮をありがたく受け取る。この恩は、今後の働きで必ず返してみせると、総司はきつく心に誓う。
「しばらく、お世話になります」
総司はおこうに頭を下げた。年下の女性とはいえ、近藤局長の思い人。遊里の出ながら、万事控えめでいつも近藤を立てている。けっして奢らず、身の程をわきまえていた。敬うべき人柄。
「ええって。どうぞ、ゆっくりしておくれやす」
「近くに適当な家を見つけ次第、移りますので」
「若い人がおると、楽しいわ。この子が、旦那さまからのお文にありました、紅蘭と言わはる娘はんね」
さっ、と注目が紅蘭に向かったが、見られることに慣れっ子の紅蘭はまったく動じない。生死の修羅場をいくつかくぐり抜けている総司も、紅蘭の肝の太さには舌を巻いた。
「へえ。紅蘭どす。よろしくお願いします」
労咳の発作から抜け出して自分を取り戻した紅蘭は、澄んだ高い声で答えた。
「いやだわ、そんな他人行儀な。うちらは新選組の男はんを、陰で励ますお役目を担うとるんよ。こちらこそ、うちをほんまの姉だと思って仲良くしてくださいね。けどなあ、どこから見ても、かわいい娘さんやね。沖田はん、今まで隠しとったなんて、人が悪いわ。さ、外は寒かったでしょう。お湯を使ってきて」
おこうは美しい紅蘭に目を細めていた。近藤の女の趣味は、ふくよかな美人。痩せぎすの紅蘭が近藤の対象にならないことも、おこうはよく知っていたから、素直に受け入れられたのだろう。深夜にもかかわらず、おこうはいやな顔ひとつも見せずに、珍客のためにまめまめしく働いた。
総司は、傍らでのんびりと図々しくお茶をすすっていた泰助に向き直る。
「本陣に金が用意してある。それを持って、白露がいる見世にすぐ納めてきなさい」
寒さと暗さの中、泰助が不憫だと思ったが、裏切った罰だ。総司は知らん顔で言いつけた。案の定、泰助はしかめ面になる。土方さんと、さんざん示し合わせてわたしを騙した罪は深い。
「金は、勘定方が持っている。今夜引き出すと伝えてあるから、泰助でもだいじょうぶだろう。重くて運びづらいだろうから、その場にいる隊士に手伝ってもらえ。一筆、書いておくよ」
文を書き終えると、紅蘭が風呂から戻ってきた。血を吐いて体が汚れたから、さっと流したらしい。湯の香に包まれてほんのりと肌を赤く染めた、下ろし髪の紅蘭は、いっそう刺激的だった。夜も更けているのに、目が冴えてしまった。
「ごらん、白露を引き取る支度も進んでいるよ」
動揺を紛らわすために、総司は文を見せた。
「私。読めません、字」
そうだった。紅蘭や白露には、教育がない。恥をかかせてしまったと、総司は軽率さを悔いた。
「済まない。気が回らなかった。落ち着いたら、手習いもはじめようね。わたしが教えるから」
傷ついている風ではないが、総司は謝った。これから長い仲になるのだ。肝を据えて互いのことを理解すればいい。
今夜、総司たちが使う離れの準備も、おこうがてきぱきと立ち回ってくれたお陰で、すっかり済んでいる。だいぶ疲れて眠いらしく、紅蘭は子どものように両目をこすって、眠気をこらえていた。
この、総司優勢の展開に負い目を感じていた泰助は、ひとことも文句を垂れずにさっさと出発した。あでやかに美しい紅蘭を他の男に見られたくない、総司は泰助が去ってくれて内心ほっとした。
総司は濡れている紅蘭の髪をよく拭いてから梳いてやった。若い娘にしては短いが、あきれるほど豊かで黒い髪だ。早く結えるようになってほしい。結い髪の紅蘭を早く見たい。
「体が冷えたでしょうから、沖田はんもお風呂、どうですかって、おこうはんが」
寒いだけではない。総司も、紅蘭の吐いた血を体に浴びていた。匂いが残っている。
「うん。入るとするか」
できれば一緒に入りたかった。総司は紅蘭のうなじを眺めて不謹慎なことを思った。
「落ち着きますから、葉を噛んでください」
……わたしは、並んで寝るだけで満足だったのに。
紅蘭の寝顔と寝息を感じていれば、今夜はそれだけでよかった。
喀血したばかりの紅蘭に無理を強いたくない、そう思っていた。焦らなくてもいい、心底そう考えていた。
笑顔だけ、見せてくれれば。
けれど紅蘭は体を開くだけで、総司にはほほ笑みすら見せてくれなかった。総司は不満に思ったが、急に眠気が回ってしまい、なにも言えなかった。
なにか、囁かれたような記憶だけは残っている。
「白露のことはありがたいけれど、困ります」
そんなひとことを残して、彼女はわたしの前からまた、消えた。
六章に続きます




