序章 闇への誘い
血が流れたり、登場人物が刀で斬り合いをします。苦手な方は戻ってください。
ひとり。
ふたり。
血が飛び、薄闇の底に人影が沈むのを、総司は冷ややかに、苦々しく見ていた。
ちっ、また斬っちまった。今日はふたりか。できれば斬らずに、捕まえたかったのに。
新選組筆頭剣士の沖田総司は、自分の頬に斬り倒した輩の返り血がついてしまったことに気づき、小さく顔を歪めた。
すっかり雲に隠れていた月が、ようやく朧ろな姿をあらわす。はっきりとしない光の輪郭が、閨でうごめく女の肌のようだった。
「数えながら人を斬るのは、いい加減にやめろ、総司よ。悪い癖だ」
息を飲んで振り返ると、総司の背後には険しい顔をした副長の土方歳三が立っていた。総司の隊が果たした仕事の検分に来たらしい。
ほのかな月明かりに照らされた土方の端正な片頬が、透き通るように青白い。不吉さを思わせるような白さだ。
総司の体には、思わず鳥肌が走った。内心、苦々しさがこみ上げてくる。自分で気がつかないうちに、ひとりごちていたらしい。土方に指摘され、気まずそうに総司は頭を掻くふりをした。斬った人数を数えずにはいられない癖を、よりによってもっとも勘づかれたくない土方に知られていたとは。
えい、と総司は開き直り、ぶんっと刀を数回上下に振って敵の血を払い、鞘に収めた。
「遊びですよ、遊び。これぐらい、いいじゃないですか。隊務を怠けているわけじゃなし、むしろ、先頭に立って斬り込んでいる忠義者だと思っていますが」
「これだけ派手に斬り倒しておいて、遊びか。ずいぶんと不謹慎な遊びだなあ、おい。斬るより、捕縛しろと命じておいただろ。どっちも、急所を深々と突いているじゃねえか。あとで、数に見合った墓でも建ててやるつもりか。だったら今ここで、しおらしく頭を垂れて、手でも合わせておけ。それで終わっておけ。引きずるときりがない」
心の揺れを吹き飛ばすように、総司は大げさにからからと笑った。
「ほんとうは、わたしだって斬りたくなかったんですが、抵抗されてしまったのでね、済みません。これでも、せめて痛くないようにと、敵にも配慮しているつもりです。無駄に苦しまないように、現世に思いや恨みを残さないように、おっしゃる通り、両方とも一撃ですよ。まあ、案外本人たちは、わたしの刀の動きが速すぎて、斬られて死んだことにまだ気がついてないかもしれませんけれど。ああ、頬に血がついてしまった。やだなあ」
総司はおどけた調子を作りつつ、袖で返り血を拭ったとき、ちらりと目の端に黒い影が映った。
ああ、また『あれ』が、出てきた。
総司の脚を舐めるようにして這い、死体に寄ってゆく。笑っている。黒っぽい塊の化け物はどこが顔で体なのかよく分からないが、物の怪は新しい血と魂に喜んでいる。
気味が悪い。見たくない。総司は顔を背けた。斬れるものならば斬りたいが、神出鬼没の物の怪相手に総司の刀は通用したことがなかった。刀を向けるだけ、無駄だ。
長い付き合いの土方に、これ以上心の動揺を知られたくない。己の醜い内面に勘づかれたくない。それと解れば、心配性の土方は局長の近藤勇に告げ口をし、あれこれうるさく干渉してくるに違いないだろう。すでに様子がおかしいと気がつかれているから、総司はひたすら押し隠すしかなかった。
「妙だぞ、お前」
常々口うるさく、実の弟のように総司をかわいがってくれている土方。愛情ゆえの言動だとは伝わるのだが、総司も二十六。さすがに鬱陶しく、重荷だった。
「土方さんこそ。なんですか急に、墓なんて」
こうも口出しをされると、新選組発足以来副長の位置に立つ土方が、全隊士を監視し、掌握したいだけではないかと、疑ってしまいそうになる。この自分でさえも副長の手駒の内かと、総司には暗澹たる気持ちが拭えなかった。土方の口が、なにかを発するたびに身構えてしまう。江戸の道場にいたときのようにはもはや、親しくできない。
「墓。鬼の副長と呼ばれている土方さんのくせに、ひどく感傷的なことをいいますね。なんだか意外だ」
言い終えると、総司は土方の隣をさっと離れて、すたすたと歩きはじめようとしたが、物の怪のひとつが土方の肩に乗っている。総司は慌ててこれを手で払った。土方に憑かせてなるものか。物の怪は地面に堕ち、へらへら笑いながら魂を吸いに戻った。
総司は、都にはびこる魑魅魍魎と契約を交わしている。物の怪から得た無敵の剣。これを振るい、新選組を正当化する代わりに、総司は敵方の魂を彼らに下げ渡していた。骸の魂を喰わんと集まる物の怪の姿が、土方には見えていない。
「痛えな、人の肩を。なんだよ急に」
「ああ、済みません。大きな埃が」
「まったく」
総司の態度に疑問を抱きながらも、土方も深くは詮索しなかった。だが、忠告は忘れない。
「総司、派手な斬り合いのあとだ。どこで、この骸どもの残党が狙っているか分からない。ひとり歩きは危険だ」
「心配性だなあ、土方さんは。まっすぐ本陣に帰ります。あ、ひとりでもだいじょうぶですよ。目立たないように、灯りは持ちませんから。幸いの月明かり。わたしにだって、たまには考えごとをしたいときもあります。隊務は終わり。夜は浅い。このあとはどこで遊ぼうか、とかね」
「どんな遊びなんだか」
「おや、どこからか梅の香が。京の雅な春だなあ、句でも詠もうかな。ねえ豊玉さん」
総司は、はぐらかした。しかも、わざと土方の俳号を唱えて。堅物そうに見えて、土方は俳句を嗜んでいる。
ちっ。
土方は総司にも聞こえるよう、わざと盛大に舌打ちをした。思うように総司を操作できなかったせいか、相当に機嫌が悪い。
こちらにまで、土方の苛立ちがうつりそうだ。構わずに総司は歩みを進める。任務半ばの土方が、後を追ってくる気配はなかったが、次の路地を曲がると、総司は半ば走るようにして急いだ。
白梅の枝が月に照らされて、光っている。梅に向かって腕を伸ばした総司はひと枝折って、拝借した。まだ若い香りが、あたりにふわりと広がった。
「序」の読了ありがとうございました。本文は約10万字、順次連載します。