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短編シリーズ

あの夏、君と約束した

作者: 遠藤 彩




〝約束する。〟


真っ白のシャツが陽を反射して半透明になる。曖昧な記憶の所為でスモークがかって目の前にいる〝彼〟の顔ははっきりと分からない。

そして〝彼〟は私の背中を力強く押した。私は振り返り際に〝彼〟に何かを言った。その時、〝彼〟は微笑した――気がする。

この短い出来事だけが私が唯一覚えている、失った5ヶ月間の顛末だ。


「あなたでしょ?記憶喪失の女の子って」

私が所謂――記憶喪失になってからもうすぐ1年が経とうとしているのに、未だ好奇心旺盛の子達がわざわざ私を見に教室までやって来る。

まるでクラスに切り離されたような一番後ろの窓際の席に座っている私に同級生と思われるショートカットの女の子が後ろに友人を引き連れて、私の机に身を乗り出してそう尋ねた。

その目はまるで幼い子が母親に「空はどうして青いの?」みたいな、期待に満ち溢れた目だった。

「……人違いじゃないですか?」

口許に笑みを浮かべてやんわりそう呟くとショートカットの女の子の顔が見る間に不機嫌になる。

「そんなはずないわよ!あなた、日比野 海さんでしょ?知ってるんだから!ねぇ、記憶喪失ってどんな感じなの?〝あの事故〟の後、最初に目を覚めた時、どう思った?」

デリカシーの欠片もない彼女の言葉に私は少しだけ傷ついた。最初に目を覚めた時、私の最後の記憶は中学を卒業した時だった。

高校入学してから5ヶ月も過ぎたというのに私に全くその記憶はなかった。

初めて教室に行った時、皆が私に好奇の目を向けた。

あの時の視線と張り詰めた空気、辛かったなぁと思い出す。

それと同時に目の前のショートカットの女の子への激しい憎悪が膨れ上がった。

「この窓を飛び降りてみたらいかが?運が良ければ記憶喪失になって、記憶喪失が味わえると思うわよ」

少しお高く言うとショートカットの女の子は口をつぐんだ。

私はその時初めて、教室が静まり返って皆の視線が私に集まっている事に気づいた。その空気感に居心地が悪くなって私は教室から飛び出した。


意味もなく走って走って走った。行き着いた場所はやっぱりここだった。呼吸を整えて、一瞬この教室の扉を開けるか開けないか躊躇った。

――結局、私は美術室の扉をがらりと開ける。柔らかい風が私の頬と髪を撫でていく。カーテンが風に靡いて翻っている。

正面から差し込む太陽が眩しくて私は双眸を細め、手で目の上にひさしを作った。

「いつもここにいるんだね」

私はこちらに背を向けて座っている彼に声をかけた。

陽の所為で彼の真っ白なシャツが半透明になっているから、私は思わず〝彼〟を思い出した。

顔も声も名前も何一つ思い出せないけれど、きっと記憶を失う前の私の大事だった人に違いない。

「――君も、」

ぼんやりとしていた私は彼の声にハッとした。

「いつもここに来るんだね」

振り返った彼の表情が優しくて胸の奥がギュッと鷲掴みされた気分だ。

ここ――今はもう使われなくなった美術室だ。この教室は何年か前に生徒から「太陽の位置が悪い」と苦情を受けたそうで、現在は教師や生徒から完全に忘れられた教室である。

ここには過去の生徒が作った作品が埃を被っており、いかにもな雰囲気を醸し出している。

私が記憶喪失になったばかりの頃、クラスメイトからの無神経な言動に耐え切れなくて逃げついた場所がここだった。あの頃の私にとってこの埃っぽい美術室は居心地が良かったのだ。

その時、やっぱり彼もそこにいて今日みたいに私に背を向けて大きなキャンパスに絵を描き続けている。

あの時、私達は1度目を合わせただけで声を交わすことはしなかった。

だけど私は何故かこの世界で私達はたった2人ぼっちだ、と泣いた。

「何かあった?泣きそうな顔してる」

彼にそう指摘され、慌てて顔を上げたけど彼はやっぱり私に背を向けて大きなキャンパスに筆を走らせている。白い部分は随分少なくなってきたけれど、描き始めてもうすぐ1年が経とうとしているのに彼は未だ1枚の絵を完成させていない。

「ううん、何でもない。コンタクトがずれただけだよ」

嘘丸出しの言い訳だった。

なのに彼は疑う事もなく「そっか」と呟いた。

単に私に興味がないからだろうか。


私達の会話はそれだけだった。

穏かな静寂に包まれる美術室で私は何をするわけでもなく少し離れた場所で彼の後ろ姿を眺めていた。

その静寂が胸に染み渡るように心地よい。

「……あのね?」

もしかして、とずっと心の片隅で抱いていた疑問をぶつけたら彼はどんな顔をして私を見るだろうか。

「私達って……会った事ある?」

「会った事って……いつも会ってるじゃん」

彼はキャンパスに筆を走らせながら苦笑を孕ませた声を出す。

「そうじゃなくて、一番最初に会ったのって9月だった?入学式とか夏休みとか……会ってない!?」

心の片隅に抱いていた疑問。

それは目の前の彼と、〝彼〟は同一人物じゃないかという事。


〝約束する。〟

〝彼〟は確かにそう言った。失った5ヶ月間のいつかに私は約束を交わした。その約束が何なのかさえ、思い出せないけれど……。でも大事な約束だったような気がする。

私は息を呑んで彼の言葉を待った。

「……会ってるかもね」

彼は手を止めてこちらに振り返った。

「ひょっとしたら」

彼は口角を上げて笑っていたけれど、その眼底には悲しみが見え隠れしていた。



「海」

昼休み。教室の窓から空を見上げていた私に三つ編みをした女の子が声をかけてきた。

覚えていないけれど、彼女は私が高校に入学して一番に仲良くなった友人らしい。

なのに私は彼女の事を思い出せない挙句、記憶を失くしてから人と接する事が怖くなり、彼女をあからさまに避けていた。

「今日の4時限、どこにいたの?駄目だよ。ちゃんと授業に出なきゃ」

三つ編みの友人はクラス委員という肩書きを持つ。

「――美術室。三棟の」

「え……あそこってもう使われてないよ?」

「あ、うん」

早くあっちに行ってくれないかなと小さく溜息を吐く。

「ずっと美術室の外にいたの?」

「中にいたけど」

平然と答えると見る間に三つ編みの友人の顔色が変わる。

その様子に私も少し慌てた。

「何?どうしたの?」

「鍵は!?どこで手に入れたの!?」

掴みかかってくる勢いで尋ねてきた友人に私は更に狼狽した。

「か、鍵?」

「そう!もう1年も前から美術室の鍵がないのよ。盗まれたんじゃないかって先生達は言ってるけど……いつ行っても美術室は開かないし。まぁ、どうせ使わないからそんな大事ではないけど……」

「開かない?そんなはずないわ。いつも開いてるよ?」

私はいつも計画なしでふらりと美術室に立ち寄るけれど閉まっていた事など一度もない。

そして――、そこに彼がいなかった事も一度もなかった。

私はその事を三つ編みの友人に話すと彼女は彼の名前を尋ねてきた。

「……」

約1年もの間、私は彼と一緒にいたのに私は彼の名前を知らなかった。

名前どころか、学年、クラス、誕生日。何も知らない。

嗚呼、これではまるで〝彼〟と同じだ。そういえば記憶を失ってから私は〝彼〟と一度も会った事がない。


「何なの?こんな所に呼びつけて。まさか本当に私をここから落とそうってわけ?」

胸の前で腕を組み、今朝私に失礼な事を言ったショートカットの女の子が嫌味ったらしくそう吐き捨てた。

改めて見ると彼女は整った顔立ちをしていた。

もしかしたら彼女なら何か知ってるかもしれないと思って私は屋上に呼んだのだ。

「私、高校入学してから5ヶ月間の記憶がないの」

「……知ってるわよ。有名な話じゃない。それがどうしたの?」

「あなた、今朝に〝あの事故〟って言ったよね?事故って……?私がどうして記憶をなくしたのか、あなた知ってるんでしょ!?」

〝彼〟の事がなければ私はきっと失った5ヶ月間に拘らなかった。

「日比野さん、もしかして事故の事聞いてないの?」

ショートカットの彼女は意外そうに私に聞き返す。私が頷くと途端に苦虫を噛み潰したような表情を作り、私から視線を逸らした。

「そ、そうだったの……。じゃあ、私の口からは言えないわ」

「どうして?」

「私の口から言うにはあまりにも重過ぎるから」

私は腕をだらりと垂らして茫然と彼女を見据えたけれど、彼女は私の目を見ようとはしなかった。両親も先生も友人もクラスメイトも、皆私に真実を話してはくれない。

「事故の事を知らないって事は……〝彼〟の事も分からないの?」

「〝彼〟?」

ショートカットの彼女は聞き返した私の表情を見て墓穴を掘った事に気づいた。

やっぱり彼女は何かを知っているんだ。そう確信した。

「お願い!事故の事は言わなくていいから〝彼〟の事を教えて!」

「い、嫌よ!言いたくないわ!」

「どうして!?教えてくれるくらいいいじゃないの!大体そっちから……」

「駄目駄目。状況が変わったの!」

「じゃあ〝彼〟の名前だけでもいいから教えてよ!お願いっ!」

ショートカットの彼女は哀れむように私を見つめた。

そして大きく溜息を吐き出す。

「もう!分かったわよ!名前だけだからね?」

「あ、ありがとう!」


「……ナツキ」

「え?」

「夏木 葵って言うのよ。〝彼〟の名前は……」

その名前を聞いた瞬間、私の全身に鳥肌が立った。大きな炎を頭の中で見た。私は思い出したのだ。失った5ヶ月間の思い出と、〝彼〟を――。



――……〝約束する。〟


真っ白のシャツが陽を反射して半透明になる。曖昧な記憶の所為でスモークがかって目の前にいる〝彼〟の顔ははっきりと分からない。

そして〝彼〟は私の背中を力強く押した。私は振り返り際に〝彼〟に何かを言った。その時、〝彼〟は微笑した――気がする。



「ずっとここにいるの?」

ショートカットの彼女にお礼を言ってから私が夕焼けに染まる美術室に行くと彼はまだそこにいた。

美術室の扉を閉めて彼を見つめる。私は内心、泣きそうだった。

「うん」

「どうして?」

「〝約束〟したから」

彼は私に背を向けたままそう呟く。夕日に彼のシャツが半透明に輝き、今にも消えてしまいそうなのが怖くて、私は彼の肩に初めて触れた。確かに、ある。彼は確かにここにいる。

「……なんで泣くの」

彼はギョッとしたように私を見上げ、一瞬逡巡してから私の頬に流れる涙を拭おうとし――それからハッとして己の手が絵の具に染まっていた事に気づき、苦い顔をしながら私から離れた。

でも私は慌てて絵の具で汚れた手を両手でぎゅっと握り締めた。

「どうして忘れる事が出来たんだろう……。ごめんなさい……!!」

「……思い出したんだね。あの夏の日の事」

「失った5ヶ月、全部思い出した。あなたが夏木葵って事も」

窓に差し込む夕日の光を見ていると約1年前の記憶が唐突に揺さぶられた。



「君、絵の才能0だね」

「エッ」

高校1年生の4月。授業でチューリップを必死になって写生していた私のスケッチブックを覗き込んで、彼――夏木葵は爽やかな笑顔を振りまきながら失礼な言葉を吐き出した。

「何それ。ラグビーボール?」

「ち、違うわよ!!って、あなた絵上手っ!」

夏木葵は人の絵を馬鹿に出来る資格を持てるほど絵画に長けていた。

私は自分のスケッチブックの夏木葵のスケッチブックを見比べ、盛大に溜息を吐いた。



「一緒に美術部に入らない?」

「私が絵へたくそなの知って言ってる?」

高校1年生の5月。席替えでくじ運悪く私は夏木葵の隣の席を引き当ててしまった。相変わらず胡散臭い笑みを浮かべながら話しかけてくる夏木葵が私は少し苦手だった。

「夏木くんって美術部なの?」

「うん」

「意外。サッカー部っぽい顔してるのに」

「よく言われる」

頬杖をつきながら目を細めて笑う夏木葵に私は引きつった笑みを返した。



「佐々木に告られた」

「あんたが?」

高校1年生の6月。学年で可愛いって言われている佐々木さんは夏木葵の事が好きらしい。私は何となく面白くなくて夏木葵に冷たい態度を取ってしまった。

「何?嫉妬?」

「嫉妬なんかじゃない!あんたが私に嫉妬させようとしてる事がムカつくの!!」

そう言い放つと彼は面を食らったような顔をした。

「……なんで泣くの。別に付き合うわけじゃないよ」

困ったように呟いた夏木葵に背を向けて私は涙を隠した。



「今日の放課後、美術室に来て。三棟にある」

「三棟にあるの?」

「もう使われてないけどね。この前先輩にそこの鍵貰ったんだ」

高校1年生の7月。夏木葵は手の中で輝くシルバーの鍵を弄びながら、私に無邪気な笑みを見せた。もう使われていない美術室というのが不気味だったけれど、私は行く事にした。

「え、何。夏木くん、私の事好きなの?」

言われた通り放課後、三棟の美術室に足を運ぶと夏木葵が私に小さなキャンパスに描かれた絵を見せてきた。描かれているのは私の横顔だった。

「さぁね」悪戯っ子のように笑う夏木葵に私の心は掻き乱された。



「美術館の券が二枚あるから一緒にどう?」

「わぁ、また遠回りの嫌味?」

「違うよ」

「え?」

「嫌味じゃない」

高校1年生の8月――。夏木葵と初めて一緒に出掛ける事になり私はかなり緊張した。そして小さな覚悟を決めていた。この日、彼に好きだと伝えよう。

なのに。

「火事だー!!」「非難しろー!!」訪れた美術館が燃え出した。誰かが必死になって描いた絵が炎に呑まれて行く。がらがらと建物の中が崩れていく。私と夏木葵は何とか火が周らないうちに脱出できたけれど、美術館の中にはまだ取り残された人たちがいる。

「待って!行かないで!」

私は炎に包まれた美術館に再び飛び込もうとした夏木葵に抱きついて止めようとした。もう二度と、彼に会えなくなるような気がした。

「もうすぐ消防車来るから!!待ちましょう!」

でも夏木葵は私の言う事を聞いてくれなかった。

「じゃあ私も一緒に……」

「約束する。必ず戻ってくるから」

陽の所為か、それとも炎の所為か。彼のシャツが反射して半透明になる。私は今にも彼が消えてしまいそうな予感がして手をのばしたけれど、その手はむなしく宙を切った。

「君たち!!いつまでもここにいたら危ないよ!いつ建物が崩れるか分からない!」私はスーツを着た男の人に身体を反転させられ、非難するよう促される。

「好きなの」

振り返り際、私は夏木葵に向かって言った。ずっと胸の内に秘めていたもの。いつも視線であなたを追っていた。ずっとずっと、あなただけが好きだった。

彼は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐ私に微笑――した気がする。彼が勇ましく燃える美術館に飛び込んだ瞬間、燃える木材が落ちてきて入り口を塞いだ。その後、消防車が到着して火は無くなったけれど、夏木葵が飛び込んでから帰ってくるものは誰もいなかった。



「戻ってきたよ」

彼は立ち上がって私を見た。あの時の約束のために夏木葵は私をずっと待っていてくれた。記憶を取り戻すのを待っていてくれた。

「ありがとう……!!戻ってきてくれて……。でも、もういいんだよ。私、思い出したから。待っててくれてありがとう。私、夏木くんの事絶対に忘れない……」

私の目から涙が落ちる。彼は私の肩に触れようと手を伸ばしてきたけれど、その手は私に触れることが出来なかった。彼は困惑したように己の手を見つめていた。そして。

「ああ、もう俺の役目は終わったのか」と泣き笑いの表情で呟いた。

聞きたかったことがある。伝えたかったことがある。

「私の事……好きだった?」俯きながら訊いた私の質問に彼は照れくさそうに頭をかいた。間違いなく、目の前にいるのは夏木葵だ。もう夏木葵の向こうの景色まで見えるほど、彼は透明になっていた。

「好きだったよ。すごく」

その言葉に私はまた涙を流した。

ついには立っていられなくなって膝から崩れおち、背中を丸めて大声で泣いた。




・・・。思っていたよりも長くなってしまいました(笑)3000字ぐらいで終わらせようと思っていたのに6281字・・・。もうこれは短編ではないのでは?というつっこみはやめてください(笑)ここまで読んで下さった方。本当に感謝です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 切ない恋ですね。幸せな不幸せ。 完結してすごく良くなりました。 長さもこれくらいの短編なら普通にありますので気になりませんでしたよ。
[良い点] 短い文章で、主人公の感情がうまく表現できているところ。 [一言] はじめましてロメルと申します。 強い文章、と言う印象を受けました。読み手に感傷を与え、残すことが巧みだと思います。それだ…
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