迷い率
迷わない人間には、向かない仕事だ。
——根岸ひなたは、油の匂いが立ちのぼる角でそう言い置くと、クリップボードを脇に挟み、両目をしっかりつぶってから、東谷戸商店街の坂を三十歩あるいた。数えた。腕も振った。途中でたしかに下ったし、たしかに右へ曲がった。それなのに目を開けると、五分前に出てきたばかりの肉のますやのショーケースがそこにあって、揚げたてのコロッケが三個、油の泡を立てながらこちらを見ていた。
「三回目です、これ、三回目! いや二回目まではね、あたし坂を舐めてたんですよ、傾斜があると人間って無意識に楽なほうへ体が落ちるじゃないですか、だから今回は意識して左足に体重を残して、しかも歩幅を六十センチで固定して、頭の中で秒まで数えてたのに、なんでここなんですか、ここ、あたし今日まだ一歩もここから離れられてないんですけど」
「はいはい。揚げたて」
紙袋が二つ、カウンターの上を滑ってきた。ますやのタミ子さんは、ひなたの説明を最後まで聞いたためしがない。揚げ鍋の縁で菜箸が二度鳴り、換気扇が油を吸い上げて、店の前の空気だけが少し重たくなっている。夕方の五時、この角には水を撒いたあとの石畳と、隣の鮮魚店の氷と、どこかの家の柔軟剤の匂いが層になって坂を下ってくる。
ひなたは片手で紙袋を受け取り、片手でクリップボードを立て、様式のいちばん下の欄に鉛筆で〇.八と書きこんだ。数字を書くあいだだけ、喋りが止まる。
「よそで測ったほうがいいんじゃないの。うちの前ばっかりで」
「土地が決めることなので、あたしの意思じゃないです」
坂を戻りながら食べた。衣が上顎に貼りつくくらい熱くて、口の中で息を回しながら、それでも二個目に手が伸びた。ひなたのスニーカーは、左の外側だけが斜めに減っている。この一年で三足目だった。
**2**
翌週の月曜、市役所五階の都市計画課で封筒を渡された。冷房が効きすぎていて、袖のない腕に鳥肌が立つ。窓の外では蝉が、ガラス越しでも耳につくくらい鳴いていた。
南谷戸ステーションスクエア。竣工前の事前調査。提出は八月二十日十七時必着で、次の審議会に間に合わなければ設計はそのまま確定する。実測にあてられるのは五日。等高線を引くには短い。
「五日って、東谷戸だけで去年は九日かかってるんですけど」
「予算がそこまでなんです」
「予算って歩数には効かないんですよ」
担当者は封筒の口をきちんと折り返して、机の端を指で押さえた。それ以上の返事はなかった。
「同行の地図屋さん、一階で待ってもらってます」
一階のロビーで待っていたのは、背の高い女だった。半袖のシャツの右袖が黒く汚れていて、指の腹にも、爪のふちにも、洗っても落ちない種類のインクが入りこんでいる。
「佐倉です」
「根岸です! 委託の調査員で今年二年目で、市内の高いほうから十カ所は全部あたしが出した数字なんですけど、去年は谷戸川の北を全部やって、途中で自転車も一台やられて、それはまあ関係ないんですけど、あの、地図屋さんって今日はどういう役で」
「描く係」
「え」
「あなたが測る。私が描く」
佐倉地図店の作業場は、店の奥の、天井の低い部屋だった。壁一面にトレーシングペーパーが吊るされていて、扇風機が首を振るたびに紙の端がいっせいに鳴った。製図台の傾きは、そこに立つ人間の背丈に合わせて何十年も前に決められている。紙とインクと、うっすら糊の匂い。
ひなたは端から順に覗きこんで、坂の途中の路地が実際より広く描かれているのを見つけて指をさし、それから三分ほど喋った。佐倉は聞きながら定規を拭いていた。
「歩ける幅で描いてる」
「あ、なるほど、実測じゃなくて」
「地図は、通れるかどうかの話」
短い。とにかく短い。
「じゃあ段取りなんですけど、南谷戸は最後にします、あそこまだ人が住んでないから測っても数字が動かないんです、先に東谷戸の高いところを三日で潰して、感度を体に入れてから入ったほうが精度が出るので、そこは信じてもらって——」
「わかった」
「早いな返事」
「あなたが測るから」
ひなたはその晩、家に帰ってから「描く係」と三回言ってみた。
**3**
初日の届出書類を市役所に持っていく道で、ひなたは迷った。
地下の駐輪場から地上に出るとき、階段を二つ隣のほうへ上がった。それだけだった。出た先の景色が想定と鏡写しになっていて、正しいと確信できる方角へ七分歩き、コンビニの看板でようやく気づいて、戻って、また別の方向へ行った。アスファルトの照り返しが顎の下から上がってきて、首筋を汗が伝い、シャツの背が冷たく貼りついた。走った。封筒の角が汗で少し波打った。
受付の閉まる五時を、五分過ぎて着いた。
窓口の職員は嫌な顔をしなかった。もう半分片づいた机の上から判子を出して、日付のところだけ少し考えて、今日でいいですよ、と言って受け取ってくれた。乾いた朱肉の匂いがした。それがいちばんこたえた。
「すみません」
「いえ、まだ帰ってなかったので」
蛍光灯は半分落とされていて、フロアの奥は暗かった。カウンターの端には、ひなたが置きっぱなしにした水滴だらけのペットボトルが、輪の跡をひとつ残していた。ひなたは膝に手をついて息を整え、それから背筋を伸ばして、もう一度頭を下げた。
翌朝、待ち合わせの駅前は、まだ半分が日陰だった。
「明日、四十分早く出ます」
ひなたは佐倉にそれだけ言った。長い説明はしなかった。
佐倉は鞄から紙を一枚出して、差し出した。ハガキくらいの大きさで、駐輪場の階段が二つ、上がった先の角の形が二種類、鉛筆で描き分けてある。矢印が一本。
「持ってて」
「あの、これ、お礼とかどうすれば」
「別に」
**4**
亀の湯の裏手は、三本の道が九十度でない角度で集まる場所だった。ひなたが二度目の測定で入りこんだのは、煙突の真下だった。
薪が燃えていた。開いた焚き口から熱が塊になって出てきて、まつ毛が乾く。積み上げた廃材の山と、湯を送るポンプの低い唸り。ラジオが、地方局のナイター中継を音量いっぱいで鳴らしていた。
「兄ちゃん、そこ立つと熱いぞ!」
「姉です! あと今この三叉路を測ってまして、目をつぶって三十歩あるいたら三回中二回ここに来ちゃうんですけど、それって別にあたしの問題じゃなくて土地の問題なんですよ、ここ角度が変なんです、六十度と八十度と、残りが全部で——」
「代打だ代打! ここで代打出すか普通!」
「出さないですよね! いや出すとしても左です、左!」
「左だよなあ!」
黒岩さんは耳が遠かった。ひなたは声が大きかった。二人はたっぷり五分、噛み合っているのかいないのか分からない話を、同じ音量で交互に叫んだ。黒岩さんが薪をくべ直すたび、焚き口の奥で赤が波打って、火の粉が一つ、コンクリートの上に落ちて消えた。走者が還って、黒岩さんが両手を上げ、ひなたも一緒に上げた。測定は一つも進まなかった。
それから黒岩さんは、焚き口の前のパイプ椅子をひとつ蹴って寄こし、ひなたを座らせて、四十年ぶんの薪の話を始めた。松はよく燃えるが煙が多い、みかんの木は甘い匂いがするが火力が出ない、いちばんいいのは家を壊したあとの柱だ。ひなたは全部にうなずいて、全部に質問を返して、質問の答えは半分も聞き取れなかった。
「また来い!」
「来ます!」
三叉路まで戻ると、佐倉が半歩離れて歩きだした。
「煙い」
「あー、はい、すみません、これ落ちないやつです」
服の繊維の奥まで、薪の煙と、湯の、あの膜みたいな匂いが入りこんでいた。
**5**
三日目に入った路地は、住宅の塀と塀のあいだが自転車一台ぶんしかなくて、途中で二度折れて、抜けた先が保育園の裏だった。
金網の向こうに、抱っこ紐をつけた男が立っていた。無精髭。Tシャツの肩に、白い染みがいくつも重なっている。腕の中の赤ん坊が、息継ぎのたびに音を変えながら、切れ目なく泣いていた。夕方でもまだ熱を持ったアスファルトの匂いと、園庭の砂に撒かれた水の匂い。
「……こんにちは」
「あ、こんにちは。えっと、市の調査で、この路地の」
「はい」
「はい」
会話は三往復で尽きた。男——宇田川さんは、上の子を迎えに来たら下が泣きやまなくなって、門から出られないまま二十分経っているのだと言った。ひなたはうなずいた。うなずいたあと、何も出てこなかった。
それで、変な顔をした。目を寄せて、下唇を裏返した。宇田川さんが一瞬止まってから、同じくらい変な顔をした。交互に十回ほどやった。そのあいだ二人とも一言も喋らず、金網の菱形の影が二人の顔の上をゆっくり傾いていって、園舎のほうで先生がピアノの蓋を閉める音がした。
赤ん坊が泣きやんだのは、たぶん飽きたからだった。小さい手が伸びて、金網の隙間から、ひなたの左の袖口をつかんだ。しっかりつかんだ。引っぱられて、金網に額をぶつけそうになって、離れたあとの生地は濡れて、白っぽい跡が残った。
園舎の角から、上の子が水筒を振り回しながら走ってきて、金網の向こうの知らない大人を見上げ、それから父親の膝の裏に隠れた。
「ほら、こんにちは、は」
「……こんにちは」
「こんにちは」
三人ぶんの挨拶が終わって、また何もなくなった。
「すみません」
「いえ」
まだ気まずかった。宇田川さんは会釈をして、門のほうへ回っていった。ひなたは路地を戻り、塀の切れ目で立ち止まって、一.一、と書いた。市内の記録だった。誰にも言わなかった。
**6**
四日目は、朝から気温が上がった。
谷戸川の左岸は、堤防の上に細い道が一本あるだけで、日陰がない。ひなたは自販機で買った麦茶を三分で半分にして、残りを首の後ろに当てながら歩いた。護岸のコンクリートは白く灼けて、目を細めないと足元が見えない。土手の草からは、乾いた青い匂いが立っていた。
測定の順路からは、二百メートル外れていた。
川べりのコンクリートの階段に、双眼鏡を提げた人が座っていた。
ひなたは十段上に立って、それから四段下りて、隣に座った。何も言わなかった。相手も言わなかった。
階段は昼のあいだの熱をまだ手のひらに返してきた。水が浅瀬で音を立てている。上流から来る風には、川底の石の、金気に似た匂いが混ざっていた。護岸の割れ目からアレチノギクが伸びて、その影が水面の光を細かく切っている。
ひなたは一度、口を開いた。閉じた。
クリップボードを膝の上で裏返して、また戻した。対岸の枝で葉が鳴った。時計は見なかった。
十五分、そうしていた。
一度だけ、青い線が水面をかすめて、対岸の枝に消えた。双眼鏡は動かなかった。
ひなたが立ち上がって、ズボンの尻を払い、もう一度口を開きかけたとき、その人は双眼鏡を目から離さないまま、右手の人差し指を一本だけ立てて、川下のほうへ向けた。
ひなたはその方向に歩いた。橋の袂に出た。一度も曲がりそこねなかった。
橋の上で佐倉が待っていた。空はもう色を落としていて、川面が街灯を細長く伸ばしている。
「四日目」
「はい」
「南谷戸は」
「明日です」
佐倉は欄干に肘をついて、下流のほうを見ていた。橋の継ぎ目を車が渡るたび、足の裏に小さく響く。
「今日は、何も測ってないでしょう」
「測りました。座ってただけに見えました?」
「見えた」
「見えてたなら声かけてくださいよ」
「かけたら、立つから」
**7**
五日目の夕方、佐倉地図店の作業場で、ひなたは吊るされた紙を一枚ずつ数えていた。谷戸地区。一二〇〇分の一。人差し指で端を弾きながら数えて、途中で分からなくなって、最初から数え直した。四十七枚あった。
指の腹に、紙の粉がついた。角が擦り切れて丸くなっているもの、裏に何度もテープを当てたもの、表札の名前が消しゴムで薄くなった上に別の名前が書かれているもの。祖父の字と、父の字と、佐倉の字が、同じ図の上で三つ並んでいる箇所があった。
製図台には、まだ何も描かれていない一枚が広げてあった。二五〇〇分の一。図郭の内側に、南谷戸ステーションスクエアの区画が、四十七枚ぶんの土地をきれいに収めて、余白まで残していた。
「これ、一枚で足りるんですか」
「足りる」
「四十七枚ぶんが」
「番号が振ってあるから」
ひなたはしばらく製図台を見ていた。白い紙の上に、天井の蛍光灯が長方形に映りこんでいる。佐倉は烏口の先を布で拭って、光にかざして、また拭いた。
「うちの調査で低い数字が出たら、この設計、次の地区にもそのまま」
「たぶん」
「なんで言わなかったんですか」
佐倉は定規を置いた。扇風機が首を振り、吊るされた紙の端がいっせいに鳴って、また静かになった。
「言ったら、あなたが数字をいじる」
「いじりません」
「だから言わない」
「意味がわかりません」
「わかってる」
「わかってて言ってるんですか」
「うん」
ひなたは白い一枚のほうへ顎を向けた。
「この一枚、誰が描くんですか」
「私」
「いつ」
「工事が終わったら」
扇風機がもう一往復した。ひなたは製図台の縁に手をついた。左の袖口に、乾いて硬くなった白い跡がついている。声が、いつもより二段低かった。
「あたしが測るんですよ」
「知ってる」
「じゃあ先に言ってください。五日のうち、あたし三日、東谷戸ばっかり歩いてたんですよ」
「知ってる」
「亀の湯の裏で半日つぶして、保育園の裏では路地を一本も片づけずに帰って、昨日は川で十五分座ってました」
「うん」
「南谷戸、まだ一歩も入ってないんです」
「知ってる」
「知ってる知ってるって、じゃあ止めてくださいよ、一回でも」
佐倉は答えなかった。ひなたの手が製図台の縁を強く押して、白い紙の端がわずかに浮いた。すぐに手を離した。
沈黙が長かった。壁の時計の秒針だけが、紙の擦れる音の下で動いていた。二十日の十七時までに残っているのは、丸一日と少しだった。五日の予定は、四日でここまでしか進んでいない。
「間に合わないかもしれない」
ひなたはそれだけ言って、店を出た。坂を下って、三つ目の角まで行って、そこで立ち止まって、戻ってきた。ますやで買ったコロッケを四個、紙袋のまま作業台の隅に置いた。一個も食べなかった。
「明日、始発で入ります」
佐倉は顔を上げなかった。ひなたが引き戸を閉めてから、紙袋のほうへ手を伸ばした。
**8**
十九日の朝六時、南谷戸ステーションスクエアには、風がなかった。
舗装のタイルは目地の幅がすべて同じで、視線を先へ滑らせても引っかかるものがない。街路樹はまだ支柱に縛られていて、葉のつき方まで揃っている。歩道の切り下げの角度が一定で、足音の返りが前からも後ろからも同じ強さで戻ってくる。ガラスの壁面が空を映し、その向かいの壁面がそれをもう一度映して、どちらを見ても同じ雲がいた。
匂いがしなかった。
ひなたはますやの紙袋を開けた。コロッケは揚げてから四十分経っていて、まだ湯気を上げていた。上げているのに、何も匂わない。風がないと、匂いは立ちのぼったところで止まって、そこから先へ行かない。ひなたは袋の口に鼻を近づけ、それから顔を上げて、無意識に自分の左の袖を口元へ持っていって嗅いだ。薪と、湯の匂いがした。
工事の人間が二人、遠くのデッキの上を横切った。声は届かなかった。距離があるからではなく、声を返す壁の角度がどこにもないからだった。ひなたは紙袋を畳んで鞄に入れ、クリップボードの留め金を二度鳴らした。その音も、鳴った場所で終わった。
デッキの下、南東の角に立った。右手の人差し指を一本だけ立てて、正面へ向けた。誰も見ていなかった。
目を閉じて、三十歩あるいた。
目を開けると、着くはずの場所に、着いていた。
もう一度やった。着いた。三十歩の途中でわざと数を忘れてみた。着いた。北へ移動して、また目を閉じた。着いた。区画を四つに割って、十二地点、順に全部やった。着いた。着いた。着いた。
途中で一度、東谷戸の坂を思い出すために、体を意図的に左へ傾けて歩いた。傾いたぶんだけ、まっすぐ着いた。ここには落ちる方向がなかった。標識の文字は正面からしか読めない角度で立ち、店の入る予定の区画にはまだ白い養生シートが張られていて、そのシートの継ぎ目の間隔まで揃っていた。九時を回るころにはシャツの背中がすっかり濡れていて、それでも汗の匂いすら、この土地では立ち上がらなかった。作業車が一台、規定の速度で通り過ぎ、タイヤの音がどこにも反響せずに消えた。
最後の一地点だけ、ひなたは目を閉じたまま六十歩あるいた。三十歩ぶん行きすぎた場所に、行きすぎたとおりに立っていた。ここでは、間違えることさえ正確だった。
全域、ゼロ。
鉛筆の先が、様式第三号の右端、測定値の欄の上で止まった。芯は紙に触れている。触れているだけで、動かない。デッキの下は無風で、汗が顎から落ちて、用紙の左端に丸い染みをつくった。息を吸う。吐く。吸う。この欄に別の数字をひとつ置けば、値は「要再検討」の側へ転がる。転がった先で審議会は止まり、設計は差し戻され、来年の夏がもう一度来る。それを測れる人間は、この街に一人しかいない。鉛筆はまだ動かない。芯の先で紙の繊維が少しずつ潰れて、点が、点のまま太くなっていく。遠くで杭打ちの音が二度した。
ひなたは息を吐いて、測ったとおりに書いた。
**9**
十九日の深夜、市役所三階の空いた会議室で、冷房はもう切れていた。蛍光灯が一本、切れかけて時々まばたきをする。廊下の自販機が低く唸り、窓の外の国道を、間隔を空けてトラックが通った。長机の上に、ひなたの様式第三号と、佐倉の広げた一枚が並んでいる。缶コーヒーの輪染みが、机に二つ増えていた。
「舗装と区画割はもう動かないですけど、植栽の配置と壁面の角度は、まだ都市計画課の裁量に残ってます」
ひなたは様式外の白紙を一枚引き寄せて、南東角、歩行者デッキ下の一画について、樹種の変更と、壁面を七度振ることを書いた。図はいらない。位置と数字だけ。書きながら喋り、喋りながら書いて、五分で終わった。
「様式外を挟むと、来年度の委託は来ないかもしれないですね」
言い終わる前に、ひなたはもう挟んでいた。三秒もかからなかった。
佐倉は自分の一枚に向かって、鉛筆で、まだ存在しない道を一本、南東の角から北へ描き足した。まっすぐではなかった。二度折れて、樹の予定地の裏を回って、それからますやのある坂のほうへ抜けていた。定規は使わなかった。芯が紙をこする音だけが、しばらく続いた。
「これ、勝手に描いていいんですか」
「地図屋だから」
ひなたは椅子を半分ぶん引き寄せて、その線を上から覗きこんだ。
「ここ、遠回りですよね」
「そう」
「いいですね」
「うん」
ひなたは笑って、コロッケの袋を佐倉のほうへ押した。四個入っていた。二個減って、それから、もう一個減った。冷えた衣が指の腹で音を立て、会議室の中にだけ、油と、わずかに薪の匂いが立った。
変更提案書の理由の欄は、最後に書いた。
理由:当該区画の測定値に、是正の必要は認められない。ただし南東角のベンチから肉のますやまでは、まっすぐ行けば四分、遠回りをすれば十一分。
まっすぐ行ける人間には、向かない街だ。




