自己犠牲
村の外れ。凍てつくような夜気の中で、アルバスは一人、佇んでいた。
そこへ、足音もなく近づく影があった。聖女セレスだ。彼女の持つ杖の宝珠が、かつてないほど禍々しく、不気味な脈動を繰り返している。
「……アルバス、そこを動かないで」
セレスの声は、いつもの穏やかさとは正反対の、鋭い警告を帯びていた。アルバスが振り向くと、彼女はすでに神聖魔法の術式を編み上げ、彼を光の円環で囲んでいた。
「セレス? 何の真似だ。治療が必要なのは俺ではなく、村の負傷者のはずだ」
「黙って。……今、あなたの魔力を診ているわ。やっぱり、おかしい」
セレスは瞳を閉じ、集中を高める。彼女の意識がアルバスの魂の深層へと潜り込んでいく。
通常、勇者の魂は太陽のように眩く、温かな記憶の色彩で溢れているものだ。だが、今のアルバスの魂は――。
「……何、これ。真っ白……? いえ、違う。何かが、剥ぎ取られている?」
セレスは息を呑んだ。
彼女の視たアルバスの魂には、おぞましい「空白」がいくつも穿たれていた。
母親の温もり、仲間との笑い声、愛する人への情熱。それらがあるべき場所に、底の見えない暗い穴が開いている。そしてその穴の縁には、泥のように淀んだ「契約の紋章」が刻まれていた。
「……悪魔。アルバス、あなた、悪魔と何を約束したの!?」
「……悪魔?」
アルバスは無機質な表情のまま、彼女の問いを反芻した。
彼の記憶の中では、悪魔との契約さえも「勇者として力を得るための必要な手続き」という無機質な事実として処理されている。
「あぁ。力を借りた。この世界を救うためには、俺個人の思い出など、安い代償だと思ったからな」
「安い……? 本気で言っているの!? あなたが失っているのは、ただの記憶じゃない。あなたが『あなた』であるための根源よ! 今のあなたは、勇者の皮を被っただけの、空っぽの抜け殻に向かっているのよ!」
セレスの叫びに、アルバスの眉がわずかに動いた。
「抜け殻か。……だが、俺はまだ剣が振れる。村も救った。結果がすべてだ、セレス」
「結果がすべてなら、リリーの涙はどうなるの!? グレンの絶望は!? 守られたはずの彼らが、今、どんなに苦しんでいるか、今のあなたにはもう分からないのね……!」
セレスは杖を強く突き立てた。浄化の光がアルバスを包む。
だが、その光は悪魔の紋章に触れた瞬間、パリンと虚しく弾け飛んだ。
「……無駄だ、セレス。これは俺が自ら望んだ、合意の上での契約だ。君の魔法では解けない」
「っ……アルバス……!」
セレスの瞳に涙が溜まる。慈愛を司る彼女にとって、目の前の英雄が「自分自身」を削り取って怪物へと変貌していく様を見るのは、死よりも辛い拷問だった。
その時、暗闇の中から拍手の音が聞こえた。
「素晴らしい観察眼だね、聖女様。でも、彼の言う通りだ。彼は自分の意志で、最も効率的な『救済』を選んだんだよ」
影の中から姿を現した悪魔が、アルバスの肩に馴れ馴れしく手を置く。
セレスは恐怖に震えながらも、毅然と杖を構えた。
「消えなさい、汚らわしい……!」
「おっと、攻撃はやめておきなよ。彼が契約を破棄すれば、今まで得た戦果――つまり、救われた君たちや、この村の人、リリーの両親の命は、すべて『なかったこと』になる。それでもいいのかい?」
悪魔の言葉に、セレスの動きが止まる。
アルバスは、そのやり取りを他人事のように眺めていた。
「セレス、村へ戻れ。俺のことは問題ない。俺は最後まで、勇者として振る舞ってみせる。……たとえ、俺が俺でなくなったとしてもだ」
そう言って背を向けたアルバスの横顔は、夜の闇よりも深く、寒々しい「無」に染まっていた。




