欠けた心
ナギの村。かつてリリーが育ち、アルバスたちが温かなスープでもてなされたその場所は、今や黒煙と悲鳴に包まれていた。
「……いたぞ、勇者だ! アルバスだ!」
村の入り口にたった一人で現れたアルバスを、五百の魔王軍が包囲する。中心に座すのは、影を自在に操る魔術師。歪んだ笑みを浮かべ、アルバスを指差した。
「勇者よ、正気か? 仲間も見捨て、たった一人で我ら五百を相手にするとは」
「……見捨ててなどいない。これが、彼らを傷つけないための最善だ」
アルバスは新しく貰った剣の柄を固く握りしめた。
恐怖はない。ただ、脳裏にちらつく「欠落」が彼を焦らせる。
村の惨状を見ても、かつてのように怒りで震えることができない。知識として「救わねばならない」と脳が命令を出しているだけだ。リリーの家が焼かれているのを見ても、そこにあった温かな会話の記憶が消えているため、ただの「木材の燃焼」にしか見えない。
(……動け。もっと速く、もっと強く。俺は、勇者なんだろう?)
襲いかかる魔物の爪がアルバスの頬を裂く。
圧倒的な物量。さすがに一人では限界があった。
その時、耳元でねっとりとした声が響く。
「……苦しそうだね、アルバス。もっと『力』が欲しいかい?」
影の中から悪魔が顔を出した。戦場の喧騒の中で、その声だけが鮮明に聞こえる。
「あと一つ。あと一つだけ君の『幸福な記憶』を差し出せば、この五百を一瞬で消し飛ばす力を貸してあげよう。……どうだい、安い買い物だろう?」
「……あぁ。持って行け」
迷いはなかった。村人が死ぬ前に、リリーの両親が殺される前に、自分が何を失おうと関係ない。
「交渉成立だ」
悪魔がアルバスの胸に手を突っ込む。
――消えたのは、『旅の途中で、グレンとバカ笑いをしながら将来の夢を語り合った夜』の記憶。
グレンが「魔王を倒したら、俺たちの銅像を建てようぜ!」と笑い、アルバスが「そんなの恥ずかしいよ」と返した、あの宝石のような時間が、音もなく消滅した。
「……が、あぁぁぁぁぁッ!!」
アルバスの体から、黄金の、だがどこか冷徹な魔力が爆発した。
「『虚空の断罪』」
一閃。
光の波が村の入り口を舐めるように広がり、五百の軍勢を影の魔術師ごと、一瞬で塵へと変えた。
村の建物や人々には傷一つつけない、完璧な出力制御。
まさに、神の如き勇者の力。
「……終わったぞ」
アルバスは剣を杖代わりに、荒い息を吐きながら立ち尽くしていた。
そこへ、遅れて駆けつけたグレンたちが息を切らして現れる。
「アルバス! お前、無事か!?」
グレンが肩を掴んで揺さぶる。
だが、アルバスはその手を見つめ、不思議そうに首を傾げた。
「……あぁ、グレンか。怪我はないようだな」
「あったりまえだろ! それよりお前、一人でこれ全部やったのかよ! すげぇよ、やっぱお前は俺たちの誇りだ!」
グレンが、かつて将来の夢を語り合った時と同じ、最高の笑顔でアルバスの背中を叩く。
けれど、アルバスにはその笑顔が、なぜこれほどまでに自分に向けられているのかが分からない。
グレンと肩を並べて歩んできた日々は覚えている。だが、彼と「どんな熱量で」友情を育んできたのか、その核となる幸福な瞬間が消えたため、グレンの親しげな態度が、どこか見知らぬ他人の馴れ初めのように感じられてしまうのだ。
「……そうか。ありがとう」
アルバスはそっけなく答え、グレンの手を静かに払った。
「アル! 無事だったんだね、よかった……っ!」
リリーが泣きながら駆け寄り、彼の胸に飛び込んできた。
彼女の温もり。香草のような香り。
かつての彼なら、その細い肩を抱き寄せ、安堵に胸を撫で下ろしただろう。
だが、今のアルバスは、抱きついてきた彼女をどう扱えばいいのか分からず、ただ両手を力なく下げたまま立ち尽くしていた。
「……リリー。村の安全は確保した。両親も無事だ。……これで安心だろう?」
その問いには、何の感情も、愛おしさもなかった。ただの「業務終了の確認」だった。
リリーはアルバスの胸に顔を埋めたまま、目を見開いた。
聞こえてくる鼓動は確かにアルバスのものなのに、その音は、冬の氷の下を流れる川のように冷たく、遠かった。
「……アル、あなた。また、何かを捨てたの?」
リリーの呟きに、アルバスは答えなかった。




