空白の愛おしさ
一通り話し終わった後、レギウムの執政官カシムは、戻ってきた勇者一行を最高級の宿舎へと招き入れた。
そこには、荒野での野営では考えられないような、湯気の立つ温かな料理が並んでいた。
「さあ、遠慮せずに食べてくれ。君たちはこの街の、いや、人類の希望なんだ」
カシムの柔和な笑顔に促され、グレンは歓声を上げて肉料理に食らいつき、セレスも安堵したようにスープを口にする。リリーは、隣に座るアルバスの様子を窺いながら、少しずつパンをちぎっていた。
「アル、これ。あなたの好きな香草焼きだよ。……食べて?」
リリーが取り分けた皿を差し出す。アルバスはそれを受け取り、「ありがとう」と微笑んだ。
だが、その一口を口に運んだ瞬間、彼は激しい眩暈に襲われた。
(……味が、思い出せない)
それが自分の好物であることは知識として知っている。だが、かつてこれを食べた時に感じたはずの「美味しい」という喜びや、リリーと一緒に笑いながら食卓を囲んだ「幸福な記憶」が、ごっそりと抜け落ちていた。まさか、失うのは一回の攻撃につき、一つの記憶ではないのか。
リリーを愛おしいと思った記憶を失ったせいか、彼女が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるその仕草さえ、どこか遠い世界の儀式を見ているような、ひどく客観的な感覚しか抱けない。
「……あぁ、美味しいよ」
アルバスは嘘をついた。仲間を安心させるための、勇者としての「正しい嘘」だ。
だが、リリーの瞳にわずかな寂しさがよぎるのを、彼は見逃さなかった。
夕食を終え、各自に個室が与えられた。
石造りの城の一部を利用したその部屋は、清潔な寝具と静寂に包まれていた。
「……はぁ」
一人になった途端、アルバスは崩れるようにベッドに腰を下ろした。
怖い。
記憶が数個消えただけで、世界がこんなにも色褪せて見えることが。
母親に頭を撫でられた温もりを失った右手は、今、自分の髪に触れても何も感じない。リリーを「守りたい」と誓ったあの夜の熱い動機が消え、今はただ「勇者としての義務感」だけが自分を突き動かしている。
(まだ、大丈夫だ。俺はまだ、みんなを救える)
彼は自分に言い聞かせ、懐からさっきの少年にもらった黄色い花を取り出した。
しおれかけたその花を、窓辺に置いた水差しに挿す。
その時、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「……アル? まだ、起きてる?」
リリーだった。ドアを開けると、彼女は毛布にくるまり、不安げな顔で立っていた。
「……どうしたんだ、リリー。眠れないのか?」
「うん。……なんだか、今日の大広間でのアル、すごく遠くにいるみたいに見えて。怖くなっちゃったの。……少しだけ、ここにいてもいい?」
以前の彼なら、迷わず彼女を部屋に招き入れ、彼女の隣に座って、その震える手が落ち着くまで握っていただろう。それが彼にとっての「幸せ」だったからだ。
だが、今のアルバスには「手を握る」という行為が持つ、精神的な救いの意味がうまく理解できない。
「あぁ、いいよ。……だが、明日は早い。少しだけだぞ」
アルバスは精一杯、優しく接しようと努めた。リリーを部屋の椅子に座らせ、自分は少し離れた場所に座る。
「……アル。私、変なこと聞くけど」
リリーが俯いたまま、消え入りそうな声で言った。
「私たちのこと、嫌いになったわけじゃない……よね?」
「まさか。そんなことはない」
即答だった。それは本心だ。勇者としての心は、仲間を大切に思っている。
だが、その言葉に「愛おしさ」という重みが乗っていないことを、リリーの鋭い感性は見抜いてしまう。
「……そっか。よかった」
リリーは無理に笑い、立ち上がった。
「ごめんね、変なこと言って。おやすみなさい、アル」
彼女が部屋を出ていくとき、アルバスはその背中に向かって、何かを叫びたかった。
「行かないでくれ」なのか、「思い出せないんだ」なのか、自分でも分からない。
ただ、彼女を愛おしいと思った時の記憶がないせいで、伸ばそうとした指先は虚空を掴むだけに終わった。
アルバスは一人、豪華なベッドに横たわった。
城の冷たい静寂の中で、彼は必死に「明日の正解」を考えた。
村を救い、仲間を守り、魔王を倒す。
その「正しい結末」に辿り着くためなら、自分の中に残った、まだ温かい記憶さえも、すべて悪魔に差し出していいとさえ思い始めていた。
それが、自分を信じてくれる仲間たちへの、唯一の報いだと信じて。




