夜
西の空が、橙色に染まる頃、僧侶のセレスは足を止めた。
「……今日は、ここで休みましょう」
「まだ街まで距離があるぞ。もう少し進まねぇか」
グレンの言葉を、セレスは静かな首振りで遮った。
「この一帯、魔力の流れが極端に不安定です。夜の闇でこの歪みに捕らわれれば、移動そのものが命取りになりかねません」
セレスが結界を張り、野営することになった。
夜。
焚き火が、不自然に歪む。
「……来たのか」
背後に気配を感じ、見張りに立っていたアルバスは呟いた。眠る仲間たちを起こさぬよう、声は極限まで抑えられている。
「君の削れ方が興味深くてね。というより力を使いすぎだ」
闇の隙間から、染み出すように悪魔が姿を現した。その視線は、焚き火の傍らで丸まって眠るリリーへと向けられている。
「それと、彼女は実に鋭い」
「君が、かつての君の『記録』をなぞって、“正しい行動”を選び続けていることに、彼女はもう気づき始めている」
「……問題ない。俺は、俺を演じきってみせる」
「ああ、今のところは、ね」
悪魔は淡々続けた。
「感情とは、不合理なものだ。正論であればあるほど、説明できない違和感は毒のように人を追い詰める。君が完璧であればあるほど、彼らは君を『見失う』ことになるだろう」
嘲笑うような影が薄れ、焚き火は元の赤さを取り戻した。
アルバスの胸に残ったのは、実体のない嫌な予感だけだった。
――その後
リリーは眠ったふりをしながら、掌の中でわざと魔力の波長を乱していた。
かすかな魔力の揺らぎ。術師であれば誰もが気づく違和感。
かつてのアルバスなら、彼女が声を上げる前にその異変を察知し、駆け寄って「どうした、どこか痛むのか」と、その手を握ってくれたはずだった。
「……」
アルバスは、動かない。
リリーは奥歯を噛みしめ、さらにはっきりと波長を不安定にさせた。助けて、アル。私を見て。
沈黙を破ったのは、低く、落ち着き払った声だった。
「リリー」
名前を呼ばれ、彼女の胸が大きく跳ねた。彼女は、期待を込めて顔を上げた。
「魔力の波長が不安定だ。眠れないのか?」
アルバスはリリーに近づいてきて、心配そうな声をかけた。ただし、それは以前のものとは違っていた。
「……ねえ、アル。私、怖くて眠れないの」
「そうか。だが、俺が見張ってるから大丈夫だ。安心して眠るといい」
そう言って、アルバスは元の位置についた。前のアルバスなら、私が眠るときまで傍にいてくれたのに。リリーはどこか違和感を覚えながら、眠りについた。
やがて、見張りの交代時間が来た。
重い足取りで起きてきたグレンが、黙って酒袋を放りよこした。
「一口、やるか」
「見張り中だ。感覚が鈍る」
一秒の猶予もない拒絶に、グレンは乾いた笑いを漏らした。
「お前さ、そんなんだったか?前は一緒に飲んでくれたじゃねぇか」
「正しい判断は、生き残るために必要だ。お前も分かっているはずだろ?」
「ああ、分かってる。嫌になるほどな」
グレンは焚き火の底を見つめ、酒袋を乱暴に煽った。
「だから忠告してやる。俺たちは仲間だ。だから一人で突っ走るな」
アルバスは、すぐに答えられなかった。
かつての自分なら、何と返していただろう。肩を並べて笑い、「わかってるよ、相棒」とでも言っただろうか。
「……分かっている」
絞り出したその言葉は、嘘ではなかった。
だが、胸の奥には、出口のない小さな引っかかりが残る。
自分は正解を選び続けている。仲間を救うために、世界を守るために。
なのに、なぜ彼らの目は、あんなにも悲しげに自分を見つめるのか。
分からないことが、鉛のように重かった。




