模倣される日常
夜明け前、廃屋の屋根を叩く雨音でアルバスは目を覚ました。
正確には、意識が覚醒したという表現が正しい。かつてのように微睡みからゆっくりと浮上する感覚はなく、まるで機械のスイッチが入るように、唐突に「世界」が始まった。
(……異常、なし)
彼はまず、自分の内面を点検した。
四肢の感覚、魔力の残量、そして――記憶の欠落。
昨夜、悪魔に差し出した「初めて仲間と笑い合った夜」の記憶は、やはり戻っていない。あの日、誰がどんな冗談を言い、自分がどんな風に笑ったのか。その輪郭は知識として残っているが、中心にあるはずの熱量だけが、ごっそりとえぐり取られていた。
アルバスは傍らで眠る仲間たちの顔を一人ずつ見つめた。
リリー、グレン、セレス。
彼らを守るために契約した。その事実は、今の彼を突き動かす唯一の「行動原理」として機能している。
「……おはよう、アル」
リリーが目をこすりながら起き上がった。彼女の視線が自分に向けられた瞬間、アルバスの脳内では「適切な反応」の検索が始まる。
「あぁ、おはよう。よく眠れたか」
声のトーンを微調整する。低すぎず、冷たすぎず。かつての自分がリリーにかけていたであろう、少しだけ甘やかすような響きを模倣して。
リリーは一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに小さく微笑んだ。
「うん。……アルのおかげ。昨日は、本当に死ぬかと思ったから」
リリーが歩み寄り、アルバスの袖を掴んだ。
いつもなら、この瞬間に彼女の指先の震えを感じ取り、愛おしさが込み上げてきた。大丈夫。まだリリーとの記憶は残っている。
アルバスはリリーの頭を撫でた。
昼前、四人は次の街を目指して森の中を歩いていた。
戦士のグレンが、沈黙を破るように陽気な声を出す。
「なあアルバス! 街に着いたら、まずはあの店に行こうぜ。お前が気に入ってた、ラム酒の美味い酒場だよ」
グレンが肩を組んでくる。
アルバスは、一瞬だけ思考を停止させた。「ラム酒が旨い酒場」という情報を検索する。該当するデータは見つかる。そこには、自分が笑いながらジョッキを傾けている記録がある。
「ああ。いいな、楽しみだ」
アルバスは答えた。
だが、その声には「期待」が含まれていなかった。ただの肯定の返事だ。
グレンの足が止まった。
「……アルバス?」
「どうした、グレン。遅れるぞ」
「いや、お前……今、本気でそう言ったか?」
グレンの目が鋭くなる。彼は勘が鋭いため、なるべく会話は避けたい。
「楽しみだって言っただろ。早く街に行こう」
「違う。……お前、酒場に行きたいなんて一度も言ったことねぇよ。いつも『街に着いたらまずは装備の点検だ』って俺を窘めてたじゃねぇか」
アルバスは、心臓の鼓動がわずかに速まるのを感じた。記憶が欠けているだけではない。記憶同士を繋ぐ「感情の整合性」も壊れているのだ。どの記憶が自分の価値観を形成していたのかが判別できず、適当な「正解」を選び間違えた。
「……そうだったな。疲れで少し混乱していた」
即座に修正する。だが、セレスが静かに首を横に振った。
「アルバス。あなた、昨夜の戦いから少し様子が違います。怪我の影響ではありませんね? 魔力の発作か何か……」
「問題ないと言っているだろう」
アルバスの声が、わずかに低くなった。
拒絶ではない。これ以上、この話題に時間を割くのはぼろを出す可能性があったからだ。
仲間たちが息を呑むのが分かった。
夕暮れ時、一行の前に再び魔獣の影が現れた。
以前なら数時間は苦戦したであろう、巨大な甲殻を持つ魔獣の群れだ。
鈍色に光るその外殻は、並の剣や魔法を弾き返し、じわじわと一行を包囲していく。
(……ここで体力を消耗するのは非効率だ。リリーの魔力も、セレスの祈りも、グレンの体力も、魔王城のために温存しなければならない)
アルバスは、折れた剣の柄を握りしめた。
その瞬間、彼の頭の中に、ひび割れた鏡を爪で引っ掻くような、あの不快な声が響いた。
『……力を使いたいか? 勇者様。……記憶と引き換えだがな』
「……何の記憶だ」
アルバスは心の中で問い返す。
悪魔は、愉悦に震える声で囁いた。
『ククク……。今回はこれだ。――「リリーを愛おしいと思ったとき」の記憶を貰おうか』
アルバスの視界の端に、杖を構えるリリーの横顔が映った。
夕日に照らされた彼女の髪、真剣な眼差し、そして何より、自分を信じて背中を預けてくれているその全幅の信頼。
(……リリーを、愛おしいと思う、心……)
それを失えば、自分の中に残る彼女は「ただの仲間」という記号に成り下がる。
(……だが、今の俺が迷えば、リリーはあの殻に押し潰される)
「……いいだろう。契約だ」
『契約成立』
パチン、と。
頭の奥で、何かが静かに、けれど完全に消滅した。
彼は最短距離で魔獣の懐に飛び込み、柄を握り締めた。
「『白紙の裁き』」
魔力が剣の柄から噴き出す。空間を焼き尽くす白い閃光。
悲鳴すら許さない圧倒的な暴力が、数秒で魔獣の群れを炭化させた。
立ち込める硝煙。その中心に立つアルバスの背中は、神々しいほどに美しく、そして死人のように冷たかった。
「……すげぇ」
グレンが唖然と呟く。
だが、リリーは震えていた。
戦いに勝った喜びよりも、目の前にいる「何か」への恐怖が勝っていた。
アルバスが振り返る。
返り血を浴びたその顔には、一点の曇りもなかった。
「終わった。先を急ごう」
リリーの顔は見えている。名前も知っている。
だが、どうして彼女が自分にとってあんなに重要だったのか、愛おしかったのか。その「理由」がどうしても思い出せない。
(まともでいろ。アルバスを演じ続けろ)
彼は自分に命じた。
世界が救われるその日まで。




