リリー:勇者の背中
絶望の峠にて
馬の蹄の音が止まり、静寂が峠を支配する。
視線の先に立つアルバスは、返り血にまみれ、まるで血の海から這い出した死神のようだった。
「……何よ、それ」
絞り出した私の声が、風に攫われていく。
「効率的」「不確定要素の排除」「精神的契約」。
彼の口からこぼれ落ちる言葉は、どれも私たちが一緒に過ごしてきた、あの温かくて泥臭い日々とは無縁の、凍りついた記号の羅列だった。
「アル、私を見て……お願い」
一歩、踏み出す。けれど、彼と目が合った瞬間、私は金縛りにあったように動けなくなった。
その瞳の中に、私がいない。
映ってはいる。けれど、彼は私を「リリー」という一人の人間としてではなく、ただの「障害物」か「駒」として判別している。
「感情論は不要だ」
その一言が、私たちの積み重ねてきた一秒一秒を、無価値なゴミのように切り捨てた。
セレスが泣き崩れ、グレンが拳を震わせている。 二人の絶望が、私の肌を刺すように伝わってくる。
(……ねえ、アル。あなたは今、自分がどれほど酷いことを言っているか、本当に分かっていないの?)
グレンに胸ぐらを掴まれても、彼の表情は一つも変わらない。
「想起できない」――あんなに楽しかった思い出を、彼はただの「データ」だと言い切った。
その時、私は見た。
淡々と、機械のように残酷な正論を吐き続ける彼の、わずかに震える指先を。
本人は気づいていない。感情を売ったから、自分が何を失ったのかも正確には理解できていないはずだ。
でも、彼の肉体は、魂の根源は、まだ悲鳴を上げている。
大好きな親友を傷つけ、愛しているはずの私を絶望させる自分を、心の奥底にある「本当のアルバス」が、血を吐きながら止めたがっている。
そんな顔をして。
そんなに今にも消えてしまいそうな、透明で悲しい瞳をして。
「恨まれても構わない」なんて、よく言えるよ。
「……勝手なんだから」
私は、震える足に力を込め、もう一歩踏み出した。
グレンの手を振り払い、魔王城へと背を向けて歩き出す彼の、その小さすぎる背中。
「恨まないわよ。……あなたが自分のことを全部捨てても、私は絶対に、あなたを『勇者』になんてしてあげない」
聞こえているのか、いないのか。アルバスの歩調は変わらない。
「……行きましょう。あのアホを、一人にしないために」
私は杖を握り直した。
絶望に塗りつぶされた峠の先、魔王城の黒い影が私たちを嘲笑うようにそびえ立っている。




