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白紙の叙事詩  作者: ムラサメ
本編
15/16

おわり

扉の向こう側、玉座の間に踏み込んだ「モノ」を、魔王は驚愕の眼差しで迎えた。


「……貴様、何者だ。いや、貴様は……何だ?」


魔王が放つ漆黒の波動が、荒れ狂う嵐となって押し寄せる。だが、男は一歩も揺るがない。

彼の中に「恐怖」を司る回路はもう存在しない。

彼の中に「痛み」を考慮する思考はもう存在しない。


男の手にあるのは、あの日折れたままの、無惨な剣の柄だけだ。


 新しい剣を調達する時間さえ「非効率」だと切り捨てた彼は、魔王城の玉座の間でも、その柄を握りしめていた。


「そんな折れたガラクタで、何ができる」


 魔王の嘲笑。


 だが、男が記憶を対価として差し出すと、その柄から凄まじい密度の光が溢れ出し、かつての刀身よりも長く、鋭い「虚無の刃」を形成する。


「……標的、確認。……排除する」


男が地を蹴った。

その速度は、肉体の限界を完全に無視した神速。

魔王の爪が男の肩を深く抉り、骨が砕ける音が響く。だが、男は眉一つ動かさず、その一秒を利用して魔王の懐に剣を突き立てた。


「が……ぁっ!? 貴様……狂っているのか! 自分の命さえ……!」


「……命。勝利に必要なリソースに過ぎない」


男は、さらに深く踏み込む。

背後の扉からは、リリーたちの絶叫が届いていた。


「アル! もういい、もういいから!!」


「頼む、戻ってきてくれ!! アルバス!!」


その「名前」を聞いても、男の心は少しも揺れなかった。

彼にとって、その響きは「自分を指す記号」ですらなくなっていた。

そのとき、魔王が最後の手に出る。

空間そのものを凍てつかせる絶対零度の魔力。

だが、男はその極寒の中で、自分の中に残った最後の一滴――「生きていたい」という本能そのものを悪魔に投げ与えた。


「……あぁ、全部やる。……終わらせろ」


「ク、ククク……最高だよ!! さあ、これが本当の最後だ!!」


悪魔の叫びと共に、男の剣が白銀の、否、一切の色を持たない「無」の光に染まった。

その光は、魔王の心臓を、その存在そのものを、因果律ごと消し去っていく。


「……馬鹿な、この、私が……名もなき、空っぽの、人間に……」


魔王が灰となって崩れ落ち、城全体を支えていた魔力が霧散していく。

玉座の間を埋め尽くしていた闇が、夜明けの光に溶けるように消えていった。

静寂。

ただ、冷たい風が吹き抜ける音だけが響く。


「……アル?」


リリーが、震える足で歩み寄る。

そこには、魔王の玉座の前に、立ち尽くしている一人の男がいた。

剣を杖代わりにし、全身から血を流しながらも、彼は確かにそこに立っていた。


「アル! よかった、生きて……!」


リリーが泣きながら彼の手を握った。

男がゆっくりと首を傾け、自分を握るリリーの指を、見た。


「……あぁ。……終わったのか。……敵は、消えたか」


その声には、勝利の喜びも、安堵も、何もなかった。

ただ、仕事を終えた機械が停止する直前のような、乾いた余韻。


「……アル、私だよ。リリーだよ。わかる? グレンも、セレスもいるよ」


リリーが彼の顔を覗き込む。

だが、その澄み渡るような瞳の中に、リリーの姿は映っていなかった。

いや、映ってはいるが、認識されていない。


「……リリー。……それが、君の名前?……いい名前だね」


男は、生まれて初めてその名を聞いたかのように、穏やかに微笑んだ。

それは、かつての「アルバス」が一度も見せたことのない、あまりにも純粋で、あまりにも空虚な、微笑みだった。


「……俺は、誰だ」


男は、自分の手のひらを見つめ、不思議そうに呟いた。

魔王を倒し、世界を救った勇者。

けれど、その勝利と引き換えに、彼は「アルバス」として生きた一秒一秒のすべてを、永遠に失ってしまった。

玉座の間に、朝日が差し込み始める。

世界は救われた。

けれど、目の前にいる男が誰なのか、それを知る者は、もうこの世界にはリリーたち三人しか残っていなかった。


「……さあ、帰ろう。……名もなき、英雄さん」


セレスが杖を抱きしめ、声を殺して泣いた。

彼らが歩き出す足音だけが、空っぽになった城の中に、虚しく響き渡っていた。

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