おわり
扉の向こう側、玉座の間に踏み込んだ「モノ」を、魔王は驚愕の眼差しで迎えた。
「……貴様、何者だ。いや、貴様は……何だ?」
魔王が放つ漆黒の波動が、荒れ狂う嵐となって押し寄せる。だが、男は一歩も揺るがない。
彼の中に「恐怖」を司る回路はもう存在しない。
彼の中に「痛み」を考慮する思考はもう存在しない。
男の手にあるのは、あの日折れたままの、無惨な剣の柄だけだ。
新しい剣を調達する時間さえ「非効率」だと切り捨てた彼は、魔王城の玉座の間でも、その柄を握りしめていた。
「そんな折れたガラクタで、何ができる」
魔王の嘲笑。
だが、男が記憶を対価として差し出すと、その柄から凄まじい密度の光が溢れ出し、かつての刀身よりも長く、鋭い「虚無の刃」を形成する。
「……標的、確認。……排除する」
男が地を蹴った。
その速度は、肉体の限界を完全に無視した神速。
魔王の爪が男の肩を深く抉り、骨が砕ける音が響く。だが、男は眉一つ動かさず、その一秒を利用して魔王の懐に剣を突き立てた。
「が……ぁっ!? 貴様……狂っているのか! 自分の命さえ……!」
「……命。勝利に必要なリソースに過ぎない」
男は、さらに深く踏み込む。
背後の扉からは、リリーたちの絶叫が届いていた。
「アル! もういい、もういいから!!」
「頼む、戻ってきてくれ!! アルバス!!」
その「名前」を聞いても、男の心は少しも揺れなかった。
彼にとって、その響きは「自分を指す記号」ですらなくなっていた。
そのとき、魔王が最後の手に出る。
空間そのものを凍てつかせる絶対零度の魔力。
だが、男はその極寒の中で、自分の中に残った最後の一滴――「生きていたい」という本能そのものを悪魔に投げ与えた。
「……あぁ、全部やる。……終わらせろ」
「ク、ククク……最高だよ!! さあ、これが本当の最後だ!!」
悪魔の叫びと共に、男の剣が白銀の、否、一切の色を持たない「無」の光に染まった。
その光は、魔王の心臓を、その存在そのものを、因果律ごと消し去っていく。
「……馬鹿な、この、私が……名もなき、空っぽの、人間に……」
魔王が灰となって崩れ落ち、城全体を支えていた魔力が霧散していく。
玉座の間を埋め尽くしていた闇が、夜明けの光に溶けるように消えていった。
静寂。
ただ、冷たい風が吹き抜ける音だけが響く。
「……アル?」
リリーが、震える足で歩み寄る。
そこには、魔王の玉座の前に、立ち尽くしている一人の男がいた。
剣を杖代わりにし、全身から血を流しながらも、彼は確かにそこに立っていた。
「アル! よかった、生きて……!」
リリーが泣きながら彼の手を握った。
男がゆっくりと首を傾け、自分を握るリリーの指を、見た。
「……あぁ。……終わったのか。……敵は、消えたか」
その声には、勝利の喜びも、安堵も、何もなかった。
ただ、仕事を終えた機械が停止する直前のような、乾いた余韻。
「……アル、私だよ。リリーだよ。わかる? グレンも、セレスもいるよ」
リリーが彼の顔を覗き込む。
だが、その澄み渡るような瞳の中に、リリーの姿は映っていなかった。
いや、映ってはいるが、認識されていない。
「……リリー。……それが、君の名前?……いい名前だね」
男は、生まれて初めてその名を聞いたかのように、穏やかに微笑んだ。
それは、かつての「アルバス」が一度も見せたことのない、あまりにも純粋で、あまりにも空虚な、微笑みだった。
「……俺は、誰だ」
男は、自分の手のひらを見つめ、不思議そうに呟いた。
魔王を倒し、世界を救った勇者。
けれど、その勝利と引き換えに、彼は「アルバス」として生きた一秒一秒のすべてを、永遠に失ってしまった。
玉座の間に、朝日が差し込み始める。
世界は救われた。
けれど、目の前にいる男が誰なのか、それを知る者は、もうこの世界にはリリーたち三人しか残っていなかった。
「……さあ、帰ろう。……名もなき、英雄さん」
セレスが杖を抱きしめ、声を殺して泣いた。
彼らが歩き出す足音だけが、空っぽになった城の中に、虚しく響き渡っていた。




