消失
「……アル、待って……!」
大階段を一段、また一段と踏みしめる彼の背中に向かって、リリーが震える声を絞り出す。
彼が階段を上るたびに、彼の歩取りは不気味なほど軽くなっていく。
「くくく……。ついにここまで来たね。さあ、最後だ、勇者様。扉の向こうには魔王がいる。今の君なら勝てるかもしれないが、確率は五分だ」
影から這い出した悪魔が、アルバスの肩に腕を回すようにして囁く。
「勝率を百パーセントにしたいだろう? ……なら、最後の一粒をよこしなよ。……君の中にある『自分自身の記憶』のすべてを」
それは、自分が「アルバス」という名であったこと。自分が誰に愛され、誰を愛してきたか。今日まで自分がどんな道を歩んできたかという、彼という人間を繋ぎ止めている最後の「核」だった。
「アル、ダメ!! 絶対にダメ!!」
リリーが階段を駆け上がり、アルバスの鎧に縋り付く。
「私のことも、グレンのことも、セレスのことも……全部忘れて、一人ぼっちになっちゃうんだよ!? 勝利に、そんな価値なんてない!!」
グレンも、セレスも、その言葉に息を呑み、彼を見つめる。一秒。
「……自分、の、記憶」
アルバスは足を止め、空虚な瞳で自分の掌を見つめた。
そこには、かつてリリーと繋いだ手の温もりも、グレンと肩を組んだ時の重みも、セレスに癒やしてもらった時の安らぎも、もう「感情」としては残っていない。ただ、冷たい指先があるだけだ。
「……あぁ。いいだろう。持っていけ」
「アル!!」
「……俺という存在が消えても、魔王が消えれば、世界は残る。……俺の記憶など、平和な世界には不要だろ?」
アルバスの脳裏で、何万という記憶の断片が、真っ白な光の中に溶けて消えた。
母親の優しい声。
初めて剣を握った日の高揚。
リリーと笑い合った草原の匂い。
仲間たちと囲んだ温かい食卓の湯気。
それらすべてが、凄まじい魔力へと変換され、彼の体から溢れ出す。
「……あ、……ぁ……」
リリーは、アルバスの体から放たれる圧倒的な光に押し戻された。
その光の中心に立つ男は、もはや「アルバス」ではなかった。
彼は、自分がなぜここにいるのかを知らない。
自分が誰であるかも、目の前で泣き崩れている少女が誰であるかも、分からない。
ただ、「目の前の扉を開け、中にいる敵を屠る」という、魂に焼き付けられた純粋な命令だけが、彼を動かしていた。
「……扉を、開ける」
感情を完全に喪失した、無機質な声。
彼は一度も振り返ることなく、玉座の間へと続く巨大な扉に手をかけた。
一秒。扉が開く。
リリーたちの叫びが、無情な風にかき消される。
自分という存在のすべてを燃やし尽くし、ただの「勝利の兵器」へと成り果てた勇者が、魔王の待つ最深部へと足を踏み入れた。




