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白紙の叙事詩  作者: ムラサメ
本編
12/16

最適解

絶望の峠に、不気味なほどの静寂が訪れる。三千の魔王軍が塵と消えたクレーターの中心で、アルバスは一度も振り返らずに歩き出した。


「待って……アル! お願い、止まってよ!」


 リリーが叫び、崩れかけた斜面を滑り落ちるようにして彼に駆け寄った。一秒。彼女がアルバスの腕を掴む。だが、その腕は生きている人間とは思えないほど冷たい。


「……離せ。一秒の遅滞が、魔王の回復を許す」


 リリーが詰め寄るが、アルバスは視線すら合わせない。その瞳は、ただ最短距離で魔王城の門へと続く「最適解」のルートだけを凝視していた。


「……行きましょう。私たちが、この人を支えなきゃ。……この人が、自分ですらなくなった後でも、私たちが『アルバス』を覚えていれば……まだ、やり直せるかもしれないから」


 セレスの悲痛な決意に、リリーもグレンも唇を噛み締めた。


ナギの村を後にした一行の前には、草木一本生えない「死の荒野」が果てしなく続いていた。

 魔王城までは、最短ルートを突き進んでも馬で三日はかかる。だが、今のアルバスには、その「三日」という時間さえも惜しかった。


「……アル、少し休もう? もう丸一日、一睡もしてないじゃない」


 リリーが隣で馬を寄せ、縋るように声をかける。

 アルバスの横顔は、彫刻のように動かない。彼の視線はただ、地平線の先にある禍々しい雲だけを見据えていた。


「休めば、それだけ魔王の魔力は回復する。……一秒の猶予もない」


 その声は、かつてリリーと将来を語り合った温かな響きを完全に失っていた。

 

 その時、セレスが馬を止め、鋭い咳き込みを見せた。

 荒野の毒気に当てられたのか、彼女の顔色は土色に近い。聖女の加護をもってしても、休息なしの強行軍は限界だった。


「セレス……! 大丈夫!?」


 グレンが慌てて彼女を支える。

 だが、アルバスは振り返ることさえしなかった。


「セレスを休ませる時間は計算に入っていない。……グレン、お前が彼女を担いで走れ。速度を落とすな」


「てめぇ……! セレスがこんなに苦しんでるんだぞ! 少しは人間らしい心を持てよ!」


 グレンの怒声が荒野に響く。

 アルバスは、ゆっくりと馬を止めた。そして、機械的な予備動作のように首を傾げ、グレンを見た。


「『人間らしい心』……? それが、この行軍の成功率を何パーセント上げるんだ?」


「何……だと?」


「俺は知っている。セレスが幼い頃、俺の傷を治してくれた時の手の温もりを。……だが、それを『愛おしい』と感じた時の心の動きが、どうしても思い出せないんだ。……データとしては存在するが、今の俺にとっては、前進を妨げるノイズでしかない」


 アルバスの告白は、あまりに静かで、絶望的だった。

 彼は知識として「仲間を大切にすべきだ」と理解している。だが、それを実行するための「感情というガソリン」が、もう一滴も残っていないのだ。


「……悪魔。出てこい」


 アルバスの呼びかけに応じ、影からあの歪な存在が這い出した。


「お呼びかな、勇者様。……おや、お疲れのようだね。三日の道のりを、一瞬で踏破したいかい?」


「あぁ。……対価は何だ」


「くくく……。そうだね。君の『セレスと、あの修道院の裏庭で将来の平和を誓い合った』記憶を。それを差し出せば、君を魔王城の門前まで一足飛びに運んであげよう」


「アル、やめて!!」


 セレスが叫ぶ。その記憶は、彼女にとっても生きる希望そのものだったからだ。

 だが、アルバスの瞳に迷いはなかった。

 彼は一秒一秒、自分を切り売りすることに、もう何の痛みも感じなくなっていた。


「……持って行け。平和への誓いなど、平和を実現してしまえば不要なものだ」


「交渉成立」


 ――瞬間。

 セレスの脳裏に焼き付いていた、幼いアルバスとの約束の情景。夕暮れの中で指を絡ませ、二人で泣き笑いした、あの宝石のような時間。

 それが、アルバスの魂からパチンと弾けて消えた。


「……あ、あぁ……」


 セレスが胸を押さえて崩れ落ちる。

 それと同時に、一行の視界が歪み、空間が捻じ曲がった。

 次に目を開けたとき、彼らの目の前には、空を突くような黒い鉄門がそびえ立っていた。

 魔王城――。

 三日の道のりを、彼は「セレスとの絆」を燃やすことで一瞬で焼き切ったのだ。


「……着いたぞ。ここが、終着点だ」


 アルバスは馬を降り、城門へと歩き出す。

 その背中は、もはや一人の少年ではなく、ただ「勝利」という目的を完遂するためだけに精錬された、血の通わない鋼の刃そのものだった。

 彼が歩を進めるたびに、リリーたちの知っている「アル」が、世界のどこからも、そして彼自身の中からも、永遠に失われていった。

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