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白紙の叙事詩  作者: ムラサメ
本編
10/16

絶望の峠

セレスから真実を聞かされたリリーとグレンは、激しい衝撃に突き動かされていた。


「……何よ、それ。自分の記憶を売って、あんな力を使ってたっていうの……!?」


リリーの声は震え、膝から崩れ落ちそうになる。グレンは怒りに任せて、宿舎の壁を殴りつけた。


「あのアホが……! 一人で全部背負い込んで、勝手に消えていくつもりかよ! ふざけんな、そんなの勇者でも何でもねぇ!」


二人はすぐさま、アルバスを力ずくで拘束してでも契約を止めさせるべく、彼の部屋へと走り出した。もう「勇者」なんて役割はどうでもいい。ただ、自分たちの知っている、不器用で優しい「アルバス」を取り戻したかった。

だが、彼らが部屋の扉を荒々しく開けたとき、そこにはもう、人の気配はなかった。

窓が開け放たれ、夜風が冷たく吹き込んでいる。

そこには、アルバスの持ち物も、彼が身につけていた装備も一切残っていなかった。


「……いない。もう、行っちゃったんだわ」


セレスが窓の外を見つめて呟く。

机の上には、一枚の書き置きだけが残されていた。

そこには、以前のアルバスならもっと迷いながら書いたであろう、淀みのない、しかし血の通わない端正な字が並んでいた。


『ナギの村の戦果により、魔王軍の主力が西の「絶望の峠」へ移動した。今が叩き時だ。俺一人の方が機動力がある。君たちはここで休養を取り、カシム閣下の指示を仰いでくれ。……効率を考えた結果だ。心配はいらない』


「心配はいらない……だと……?」


グレンがその紙を握りつぶす。


「ふざけるな! また一人で、何を差し出すつもりだ!」


アルバスは、仲間たちが自分を止めに来ることを「予測」していた。そして、それが作戦の遅滞に繋がると判断し、感情が入り込む隙を与える前に、一人で次の戦場へと発ったのだ。

その頃、アルバスは月明かりの下、馬を飛ばしていた。

「絶望の峠」――そこは険しい断崖が続く、魔王領への入り口だ。


(……足が、軽いな)


アルバスは、自分の心に開いた穴が大きくなるたびに、体が機械のように精密に、そして軽やかになっていくのを感じていた。

グレンと夢を語り合った記憶を失った今、彼を待つ必要性は感じない。

リリーを愛おしんだ記憶がない今、彼女を危険から遠ざけることが「正解」だと、冷徹に割り切れる。

彼は、懐にある粉々の花を道端に捨てた。

今の彼には、もうそれを持ち続ける理由さえ思い出せなかった。


「……さあ、次の『代償』は何かな、アルバス?」


影から現れた悪魔が、彼の馬に並走して囁く。


「……何でもいい。勝てるなら、すべてをやる」


アルバスの瞳は、もはや濁ることさえなく、ただ氷のような純粋な殺意だけを宿して、暗闇の先を見据えていた。




「絶望の峠」と呼ばれるその場所は、切り立った断崖が続く、魔王軍の喉元に位置する難所だ。

 アルバスは一人、月明かりに照らされた険しい道を進んでいた。前方には、峠を埋め尽くすほどの魔王軍の軍勢が、黒い絨毯のように広がっている。


「……分析完了。敵数、約三千。地形、不利」


 アルバスは、もはや恐怖を感じる回路さえも摩耗していた。

 かつての彼なら、この絶望的な状況を前にして「みんな、無事でいてくれ」と仲間の顔を思い浮かべたはずだ。だが今の彼には、その「勇気の源泉」がどこにもない。


「勇者よ、一人で死にに来たか!」


 魔王軍の先遣隊が、咆哮とともに一斉に飛びかかる。

 アルバスは剣を抜いた。

 だが、その剣筋にはかつての「迷い」も「必死さ」もない。ただ、敵の急所を最短距離で貫く、冷徹なまでの最適解。


「……邪魔だ」


 一太刀ごとに魔物の首が飛ぶ。

 しかし、数は三千。アルバス一人の体力では、いかに技が冴え渡ろうとも限界はすぐに訪れる。傷が増え、視界が血で染まり始める。


「くくく……いいよ。実にいい」


 傍らで、悪魔がうっとりとその光景を眺めていた。


「三千を屠る力。この峠を消し飛ばすほどの奇跡。それが必要だろう? アルバス」


 アルバスは膝をつき、肩で息をしながら悪魔を見上げた。

 頭の片隅で、微かな警告音が鳴っている。これ以上差し出せば、自分の中に「自分」を繋ぎ止めるための核がなくなる、と。


「……何を持っていけば、足りる」


「そうだね。……君の『いつか魔王を倒して、この戦争が終わった後にやりたかったこと』の記憶。これをもらおうかな」


 それは、アルバスが勇者として、地獄のような戦場を生き抜くための唯一の「希望」だった。

 魔王を倒した後に見たかった景色。リリーと、グレンと、セレスと、笑いながら過ごしたかった穏やかな未来の青写真。そして、リリーとの………。


「……あぁ、いい。そんなものは、今の俺には必要ない。平和になれば、誰かが勝手に享受すればいいことだ」


 アルバスは、自らの未来を切り取って悪魔に投げ与えた。

 ――瞬間、彼の視界から「未来の色」が消えた。

 

 自分たちが何のために戦っているのか。戦った後に、どんな幸せが待っているのか。

 それを想起させるすべての感情が消滅し、残ったのは「目の前の敵を殲滅する」という、ただ一つの純粋なプログラムだけ。


「『終焉の閃光(ラスト・レクイエム)』」


 アルバスの剣から、夜を白昼に変えるほどの膨大な光が放たれた。

 峠の地形を削り取り、三千の軍勢を一撃で霧散させる、神の裁きにも似た力。

 爆風が収まった後、そこにはただ、広大な空洞と、静寂だけが残っていた。


「……勝ったぞ」


 アルバスは血まみれになりながら、虚無の瞳で空を見上げた。

 もう、魔王を倒した後の喜びも、平和な世界で誰と過ごしたいかも、何も思い出せない。

 彼はただの、意思を持たない「勝利の兵器」へと完成しつつあった。

 ――その時、背後から激しい馬の蹄の音が聞こえてきた。


「アルバスッ!!」


 グレンの怒鳴り声。

 追いかけてきたリリーたちが、崩落した峠の縁に辿り着いたのだ。


「待って、アル……! 行かないで!」


 リリーが馬から飛び降り、彼のもとへ駆け寄ろうとする。

 だが、アルバスはゆっくりと振り返り、彼女たちを冷たく突き放すような目で見つめた。


「……なぜ来た。俺は一人で問題を解決した。お前たちは、レギウムに留まるのが効率的だったはずだ」


 その言葉を聞いたリリーの足が、止まる。

 彼女の目には、敵を三千倒した英雄ではなく、自分たちが愛した「アル」の抜け殻が、そこに立っているようにしか見えなかった。

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