欠落のプロローグ
剣は、もう刃としての形を保っていなかった。
何度も受け止め、何度も振るい、最後には魔獣の骨に叩き折られた。それでも勇者アルバスは、柄だけになったそれを手放さなかった。
足元には、死の淵を彷徨う仲間たちがいた。
祈りを途絶えさせた僧侶、震える手で杖を握る魔術師、泥を噛んで倒れ伏す戦士。
――全員、生きている。
それが、何よりも残酷だった。自分が弱いために、彼らに「死よりも長い苦痛」を強いている。
「……すまない」
アルバスが絞り出した声に、返る言葉はない。そのとき、空気がひび割れるように歪んだ。影のように薄い存在――悪魔が、アルバスの絶望を餌に姿を現した。
「力が、欲しいだろう」
その問いに、アルバスは迷わなかった。迷えるほど、彼の持ち時間は残されていない。
たとえ魂を売って泥を啜ることになっても、足元に転がるこの温もりを失うことだけは、あってはならなかった。
「……欲しい。俺の命なら、くれてやる」
「いいや。命などいらない。死は、世界にありふれているからな」
悪魔の細い指が、アルバスの胸に触れる。冷たい。凍えるような冷気が、皮膚を透過して魂を撫でた。
「代償は、君の『幸福な記憶』だ。君を君たらしめる、眩しい光の欠片たち。それを、力を使うたびに一つ、私に捧げてもらう」
家族の笑顔。出発の日の風。仲間と分け合ったパンの味。
アルバスは唇を噛み、溢れる鉄の味を飲み込んだ。その一つひとつが、自分の命よりも重いものだと分かっていたからだ。
「……選べないのか?」
「そう。無作為だ。だが安心していい。君は、自分が何を失ったかさえ、すぐに思い出せなくなる」
それは慈悲を装った、最悪の宣告だった。
アルバスは、ゆっくりと背後を振り返った。そこには、薄らと目を開けた術師の少女が、震える手で自分を呼ぼうとしていた。
その少女と、初めて目が合った時の、あの胸の高鳴りを忘れる。
共に戦い、背中を預け、やっと見つけた「居場所」の温度を、自分だけが失う。
「……いい取引だ。俺が忘れても、こいつらが生きるなら。世界が続くなら」
アルバスの声は、もはや他人事のように静かだった。
「契約成立」
悪魔の影が伸び、アルバスの体を包み込む。
その瞬間に交わされた契約。アルバスの胸に冷たい何かが触れ、「何か」が、ふっと霧散した。
「……今、何を」
「君が、初めて仲間と心から笑った夜だ」
悪魔は淡々と告げた。
知識としては残っている。あの日、焚き火を囲んで下らない冗談を言い合った事実は覚えている。だが、その時に感じたはずの胸の熱さ、仲間たちの笑顔が愛おしいと思った感情だけが、すっぽりと抜け落ちていた。
「……そうか」
アルバスは折れた剣を握り直した。
その刹那、彼の全身から、これまでの劣勢を嘲笑うかのような膨大な魔力が噴き出した。
「行くぞ」
視線の先にいた魔獣の群れが、一斉に飛びかかってくる。
かつてのエルムなら、仲間の位置を確認し、防御を固め、生存率を計算しながら慎重に動いただろう。だが、今の彼を動かしているのは、純粋で無機質な「殲滅の意志」だった。
「――散れ」
エルムが空の柄を振り抜くと、そこには存在しないはずの「光の刃」が形成された。
それは刃というよりは、空間そのものを断ち切る絶対的な断罪の奔流だった。先頭の魔獣は悲鳴を上げる暇もなく、分子レベルで分解され、消滅した。
後続の群れが、仲間の死骸を乗り越えて迫る。
アルバスは左手をかざした。
「『白紙の裁き』」
彼の中から、また一つ記憶が消えた。
――幼い頃、母親に頭を撫でられた時の手の温もり。
その「温度」と引き換えに放たれた魔力は、冷徹なまでの白い閃光となって戦場を焼き尽くした。雷鳴のような轟音が響き、鉄を溶かすほどの熱量が、降り注いでいた雨さえも一瞬で蒸発させる。
それは「鉄の雨」が止み、代わりに絶望的なまでの「静寂」が訪れた瞬間だった。
数百いた魔獣の群れは、一瞬にして消え失せ、地面には深いクレーターだけが残されていた。
「アル……? 助かったの、私たち……」
魔術師の少女・リリーが、震える声でアルバスの背中に問いかける。
アルバスはゆっくりと振り返った。その顔には、先ほどまでの必死さも、仲間を想う悲痛な表情はなかった。
「よかった……本当に、よかった……」
リリーの小さな手が、アルバスの右腕をぎゅっと握る。この瞬間に、「守れてよかった」という安堵と、彼女への深い信頼が込み上げてきた。
「……あぁ。心配かけたな、リリー」
アルバスは声を和らげ、頭を軽く撫でた。
夜、生き残った四人は、辛うじて屋根の残っている廃屋で身を寄せ合った。
戦士のグレンが、包帯を巻かれた腕差し出してきたのは、アルバスがいつも「これだけで3日は歩ける」と笑っていたパンだった。
「食え、アルバス。お前の大好物だろ。……しかし、さっきの魔法、凄かったな」
グレンが笑いかけてくる。
エルムは、そのパンを一口齧った。村のパン屋の老婆が、出発の時に「頑張ってね」と手渡してくれたハーブ入りのパン。美味しい。
だが、それはただの「事実」に過ぎなかった。
この味を噛み締めるたびに込み上げていた「故郷への未練」や「必ず帰るという決意」が、どこを探しても見当たらない。
(違う。こんなはずじゃない。俺は……まだ、アルバスだ)
アルバスは動揺を隠すように、パンを勢いよく飲み込んだ。
「……あぁ、美味いよ。やっぱりこれが一番だ」
努めて明るく、いつもの自分のトーンを模倣して答える。
グレンは「そうか!」と満足げに頷き、リリーも安心したように微笑んだ。
仲間たちは気づいていない。アルバスが、今、必死に「自分の記憶の目次」をめくって、そこにあるはずの感情を探していることに。
「……アル? どうかした?」
リリーが、じっとアルバスの横顔を見つめていた。彼女の「目」は鋭い。
エルムは一瞬、心臓が跳ねた。
「顔色も悪いですし、今日はもう休みましょうか」
と僧侶のセレスも助言をする。
「そうだな、少し疲れが残っているみたいだ。……明日に備えて、早めに休もう」
アルバスは焚き火から目を逸らし、横になった。
忘れたのは、ほんの一夜の、小さな感情だけのはずなんだ。生活には何も問題ない。仲間との会話も成立する。
でも。
目をつぶると、奪われた「焚き火の夜」の光景が、白黒の記録映像のように流れる。
自分は笑っている。仲間も笑っている。
でも、どうしてあんなに楽しかったのか、その「理由」だけが足りない。
(……この程度なら、耐えられる)
自分を鼓舞し、アルバスは眠りに落ちようとした。
だが、瞼の裏に焼きついた悪魔の嘲笑は、今しがた「アルバス」を演じた自分の嘘を、暗闇の底からじっと見つめ続けていた。
一歩、英雄へと近づき。
一歩、自分を失った。
その歩みの重さに、まだ誰も気づいてはいなかった。




