第九話 逃亡
街を出るつもりはなかった。
少なくとも、急ぐ理由はないと思っていた。
だが、違った。
路地を抜け、いつもの通りに出た瞬間、空気が変わった。
人の流れが、わずかに歪んでいる。
視線が合わない。
合っても、すぐに逸らされる。
「……」
足を止める。
足元で、スライムの揺れが止まった。
次の瞬間、前方の通りに黒衣が現れた。
一人ではない。
左右の路地からも、同時に。
包囲。
だが、武器は抜かれていない。
中央に立つのは、あの男だった。
監査官。
「召喚師+e」
名を呼ばない。
それだけで、理由は察せた。
「保護区画を離脱したな」
「ええ」
「想定より早い」
責める調子ではない。
事実確認。
「戻ってもらう」
「……戻らないと言ったら」
「拘束する」
彼は、周囲を見渡した。
逃げ道はある。
だが、追われる。
「ここで戦うつもりはない」
「賢明だ」
監査官が一歩近づく。
その瞬間、スライムが動いた。
広がらない。
張り付かない。
ただ、彼の影を濃くした。
周囲の空気が、わずかに揺れる。
「……何をした」
「何も」
本当だった。
だが、黒衣の一人が足を止める。
次に、もう一人。
進めない。
地面に何もない。
罠も、障害もない。
「前に出られない……?」
監査官の視線が、スライムに向く。
「退け」
命令。
彼は、首を振った。
「それは……」
言葉を選ぶ。
「増やしていい誤差じゃない」
一瞬の沈黙。
その隙に、彼は走った。
狭い路地へ。
曲がり角を二つ。
屋台の裏。
人混み。
追ってくる気配はある。
だが、距離が詰まらない。
足元で、スライムが遅れずについてくる。
揺れは、小さいが一定だ。
街の外れ。
倉庫街を抜け、川沿いへ。
そこで、初めて足を止めた。
息が切れる。
だが、立っていられる。
「……逃げた、な」
スライムは答えない。
彼は、冒険者証を取り出した。
職業欄を見る。
――召喚師+e(規格外)
その下、名前の文字が、薄い。
「……消えかけてる?」
風が吹き、紙が揺れる。
一瞬、文字が見えなくなる。
彼は、証をしまった。
「次は……」
考える前に、答えは出ていた。
初心者ダンジョン。
だが、もう“初心者”ではない場所。
「戻るしかないか」
足元で、スライムが揺れた。
それは、同意にも、覚悟にも見えた。
遠くで、鐘の音が鳴る。
街に、何かが伝えられている。
彼は背を向け、歩き出した。
その背後で、
彼の名前が、一つの記録から消えたことを、
誰もまだ知らない。




